別れを告げる

「来るか、遂に」

「いよいよですな」

 王となろうとしている、ニコ。それを阻むのは、ウラガーン。この国のあらゆる人が二つに分かれ、どちらかを支持している。南北の国境地帯は、実際にウラガーンの実力と勢いを見たわけであるから、親ウラガーンに靡いている地域が多い。中央や東では、まだ親ナシーヤの姿勢を保つ地域が多い。だが、それらとて、反ウラガーンというわけではない。

 たとえば、ウラガーンが先もって王政からの開放を果たしたユジノヤルスクを攻めている、グロードゥカ。ユジノヤルスクを攻めている立場上、ナシーヤを支持してはいる。だが、反ウラガーンの姿勢を明らかにしてしまえば、ユジノヤルスクを攻める背後をウラガーンが突いてくるようなことも考えられるため、従来の王政を支持する、という姿勢を示すに留まっている。


「ザンチノ」

 王となろうとしているニコは、忙しい。内政を取り仕切る何人もの高官と打ち合わせをしなければならないし、各地の侯に使いを出したり、使者の応対をしなければならない。その上で、乱れた王家の軍の編成をも整え、ウラガーンに向けようというのだから、その疲労は極まっていることだろう。

 しかし、彼は、やる。何日も寝ていないが、それでも彼の頭脳は機敏に旋回し、その言葉は強く、必要があればどこへでも出かけた。その主を気遣うような視線を、ザンチノが向ける。

「一気に、決める。今年中だ。年が明けるまでには、決める」

 年が明ければ、ノーミル暦は四九〇年となる。その年に、ニコは王となる。急いでいるわけではない。大精霊が定めた、運命なのだ。そう信じている。


「俺は、王となる」

 ザンチノは、少し頭を下げた。

「ルゥジョーも、動くだろう」

 今、彼はウラガーンのどこかに潜入していて、を待っている。最後に会ったとき、少し様子がおかしかったのが気になった。しかし、彼ほど優秀な間諜はいない。十分に、時は与えた。ニコが動き出せば、彼も機を見、行動を再開するだろう。そして、それがもたらす効果は、王家の軍にとって非常に有利なものになるはずである。

 標的は、イリヤ。戦いに目を向けている間に、ニコ自身の首を刎ねに来られては、たまったものではない。そうでなくても、戦場の指揮官が気付いたときには死んでいた、というようなことになれば、戦いは乱れる。

 王家の軍、三万三千。周辺地方軍のうち親ナシーヤの立場を取っている侯が保有する武力のうち、動かせるものが一万九千。合わせて五万二千の兵力で、やる。


 対するウラガーンは、多く見積もっても、二万弱。ユジノヤルスクは一万近い武力を保有しているが、それはグロードゥカに応じることで動けない。二倍以上の兵力を保有しているのだ。負けるはずはない。ロッシはあっさりと敗れてしまったが、ロッシとニコとでは持つ軍才が違う。鉄壁のトゥルケン重装歩兵団を打ち砕いたような奇策。そして、ザンチノ率いる強力な騎馬隊。誰もが、王家の軍として、この国を守るということの誇りを持ち、戦場に立つ。自ら王家の旗の下に立ち、彼らを指揮してやれば、ウラガーンは粉砕されるはずである。


 これもニコの優れたところなのであろうが、彼は、それでも一抹の不安を抱いていた。こういう場において、負ける可能性を感じることが出来るというのは、平明に状況を見ているという証である。

 もし、ウラガーンが、また自分では思いもつかない策を講じてくれば。実際に、知らない間にそれが進んでいたとすれば。

 そうでなくとも、戦いの場において、ザハールやルスランといった実戦部隊が、想像を上回る精強さを持っていたとすれば。

 そうなれば、負ける。

 では、それをどう回避するのか。


 ニコが状況を危ぶむ要素は、いくらでもある。

 鉄や塩などの資源。誰も知らぬ間に、当たり前のようにしてウラガーンはそれを自らのものとしたり国外に横流して金に換えたりしている。それは、ナシーヤの国力を戦いの外において大きく削り、ウラガーンの力を富ませ続けている。

 彼らが、まだ焼き物を売っているとき、すでにその片鱗があった。彼らは、まず依って立つために、その地盤を求めた。これまでの歴史にあった多くの反乱軍は、街などを占拠し、そこにある資源や資材、そして金などを徴発することで存在を維持していた。しかし、ウラガーンは、違った。彼らは、自ら拠って立つ地を得、そこで生産を自ら行い、それを売ることでもって経済的基盤を得た。

 前例のないことであったから、当時のニコや他の王家の高官などにそれがどういう意味を持つのか読み取れるはずはない。だが、今になれば、あのとき気付くべきであった、とニコは思う。


 サヴェフ。あの男だろう。かつて、彼らが森の軍と名乗っていたとき、王家の軍との小競り合いにおいて勝利し、その勝利との引き換えにヴィールヒを開放するという交渉を行うとき、何度か会い、話した。小柄で、どこを見ているのかよく分からぬような眼の配り方をする以外は、さすがに森の軍を束ねるだけある、と感じる程度の男であった。

