黒を溶かす黒
また、話を北へ。
トゥルケン国内は、乱れきっている。ナシーヤの縮図のようでもあり、なれの果てのようでもあった。だから、簡単に
建て直すと言っても、サヴェフは、国家としての機能の回復までは求めなかった。ラーレは、自らの故地がナシーヤ打倒のための使い捨てにされるということについて何かを感じているのか。感じていたとしても、それを表には出さず、淡々と軍編成などの執務をこなしている。
国家の形など、歪んだままでよい。ウラガーンが求めるのは、トゥルケンの武力である。それをまたナシーヤに向ける。そのことだけを、望んでいる。そうすれば、次こそ、トゥルケンは本当に滅ぶ。そうなれば、ウラガーンがトゥルケンを吸収し、その人や国土の面倒を見てゆく。そういう計画であるらしい。だからラーレも無表情でいられるのかもしれぬが、ルスランなどは微妙な顔をしている。
「俺には、やはり、荷が重いな」
と、南に帰ろうとするジーンとイリヤに向かって言った。
「せいぜい、頑張ってくれ。あとのことは、俺は知らん」
イリヤは、例のごとく皮肉っぽく言った。このところ、やや目付きが変わってきている。だから、これまでと変わらぬ様子を見ると、ルスランは少しほっとした。
「もし、何か助けが必要になったら、言ってくれ。また、いつでも来る」
ジーンが、ルスランの分厚い肩をひとつ叩いた。
「あのとき、この人を助けて頂いて、ほんとうにありがとうございました」
まだ乳飲み子であるスヴェートを抱いたライラが、ジーンに笑いかけた。
「いい子に育つといいな」
そう言い残し、去った。
彼らは、また中央へと戻るのだ。
「俺たちも、忙しくなったもんだ。あっちに行き、こっちに戻り」
「犬や猫の真似をしているだけの方が、良かったか」
「いや、どちらが良いのか、もう分からなくなっているよ、正直」
道中、そのような会話をしている。
諜報部隊の者は、どこかへ散った。定められた日の定められた刻限に、彼らはまた中央に集合するのだ。ジーンとイリヤは、二人連れの旅人といった様子を装い、街道を歩いている。
「久しぶりに、女に会えるな。浮かれているんだろう」
イリヤが、皮肉っぽい笑いを浮かべて、ジーンに言った。
「そうだな。ほんとうに、久しぶりだ」
「向こうは、お前のことなど、忘れているだろうな」
「おいおい。何てことを言うんだ。忘れるものか、俺のことを」
ジーンは、ノゴーリャの商人の娘と、いい仲になっていた。その女はジーンをあちこちを旅する行商人だと信じていて、いつもその帰りを健気に待っているのだ。
「お前も、そろそろいい相手を探したらどうだ。血ばかり浴びていて、俺は心配になることがある」
「大きなお世話だ」
ベアトリーシャのことを、思い浮かべた。自分と同じ、黒髪の。自分は、その色に塗り潰され、押し潰されてきた生を送ってきた。ウラガーンとなってからも、イリヤは更にその色を深くしている。だが、ベアトリーシャは、ずっとその色に抗い、生きてきた。それを、イリヤは、とても美しいと思っていた。だから、惹かれるのかもしれない。
自分が持たぬものを、持つ相手。そんな風に、彼女のことを見ているのかもしれない。そういう感傷的な気分になったが、無論、色には出さない。真っ黒な外套に包まれ、北の初夏の頼りない陽に影を伸ばすのみである。
道中、ずっと、視線を感じていた。
害意はないし、殺気もない。ただ観察するようなそれに二人は気付いていたが、特にどうするでもなく、道を行く。
いつの間にかその視線も消え、二人はノゴーリャに入った。ジーンはまっさきに女のもとに飛んでゆき、戻ったことを告げた。
「ああ、イリヤさん。今回も、長旅、大変でしたね」
イリヤは、ジーンの商売仲間だと女に思われている。
「こいつがあちこちに商いの足を伸ばすものだから、一緒に行く身としては、辛いものがある。だけど、今回も、上手くいった」
と、適当に話を合わせてやる。
「じゃあ、俺はこのまま、ここに留まる。何かあれば、知らせてくれ。お前は、これからラハウェリに戻るのか?」
「ああ、そうする」
ジーンの帰るべき場所がここであるように、イリヤの帰るべき場所は、ラハウェリにあった。
街を出、そのまま一人、ラハウェリへの道を急ぐ。一人になると、足は軽くなった。ベアトリーシャに会える。そのことが、嬉しかった。どうせ、帰ったことを告げても、興味無げな顔をしながら、皮肉を浴びせてくるのだ。だが、ほんとうは、自分の帰りを心待ちにしてくれている。そう思えた。
