第一部 最終章 星の滴
最後の戦い、その前夜
ルスランも、死んだ。アナスターシャは、その亡骸を見て、泣き崩れた。
「ルスランは、示すために、戦ったのだ。示すために」
ザハールが、意味のない慰めを言い、その背に手を当てた。彼とて、眼に力を一杯に入れ、涙を流さぬようにしている。
亡骸を運んできたラーレは、何も言わず、ただ立っている。彼らは、動揺を見せてはならなかった。兵の前で、涙を流せなかった。それをすれば、兵は士気を落とす。将の気落ちは、兵の気落ちになるのだ。だから、彼らは平然とし、泰然と振舞わなければならなかった。
だが、アナスターシャだけは、その死を叫び、涙を流して悼むことが許された。彼女は、将ではない。そして、彼女の悲しみは、兵の心を揺らす。その悲しみは怒りになり、兵の中に渦を巻き、やがてひとつの方向に向かって放たれることであろう。
彼女は、ルスランとサンスという、誰からも愛された将の死の悲しみを、代弁した。思う存分、嘆いた。僅かな期間に、人が死に過ぎたのだ。ジーン、ベアトリーシャ、サンス、ルスラン。そして、多くの兵。正面からの激突のために、ウラガーンの死者は、二千を超えていた。それ以上の損害を、王家の軍に与えてはいる。彼らは、このサムサラバードという静かな原野に、その屍を積み上げていた。
全くもって、戦いというものは、何の生産性もない。彼らは、戦いが無ければ、どこかの街で働き、あるいは土を耕し、人の営みの一助となっていたかもしれない。子が出来、それがまた営み、子を成し、受け継いでゆくのかもしれない。戦いとは、そういう、人が持つべき営みの全てを奪う手段である。だから、戦いを避けてきたのだ。双方ともに。
もっと早い段階で、戦いが起きていてもおかしくはなかった。しかし、ニコはウラガーンが森の軍と自称していた頃も力でもって叩き潰すようなことはせず、ウラガーンもまたそれをさせぬように振舞ってきた。全ては、このように力と力をぶつけ、血で血を洗うような戦いを、避けるためであった。
無論、その行使なくして、世が革まることは少ない。しかし、それは最後の手段であり、その損耗は出来るだけ少ない方が良いのだ。
戦いにより荒れ果てた国。それを再生させるには、長い時間がかかる。焼けたものはまた建てればよいが、傷ついた人の心を癒すことは簡単ではない。そして、何をどうしたとしても、死者がまた蘇るということはない。
これは、彼らが望んで始めたこと。その悲しみを、理不尽を乗り越えた先にあるものを、得るために。
そのような悲憤に、龍が哭いた。打ち付ける雨が、彼らの涙だった。
その中で、哭かぬ龍もあった。それは、静かに、雨を見つめていた。
ふと、立ち上がる。
「後退する」
全員が、声を止めた。それに向かって、もう一度、言った。
「後退する」
サヴェフである。フードの奥で眠ったようになっている眼を、一度
「退く、のか」
ザハールが、かすれかけた声で言った。
「そうだ、退く」
サヴェフの眼は、変わらない。
撤退。ごく一部の人間を除いて、誰もが、後退という語を、そのように解釈した。突如として発せられたその語に戸惑ったが、サヴェフの言うのが正しい、と誰もが思った。軍を率いる十人の将のうち、四人までもが死んだのである。行方の分からないイリヤを合わせれば、五人になる。これ以上ここに留まり、戦いを続けるのは、無理なのかもしれない。
「退く」
ザハールが、また呟いた。それを、自らに得心させるように。暫くして、眼を上げ、強く言った。
「いずれ、立ち直る。そして、志を遂げる。そのために、今は退く」
ゆっくりと、サヴェフが、ザハールの方を向いた。
「――何を、言っている」
「だから、今は――」
「後退する、と言ったのだ」
全員が、息を飲んだ。
ヴィールヒとアナスターシャを除いた十人の将の筆頭格とも言えるこの参謀は、まだ、戦うと言う。多くの兵を死なせ、将をも失ったこの戦いを、まだ続けると言う。
その成算を、サヴェフは示した。
「用意した穴を、使う」
王家の軍の、車を曳いた馬群。それに備え、用意した落とし穴。子供のような着想ではあるが、非常に有効であろう。それを使うということは、王家の軍が、あの馬群を再び投入してくるということになる。
「本当に、またあの馬の群が来るのか」
ザハールが、信じられぬといった様子で言った。
「来る。必ず。だから、落とし穴を仕掛けた。悟られぬように」
「なぜ、そう言い切れる」
「ルスランが、死んだからだ」
「ちょっと、待て――」
ザハールの眼の色が、変わった。
「それでは、お前は――」
はじめから、ルスランが死ぬと思っていたのか。
はじめから、死なせるつもりだったのか。
あの馬群を、誘い出すために。
サヴェフは、答えない。
何も言わない。
ただ、雨の向こうを、見つめている。
「何という奴だ、お前は――」
ザハールが、詰め寄る。サンラットが制止しようとしたが、跳ね飛ばし、サヴェフの胸倉を掴んだ。
