四八九年九月九日、朝と雨のこと
ルスランの重装歩兵団が、一歩、一歩と地を揺らしながら進み出る。数は、千。千の兵にその分厚い鎧兜や
ラハウェリが中枢。ダムスクは工業。ノゴーリャは、流通と商い。この三地点を中心に、彼らは力を伸ばした。その結晶とも言えるのが今ルスランの身体を覆っているものであり、本隊と共に静かに原野に
彼らは、実質、国であった。それが、今から、ほんとうの国になろうとしている。
国には、当然、民がいる。民がいれば、その意思があり、声を持つ。それを統べるものが、国であった。そして、彼らのしようとすることは、それを集めて一つの流れへと導くことであった。
そのために、打ち壊さなければならない。それを、阻むものを。民が、ただ国の存続のために奪われるようなことを。その悪しき連環から逃れ、己のみを愛する不正を。腐敗を。それをする、人の心を。
そのため、彼らは、ありとあらゆる手段を用いて、ここに来た。それは全てが上手くいくことはなく、彼らの思う通りにならぬこともあった。それでも、それを彼らはひっくり返し、進んだ。
状況が極まれば、ナシーヤが用いる手段もまた激しくなった。龍が大きくなればなるほど、凶暴になればなるほど、それを止めようとナシーヤが手に込める力も強くなった。
ザハールが襲撃され、毒を受けた。ルスランが討たれかけ、火の中から辛うじて救出された。アナスターシャが襲われて毒を受け、左腕が効かぬようになった。
少しずつ、ナシーヤも、彼らの奥へ奥へと手を伸ばし、ついにその痛点を探り当てた。
ジーン。ベアトリーシャ。それがルゥジョーにより葬られた。報復に出たイリヤによってルゥジョーは死んだが、イリヤもまだ戻らぬ。
そして、この戦いの場に、彼らがこの国に存在する声を集め、流れとして放たんとするための最後の場に彼らを留まらせるため、サンスも死んだ。
この四八九年九月九日の朝、天は泣いた。
その滴を受け、彼らはゆく。
前へ。
ウラガーンという衆のためではなく、自らが求めるものを追い、それに手を伸ばすために死んでいった、あらゆる者の声を受け、彼らはゆく。
その滴が、ルスランの鎧の上で珠となり、流れ、墜ちた。
ナシーヤの、あの馬群。それに対する備えは本隊がした。しかし、それを使わせずに封じ、制することが出来れば、それに越したことはない。
そのためには、攻撃の手を休めぬことだ。後方のラーレの隊や本隊から飛んでくる矢が、重装歩兵団にも降り注ぐ。しかし、その鎧兜にとっては、天が墜とす滴と変わらぬほどのものでしかない。
矢も、雨も、なお強さを増す。その中で、ナシーヤが押し出してきた歩兵に、ぶつかり合った。
重装歩兵団は、同じ呼吸で斧を引き、同じ呼吸でそれを振った。一振りする度に、ナシーヤ歩兵の血と叫びが雨に混じり、降った。まるで、何かの儀式のようであった。
打ち付けられる槍も、彼らにとっては意味を成さない。無論、それに守られる一人ひとりは、耳の奥が破れるような死の囁きがもたらす恐怖と戦っているのであるが、それが彼らの足を鈍らせることはない。
ただソーリの海の潮が満ちるようにひたひたと押し、歩兵を崩してゆく。
「奴らめ、何がなんでも馬群を使わせぬつもりらしい」
海のように広がる歩兵を、小さな岩が砕く。ニコの位置からは、そのように見えていた。
「もとより、あれは一度きりの奇策。隙があれば無論再び用いるが、一度の戦いでそう何度も使えるものではない」
「押されていますな」
「押されている」
兵の練度は高く、装備も充実したウラガーンではあるが、王家の軍には長年に渡って培ってきた指揮系統と、熟練した将、そしてその手足のように動く数多の兵があった。現に、発せられた騎馬隊が押しに押してくる重装歩兵団を取り囲むようにして展開し、その足を鈍らせている。
そうなると、重装歩兵団は小さく固まり、針鼠のようになって武器を突き出すしかない。そのままそれを釘付けにしておく兵は割かなければならないが、進むことが出来なくなった重装歩兵団は、無いのと同じであった。
ナシーヤ騎馬隊を牽制するため、矢がなお強く射込まれている。それを耐えず動きながらかわし、付いては離れ、離れては付きを繰り返す。ニコが頭の中で描いた通りの運動である。
そして、矢を
「王家の軍の名に付けた傷を、ここで埋めることが出来ますな」
ロッシが率いていたとき、ザンチノは王家の軍に敗れている。そのことを言い、苦く笑った。
「行って参ります、若」
そう言って、この老雄と呼んでもおかしくない男は馬腹を蹴った。
ウラガーンはルスランの歩兵こそ重厚な装備を用いているが、騎馬隊においてはすべて軽騎兵であった。しかし、今から発するザンチノ直属の騎馬隊は、重装騎馬。それぞれが大振りな武器を持ち、盾を持ち、馬にも鎧を着せている。そのため運動は軽騎に比べてひどく遅く、馬の息も上がりやすいが、軽騎にはない突破力を持っている。