原野で夜を明かし、また歩き、ラハウェリに入った。龍と精霊と斧と盾の旗が並ぶ下を、見慣れた軍装の兵が行き交っている。
まず、本営へ。
「トゥルケンのこと、ご苦労だった。しばらく、休め」
サヴェフは、イリヤを労った。このところ、血を浴びすぎている。しばらくの間、そういう暗い仕事からは解放されるらしい。
「本当に、助かった。策を立てたはいいが、あまりに大きすぎて、上手くいくかどうか、不安だった」
古い馴染みのペトロも、垂らした前髪の奥で笑っている。
「こそ泥が立てた策に従い、ゆすりの俺が、王を殺す。馬鹿げた話だ」
イリヤは、吐き捨てるように言い、そしてペトロに笑いかけた。
「夢の中にいるような気がする。この俺の剣で、ナシーヤとトゥルケンの、二人の王を殺すなど」
「大丈夫か、イリヤ」
ペトロが、やや表情を曇らせた。
「どうせ、夢の中の話さ。目覚めれば、俺は薄汚れた路地裏に捨てられたものを拾って食い、大通りを歩く金持ちを脅し、金を巻き上げる毎日を過ごすのさ」
ほんとうに、そんな気がしていた。
「そうなれば、俺はまた、屋敷を見張ることから始めないといけないな」
ペトロも、その冗談に応じた。
「――夢」
不意に、声がした。イリヤがはっとしてサヴェフの執務室の奥の暗がりに眼をやると、そこにはヴィールヒがいた。
「なんだよ、いたのかよ。驚かせやがって」
「夢、か。眼を開いていても、閉じていても、人はそれを見るのだろうな」
イリヤは、このよく分からぬ男が、苦手である。言っていることの意味が、いつも分からないのだ。それでいて、あとあとになってその意味が自分の中に落ちて来たりして、まるで、自分という人間がこの男に操られ、作り変えられているような感覚がする。
言葉数は、決して多くはない。いつも、眩しそうに眼を細めている。このときも、その表情のまま、
「夢から醒めるのは、いつなのだろうな。そのとき、何を見るのだろう」
とだけ言った。
「うるせえな、ものの例えだ。いちいち、突っ掛かって来るな」
イリヤは乱暴にそう言い、部屋を後にした。
その次に足を向ける場所は、決まっている。
「いるか」
室外で、そう声をかけた。応答はない。
「入るぞ」
まだ、陽が高い。彼女が普段詰めている、物作りの拠点になっているダムスクに行っているのかもしれないし、ここにいたとしても、工兵隊のところで作業をしているかもしれない。そう思いながら、ゆっくりと扉を開いた。
「――ベアトリーシャ」
室内は、彼女の匂いで満ちていた。硫黄や、炭の匂いである。それは、イリヤには、秋に咲く小さな花の匂いのように感じられた。その花の海の中に、ベアトリーシャは眼を閉じて横たわっていた。
美しかった。柔らかく閉じられた瞼も、無作為に乱れて投げ出された白い手も、彼女を護るようにして伸びた長い黒髪も。
イリヤは、その髪に触れようとしたが、触れられなかった。
だから、彼女の部屋の隅に、膝を抱えて座り込んだ。
そのまま、陽が暮れた。
暫くして、ベアトリーシャは目覚めた。身体に存分に伸びを与えると、物憂げにため息をついた。そして、辺りが暗いことを不審がり、いったい自分がどれだけ眠っていたのかを知る術を求めるような仕草を見せた。
「ずいぶんな寝坊だな」
彼女を驚かせぬよう、それでいて目一杯驚いてくれることを期待しながら、イリヤは言った。ベアトリーシャが、振り返る。
「昨日、寝てないの」
また、兵器か何かの開発だろう。帰営し、自室に戻り、少し横になったつもりが、眠ってしまったものらしい。
「なんだよ。驚けよ。つまらない女だな」
「あなたこそ、断りもなく部屋に入り込んで。最低ね」
いつものやり取りである。
イリヤは、自分を取り巻く血の匂いが、この花の匂いに塗り替えられてゆくように感じた。
「戻ったよ」
「性懲りもなく。いつ死ぬの?」
「さあな。誰かに、殺されるときかな」
イリヤが、口の端を歪めた。
ベアトリーシャの脚が、寝具を押しのけた。
「じゃあ、わたしが、殺してあげる」
「冗談じゃない。御免だね、そんなの」
「別の誰かに殺されるくらいなら――」
四つん這いになって、寝起きの重い身体を、近付ける。
「――わたしの手にかかって、死ねば?」
そのままイリヤの首に片腕を回し、額を付けた。
「来て」
イリヤは、言われた通りにした。
「起きたばかりだけど」
充血した瞳と、眠りの匂いが、イリヤを誘った。
「構わないさ」
そのまま、彼女の黒髪の中に、イリヤは自分の黒を溶かした。
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