「何という奴なのだ、お前は。ルスランの、人の死を受け、何も心が動かぬのか」
サヴェフはザハールに少しだけ眼を向け、その激しい言葉を受けている。
「お前に、心はないのか。いつから、そうなった。出会った頃のお前は、もっと志に燃え、正しきことを追い、求めていた。俺は、そういうお前が、好きだったのだ。しかし、今のお前はどうだ。あの頃のお前が見て、今のお前を、どう思う。あの頃のお前が憎むような人間そのものに、なりはしていないか」
激しく揺さぶられながら、なおサヴェフの眼は眠ったようになったままである。
「――私は」
ぽつりと、滴が墜ちた。それは、言葉だった。
「正しきを行うまでだ。たとえ、それが、お前の思う悪であったとしても」
ザハールの手に宿る力が、少し緩んだ。
「いっときの感情で、善悪は語れぬ。いっときの価値で、人の生は測れぬ。強く、思い込むことだ。そうするうちに、それがほんとうのことであると、自分で思うことが出来るようになる。そう、私は思い込んでいる」
だから、とサヴェフは言った。
「この手を、離せ。私は、全軍に、後退を命じる。そしてルスランの死を得た敵が馬群を放つのを待ち、その虚を突き、葬り去る」
胸倉を掴まれたまま、鋭く声を上げた。
「ヴィールヒ!」
槍を支えにして座り込んでいたヴィールヒが、立ち上がった。
「仕上げだ。お前が死なぬ場を、作った。頼む」
「――わかった」
ただそれだけを言い、ヴィールヒは、歩き出した。
「サンラット!」
サンラットが、びくりと身体を震わせた。自らの名を呼ばれるとは、思っていなかったのだろう。
「迂回せよ。夜のうちに。馬には
そして、その眼を、自らの胸倉を掴み、見下ろすザハールに。
「ザハール」
静かな滴が、墜ちた。
「お前も、迂回するのだ。サンラットは、北。お前は、南からだ」
ザハールは、ようやくその手をサヴェフから外した。しかし、まだ躊躇いがあるらしい。
「アナスターシャを、死なせるつもりか」
追い討ちをかけるように、サヴェフが色のない表情で言った。
「退けば、我らは終わりだ。王家の軍はラハウェリに襲い掛かり、更に多くの者が死ぬ。恐らく、私も、お前も、そこで死ぬ。そして、アナスターシャは、王家の軍によって、ナシーヤに帰るのだ」
アナスターシャが、一歩踏み出した。
「それを、お前は受け入れるというのか」
不安げに翳る眼を鋭く見、言った。そしてその眼をザハールに戻し、続けた。
「アナスターシャは、そうなれば、自ら命を絶つ。そう思わぬか」
ザハールが、言葉に詰まった。
「あの頃とは、違うのだ」
暗くなってきた。陽が、落ちたらしい。薄暗い雨に、サヴェフの言葉が溶ける。
「あの頃のお前ならば、ここで私を斬ってでも、私の非を鳴らし、己を貫くことが出来ただろう。しかし、そのことに、意味はない。お前は、龍となって過ごした時間の中で、そのことを知った。違うか」
「ザハール」
サヴェフの舌鋒が鋭くなり過ぎる前に、ペトロが口を挟んだ。
「生きなければならない。ここで死ぬわけにも、ラハウェリで死ぬわけにもいかない。切り抜けるんだ。俺たちで。今は、そのことだけを、考えよう」
ザハールが、苦く頷いた。
「その後のことは」
ペトロの塗れた髪が、揺れた。
「そのときに、考えればいいさ」
何か、含みがある。
その正体が何なのか考えても、分からない。
陽が落ちて闇になり、雨は止んだ。アナスターシャは、ようやくこの原野に設置した雨避けの傘の下から出ることが出来た。
「もう、発つのね」
動く右手で、愛するザハールの手を、握っている。
「発つ」
「サヴェフが、怖い」
「案ずるな」
ザハールが、ふと笑った。それだけで、何故かアナスターシャは心が静かになるのを感じた。
「全てを見通す眼を持っているのだ。あの男は。そのために、人に憎まれ、恨まれるようなことがあったとしても、あの男は、それを厭うことはないのだろう」
「そう、ね」
「まったく、とんでもない男に、誘われたものだ」
あの日、ザハールを誘いに来た頃のサヴェフとは、何もかもが違う。しかし、根のところは同じなのかもしれない。もしかすると、サヴェフとは、自ら龍になり、人が背負うことの出来ぬ悪を背負うということをしているのかもしれない。
他の誰の背にも負えぬものを、一手に。それを、理解は出来る。だが、許せるかどうかは、分からない。
ペトロの言う通りだった。後のことではなく、今すべきことをする。それは、分かっている。
アナスターシャに向け、笑いかけた。
戦いよりも何よりも、まず、それをした。不安がる愛する人に、笑顔を見せる。そして、そっとその手を外し、額に口付けをした。
「必ず、戻ってくる。それまで、待っていろ」
アナスターシャもまた笑顔を返し、頷いた。
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