 先の先。それを、サヴェフはあの頃から見ていた。だから、ニコと眼が合わなかったのかもしれぬ。

 なにやら、面白くない。彼の思う通りに時間が流れ、彼の思う通りに物事が進んできた。その意味では、今自分がここにいることすら、彼の意図するところなのではないか、と思えてくる。


 だが、戦いを、やめるわけにはゆかぬ。

 彼らは、これまであった秩序を、壊そうとしているのだ。

 アナスターシャを奪い、龍に染め、この国を苛む死の病となった。国家にとっては是が非でも取り除かなければならない病であり、ニコ個人にとっては、妻となるべき人を奪った存在であった。

 戦う。そして、打ち滅ぼす。その先に、ほんとうの安寧をもたらす。その国でしか、人は奪われずに生きることは出来ない。


「兵糧、武具の準備は、整っております」

 ニコの思考が深くなり過ぎるのを察したのか、ザンチノが言葉を発した。

「そうか。蓄えに、問題はないな」

「ウラガーンが横流ししている量が、思いのほか多いため、余裕はありません。しかし、一度の戦いくらいでは、どうということもありません」

「そうか」

 戦いとは、国を疲弊させる。消費するばかりで、仮にウラガーンを討ったとしても、経済的な意味で国が潤うことはないのだ。しかし、心は違う。たとえ、経済的な犠牲を払ってでも、守らねばならぬものがある。ニコは、まだ王家の軍の将であった頃から、そう思い定めている。

「いつでも、進発できます」

 ザンチノが、胸の前で手を組んだ。それを見て、ニコは頷いた。

「ゆえに」

 老いかけた腹心は、少し笑った。

「今日は、これにてお休み下さりませ。もう、これ以上、お考えになることは、ありません」

 眠れ、と言う。ニコの精神と肉体を気遣ってのことであろう。戦いの場においてそのどちらかに不調をきたせば、死ぬ。ニコが死ねば、この国の希望も死ぬ。だから、眠らなければならない。

 ニコは、はじめて疲労を自覚した。そのあまりの深さに立ち上がるのも辛くなったが、色には出さず、ただいつものように苦笑を残し、自室へ戻った。



 横になったのかなっていないのか分からぬうちに、眠った。

 天から、滴が墜ちてきているのを感じた。それを浴びながら、舞う人影も。

 見上げれば、満天の星。今自分の頬を打っているのは、それが墜ちてきているのだ。視界の先の人影も、同じ滴を浴びている。

「アナスターシャ」

 その人影を、知っていた。だから、名を呼んだ。だが、アナスターシャが振り返ることはなかった。ただ滴を浴び、舞い、歌っている。

「アナスターシャ」

 聴こえぬのか、と思い、その肩を掴んだ。

 振り返った彼女の顔を見て、ぎょっとした。

 血。

 それで、彼女が濡れていた。そして、それを桃色に薄めながら、彼女の頬を滴が伝っている。見ると、彼女を掴む自分の手が、べっとりと血で濡れていた。彼女の身体は、見る見るその色に染まった。

「――どうして」

 やっと、彼女の声を聴くことが出来た。

 これが夢だと、分かっている。だが、夢でもよかった。彼女の声を、聴くことが出来たのだから。

「――どうして、わたしを」

「済まん、アナスターシャ。お前を、救えずにいる」

 自分の声が、聴き慣れない誰かのもののように感じた。彼女に詫びて、許される自分であるのか。彼女が、許すことが出来る行いをしたか。

「――どうして、わたしを」

 同じことを、繰り返し、彼女は言う。

「――どうして、わたしを、殺したの」

 そう言って悲しそうに笑う彼女は、左腕をだらりと下げ、右腕で見慣れぬ大層な剣を引きずりながら、背を向けて去ろうとした。ふと足元を見下ろすと、胴体がざっくりと割れ、死んでいる男。ザハールを討つため、刺客を放った。本当にアナスターシャを殺すつもりはなかったが、アナスターシャを利用し、目的のために使ったことに変わりはない。

 アナスターシャは、自分を恨んでいるだろうか。

 もう、二度と、この眼を覗き込んで、屈託なく笑ってくれることはないのだろうか。


 もしそうなら、それは死よりも悲しいことである。

 だが、致し方ない。

 死も、死よりも悲しいことをも乗り越えた先にあるものを、求めているのだ。

 だから、致し方ない。

 ただ、彼女が生き、彼女の生の中で、幸福であれば、それでよい。

 たとえ、自分が龍を打ち滅ぼすことで、彼女のそれが潰えたとしても。それでも、彼女がそのことを受け入れ、幸福に生きたと自らの生を振り返るなら。


「――さようなら」

 去ってゆく背に、呟いた。

 ウラガーンとどのような戦いをしたとしても、彼女だけは、殺させぬ。だが、たとえ彼女の身体を取り戻したとしても、もう彼女の心が戻ることはないだろう。

 それでよかった。

 だから、別れを告げた。

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