世界を注ぐ

 北のトゥルケンで発せられたウラガーンは、そのまま破竹の勢いで進撃を続け、四九九年の八月にはナシーヤ中央部に至った。それより少し早い六月末には、既にザハールとベアトリーシャの助けを受けたバシュトーが到着している。


 彼らは、巧妙だった。出来るだけ味方を、敵を損ずることなく、どうしても必要なときにのみ武力を用い、あとは外交でもって彼らの進軍路に龍と精霊と斧と盾のあしらわれた旗を立てた。


 外交と言うには、やや語弊があるかもしれない。たとえば、イリヤの隊や、ジーンを失ってその機能を弱めたとは言えなお活動を続ける隊——ジーンの隊は、指揮系統上はイリヤの隊に組み込まれて別部門のようになっている——が潜入し、街や軍事拠点に噂を流す。それは、往々にして反ウラガーンの姿勢を取る地域であることが多い。

「ウラガーンが王家を打倒した暁には、各地の候はそのままにし、なお中央との連携を強化させ、一層富ませるつもりらしい。各地の候が富まぬことには地域の安定はなく、それなくして国家の安寧はないと考えているらしい」

 とか、

「ナシーヤは、もう駄目だ。なんでも、ニコ様は、この度の騒乱の原因は、候の専横にあると考えておられるらしい。まあ、無理もない。そうでなければ、外敵をうちはらえず、内乱を治められなかったのは王家の軍の失策であるということになるからな」

 などという話を、民の間に植え付けた。植え付けるだけでなく、それを候や地方軍上層部にも聞こえるよう、確かな筋を通して流したりもした。


 それまで反ウラガーンであった地域の候のいくつかは、それで靡いた。この背景には数百年の長きに渡って続いてきたナシーヤの統治機構そのものの問題がある。


 ナシーヤとは、封建制のような形を取っている。各地の候は自領を我が物として統治し、それを王家がという形である。厳密に言うと封建制ともまた違うのであるが、政治論を展開するつもりはないので分かりやすくそう表記しておく。

 王家とはもともとこの地域に数多存在した国の一つに過ぎず、古代から時間の経過に伴い、その領土の豊かさがもたらす軍事力と生産力でもって近隣の諸国を併合してきた。その中には金髪に薄い色素の肌と眼を持つナシーヤ人以外の民族の国もあったが、そういうどもの国は特に激しく討ち滅ぼされた。今なお黒髪がこの国において、一種の叙情的感情を持ちながら迎えられ、同時に差別の対象になっているのにはこういう背景がある。


 やや話が逸れつつあるので戻すが、彼らは、ナシーヤとなってもなお、別々の国家としての性格を残し続けていた。その意味では王家もまた各地に存在する候のうちの一つに過ぎず、たとえば日本の天皇制や中国の帝政などのように、支配者だけが別格であると考えることはない。


 だから、王家は、別のものに、自らがこの地を統治するための正統性を求めた。

 それが、大精霊。人が生まれるその前からこの地を守り続けている大精霊が、王家に統治をしているという理屈である。

 であるならば、精霊の家を味方に付けたものが王になることが出来るという論理もまた成り立つ。それを防ぐため、精霊の家は権力に拠らずに独立した、いわば守護不入のような存在であると定義付けたのである。


 この構造を、ウラガーンは逆手に取った。

 権力に依らぬのであれば精霊の巫女の意思——ひいては大精霊の意思——で新たなを選んでもよく、ナシーヤがこの地上を統治するに値しないと判断したそれが新たに選んだものがウラガーンであるという構図に持ち込んだ。

 その裏打ちは、各地の候を動揺させた。


 そもそもが、そういう動揺の上にいるわけであるから、いかにウラガーンが勢力としては小さくとも、それに加担する理由があれば、彼らは靡く。

 王家を見限ることは、裏切りでも反逆でもない。なにせ、大精霊自身がまず率先してそれをしたのだから。



 これより何年も前のあの夜、アナスターシャを奪いにかかったのは、このためである。

 あの時点であったのは、この四九九年夏の情勢の核の部分のみであったろう。それが、時間の経過と共に起きる様々な出来事を取り込み、巧みにそれを旋回させ、自らに引き寄せてきたのは、ひとえにサヴェフの頭脳と、ペトロの作戦立案能力、そして将たちの力によるところが大きいだろう。