それが盾を雨に翳し、矢を避けながら、揉み合いのようになっている戦場の中央を通り過ぎ、ラーレの中軍に突き掛かろうという構えを見せる。そうすれば、ウラガーンも騎馬隊を発せざるを得なくなる。
右翼か、左翼か。
ザンチノが選び取ったのは、左翼に位置するサンラット。それに、狙いを定めた。
雨の滴を押し返すように、迫る重装騎馬隊。それが、ラーレを狙っている。サンラットは鉄棒を振りかざし、突進を命じた。
千のバシュトー兵が、五騎一列の隊形で疾駆する。矢を放ちながら回避運動を取るラーレの騎射隊を庇うような位置を目指す。
敵将。最前列にいる。
南で戦ったときに出ていた将だ、と分かった。ヴィールヒと僅かにやり合った、あの老雄であろう。
ここで討つ。そう思い定め、鉄棒を握り締めた。
ラーレの隊が楕円を描くようにして退がり、その重装騎馬隊の横合を突こうと戻ってくる。
「——無用」
サンラットは、簡素な兜の下、呟いた。鎖を編んだ帷子に染みた雨が、彼を濡らしている。
それが伝う、鉄の棒。
睨み付けた視線の、その向こう。
打ち砕くべきものに向かって。
国というものを、彼は、ほんとうの意味で初めて体験している。
人の業。
集まり求める世のために、国の意思に従って。
鉄の棒。それを慕うように付いていた滴が、ぱっと散った。
凄まじい唸りを上げてそれは旋回し、目指す敵将の左右の兵の頭を、兜ごと砕いた。
敵将が、馬上、大斧を振りかぶる。
遅い。それが降り降ろされるときには、雨の向こうに昇ったばかりの陽が沈んでしまうのではないかと思うほどに、遅い。
その先を制しようと、鉄棒を繰り出す。普通の敵ならばこれで頭蓋を砕かれるか、胸を突かれて馬から落ちるところであるが、その敵将は斧を振りかぶったまま身体を捻り、鉄棒から身を避けた。
老練の将らしく、戦いの気を、よく読んでいる。殺気に応じ、自らも知らぬうちに身体が動くのであろう。
そのまますれ違い、入り乱れる。
サンラットに続き、バシュトー騎馬隊が、特有の湾曲を持つ長剣を振り回しながら、次々とナシーヤ重装騎馬隊に突き入ってゆく。
どれほど、削れるか。
サンラットは、前方の敵を打ち払って自らの兵が入り込むだけの空隙を作ろうと、握る鉄棒をまた振るった。
そのとき、背後で、異様な気配。
まるで、雷が墜ちたかのような。
はっとして振り返ると、バシュトー騎馬兵の数人が、枯れ枝のように吹き飛んでいる。
続けざまに、もう一度。
天を揺らし、地を割るほどの咆哮。そして断末魔、さらに血。
あの老いた将だ。
その握る
止めに、入らなければ。
サンラットは自らに縋るようにしてまとわりつく敵兵を薙ぎ倒し、馬首を返した。
敵将は、サンラットを待っていたかのように、斧を引き付けている。
大切な兵である。誰もが、自らの求めるもののためにバシュトーに参加し、一つになっている。つい先頃まで、彼らは別の部族であったのだ。それが、国という依り代を得て、今、共に求めるための戦いをしているのだ。このようなところで、討たせるわけにはいかなかぅた。
鉄の棒。それには、尻も頭もない。柄も、刃もない。柄のように握っている方を繰り出し、それが蛇のように伸び、敵将を襲う。
それと交差するように、
互いに、墜ちる雨の粒だけを散らした。遅れて、風。
低く下げた頭の上を通り過ぎた巨大な刃越しに、サンラットは獲物を狙う豹のような眼を向けた。
瞬間。
敵将の身体が、いきなり大きくなったような錯覚。
迷走の傍ら、揺れぬようにと踏みとどまる心。
応じる。振りぬかれた勢いを押し返すようにして戻ってくる、刃に。
鉄の棒は、変幻自在である。繰り出したままの先端がそのまま剣に変わり、また戻ってきて柄になった。
それを立てて、自らを襲う竜巻から身を守る。こうして使えば、盾にもなる。
衝撃。
身体はそこに残して、もっと別のものが吹き飛ばされるような。いや、身体も、ちゃんと付いて来ている。
激しく、地に打ち付けられる。何度も転がり、泥にまみれ、雨に洗われ、また泥にまみれた。
落馬。
敵の将に、突き落とされたのだ。
サンラットを庇おうと、バシュトー騎馬隊が馬を寄せてきて、地に転がった身体を隠す。
「――やめろ」
叫ぼうとしたが、声にならなかった。傍らに落ちて、意思を失ったようになっている鉄の棒に手を伸ばそうとするが、全身が痺れたようになっていて、思うように動けない。
そうしている間に、また、バシュトーの者が、枯れ枝のように飛び散った。今まで、生きていた者が。南の地で暮らし、家畜の世話をするためだけに生きていた者が。食い物に飢えることなく、豊かな暮らしを自らに連なる者にさせてやりたいと願うだけであった者が。
その事実を巻き上げ、破壊し尽くし、暴れる風。
この老いかけた将を、甘く見ていた。
サンラットは、同じ姿勢のまま、死を覚悟した。
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