 彼らは、再び集った。

 はじめこそ、墜ちる滴のひとつでしかなかった彼らは互いに集まり、流れとなる。

 流れは、流れの向く方に流れる。それは、作戦や頭脳などではない。天地万物に課せられた法則であり、使命である。




 このとき、ウラガーンの兵は、一万七千。輸送や補給、諜報を行う役目の者を合わせれば、もっと多い。それが、彼らの中枢であるラハウェリに集まった。

「今、ここに」

 サヴェフが、声を発した。隣には、ヴィールヒと、アナスターシャ。

「今、ここに、我らは集った。ある者は怒り、ある者は悲しみ、ある者は求めている」

 彼らの軍門の中枢の中枢とも言えるこのラハウェリの広場に、小柄なサヴェフの身体から発せられているとは思えぬほどに強く、太い声が響く。


「我らは、ただこの地に集ったのではない。ここにある精霊の巫女のもと、我らは集ったのだ」

 アナスターシャが、憂いのある眼を上げた。兵は、それを食い入るように見つめている。

「大精霊の加護のもと、この旗のもと、我らは、いよいよナシーヤとの決戦に臨むこととする」

 どよめき。

 いよいよである。

 兵の視線が、アナスターシャから、首魁であるヴィールヒに移される。



 サヴェフの声を聴きながら、ヴィールヒは眼を細めた。

 南に身体を向けているから、この夏の陽射しが眩しいのだ。もしかすると、この眼はもう一生治らぬのかもしれない。

 べつに、眼が開いていようが閉じていようが、どうでもよいことだ。

 夥しい数の人間が、自分を見ている。それは、眼を閉じていても分かる。彼らは、自分を通して、別のものを見ようとしているのだ。


「求めよ」

 サヴェフの声が、また響く。それは頭上で轟く雷霆らいていのようであり、山の向こうで唸る遠雷のようでもあった。

 うっすらと開いている眼に、海が見えた。西のソーリの海しか見たことはないが、目の前にあるのも、海だった。

 それは、滴が集まって出来ていた。

「言葉を」

 サヴェフが、言葉を求めてきた。

 面倒だと思った。今まで、大勢の前で言葉を発するということをしてこなかった。しかし、人は、それを求めている。


「——海のようだな」

 率直に、思ったことを口にした。誰もが、全身を耳にして、それを聴いている。無論、一万七千もの人の全てに、その声は届かぬ。ヴィールヒは眼を背けたまま、張り上げるでもなく、ただ、言葉を発している。

「海のようだ」

 静まり返っている。鳥さえも、黙った。

「はじめ、滴だったのだろう」

 眩しい。光が、強すぎるのだ。

「それは集まり、流れとなり、注ぐ」

 耐え切れぬほどに、眩しい。

 これは、自分が望んだものなのだろうか、と思った。自分から全てを奪った国を、その骨の一本まで粉々にしてやりたいような衝動は今なおある。しかし、それは燃えるような感情ではなく、むしろ静かなものだった。あの牢の中で、時が流れているということをヴィールヒに教え続けたたったひとつのものである、滴のように。

 ここにいる全員が、何かを追い、思い描き、求め、示そうとしている。それこそが、生だと信じ込んでいる。


 では、自分は。

 何も追わぬ。なにも、感じぬ。ゆえに、何も、求めぬ。示すべきものもない。ただ、永遠に続く刹那の怒りを積み上げて、ここまで来た。

 孤独。それすらも、ない。

 悲しみ。何も持たぬのに、何を悲しむことがあるのだろう。

 だが、細めた視界の中にある海の、その滴のひとつひとつは、自分を通して、何かを追い求めているのだ。

 彼らは、生きている。

 自分は、もう生きることなど出来ない。

 

 国。

 人には、必要なものなのだろう。

 だが、ほんとうに、それが無ければ、人は生きてはゆけぬのだろうか。どちらにしろ、理不尽に人の生を吸い上げ、食らうことで自らの腹を満たすことしかせぬような国なら、無い方がましであろう。

 自分にとっては。

 自分は、奪われるものすら持たぬ。それならば、国がどういうものであろうと、自分には関わりのないことなのではないだろうか。

 いつも、考えている。考える度、思考は同じ場所ばかりを巡る。今さっきの自分が考えることと、今の自分が考えることは違うはずなのに、どうしても同じことのように思えてしまうのだ。


 ひとつ。

 ひとつ。

 ひとつ。


 ただ、数える。

 天井から墜ちる滴は、どれも同じようであって、その実、一粒ごとに発する音が違う。そのことに、あの牢の中で気付いた。それに意識を向けながら聴くと、それは歌のようだった。


 滴の歌。生きるものが、奏でる歌。

 自分にしか、聴こえぬのだろう。

 何故なら、自分は、生きてはいないからだ。死んでいないだけで。

 きっと、今ここにいる彼らがそれを聴くとき、彼らの生はない。


「俺は」

 自らの中に溜まった生の滴が、言葉になった。

「英雄ではない。そうなりたくもない」

 何故、自分のことを話すのだろう。それに、何の意味があるのだろう。

「今、思った」

 サヴェフの視線。何かを、期待している眼。この男は、いつもこういう眼で自分を見ている。

 別に、構わない。サヴェフとは、自分を知る、数少ない人間なのだ。彼は、自分が何を奪われたのかを知っている。彼もまた、奪われた。

 あるはずであったものを。あるべきものを。無くてはならないものを。

 そういう意味で、彼は、盟友だった。


 サヴェフほど強くあれれば。と思うことが無いわけではない。そして、サヴェフもまた、強くはないのだ、とも思う。どのみち、自分には出来ぬことを、彼はしている。自分に出来ることは、何一つとしてない。その彼が、自分に望むもの。


「器なのだ、と」

 言葉を、続けた。

「俺は、器なのだ。俺は、何も持たぬ。何も知らぬ。何も、得ぬ」

 ヴィールヒの声が届く範囲の人間の全てが、彼の言葉をどうにか心に取り入れようとしている。サヴェフの、眠ったような眼。ザハールの、燃えるような眼。その傍らのアナスターシャの、静かな悲しみを帯びた眼。ルスランの、誇りに満ちた眼。サンスの、挑発するような眼。イリヤの、冷めた眼。それと同じ色をしている、ベアトリーシャの眼。ラーレの眼に、敵意のようなものがあるのは、何故だろう。

 それぞれの色の滴が、ヴィールヒに満ちている。

「俺は、空っぽなのだ」

 苦笑するしかない。ほんとうに、何もないのだ。

「だから、俺は、俺という空っぽの器に、注がれるに任せるしかないのだ」

 何を。あらゆる眼が、彼にその続きを求めた。

「――世界を。それを、俺に注げ。そうすれば、俺は、何にでもなってやる」

 まだ、静寂は続いている。熱せられた石畳と人が発する陽炎が、揺れている。


 このナシーヤ始まって以来の力を持つ武装組織の首魁としては、あまりに頼りなく。追い、求め、示し、そのために戦う龍の牙としては、あまりに弱く。

 ただ、自らがこの地上に存在するということ自体を奪われた男が、そこに立っていた。それは、彼の言う通り、空っぽの器なのだろう。

 自ら、そこに滴を注ぐことは出来ない。だが、滴は、そこに墜ちてくる。だから、自然とその器は満ちてゆく。


「滴は、流れになる。流れは、その向くべきところへ向くのだろう。そうして、全てを壊し、押し流す」

 かつて夢で見た、血を浴び、踊る女。あれは、アナスターシャの姿であったのかもしれないし、別の誰かのものであったのかもしれない。

 紅い滴が、これから、彼を満たす。それが満ちたとき、彼自身が流れとなり、全てを壊し、押し流すものとなる。そういう光景が、細めた視界に映った。そのことを、口に出した。

「それは、さながら――」

 暴れる風。

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