血染めの巫女
「ニコは、どう出るだろうか」
ペトロが、呟いた。
「王として、この国を導いてゆくつもりなのだろう。崩れ行く砂の上の城にしがみ付き、必死で自らを支えながら」
サヴェフが、眠ったような顔をしながら言う。
「ならば、むしろ、国は良くなるのではないだろうか」
「ある意味では、そうだろう。しかし、本当の救いは、そこには無い。私は、そう考えている」
「本当の、救い――」
「ずっと、我々が産まれるずっと前に、この国は、滅びているのだ」
ペトロは、そう言うサヴェフの顎髭を見つめている。
「あるべきはずのものを、奪う。そのような国の上に、それをせぬ国を建てたとしても、それは、ベアトリーシャがいつも行っている
それを、ニコは分かっているのか。分かった上で、それをしようとしているのか。あるいは、見なければならぬものから目を背け、子供のように理想を追うのみであるのか。
ニコが、どう出るか。次に、何を求めるのか。北と南を巻き込んだ、明らかな反乱行動。それを受けたニコが、どう手を打ってくるのか。今は、じっと機会を待っている。
正直、ニコの国の形が出来上がってしまえば、たとえそれが鍍金だったとしても、それを崩すのには労力と犠牲が要る。やるなら、今なのだ。
ニコもまた、そう思っていることだろう。自らの国を建てる前に、憂いを絶つ。そうなった場合、真っ先に狙われるのは、アナスターシャ。サヴェフは、そう考えた。
「アナスターシャは、どうしている」
「ザハールと、一緒だ」
「そうか。それならば、滅多なことは無いとは思うが」
「気になるか、サヴェフ」
「ああ。ニコが、もし次に動くとすれば、我々から、人を削いでゆくことであろう。アナスターシャを奪われれば、我々はその日のうちに消滅するのだ」
急所を突く。そうやって、ニコはウラガーンを崩してくるかもしれぬという懸念を示した。
「だが、ザハールといつも一緒にいるアナスターシャに手を付けられる者など、いないだろう」
「だとすれば」
だとすれば、ニコは、どうするのだろう。サヴェフの思考は、そこに至っている。だが、そればかりは、ニコ自身に問いでもしない限り、分からない。だから、考えられることに対して、様々な予防線を張っておくしかない。
「北は、うまくいったようだ」
「ラーレとルスランのもとに、人が集まっているのね」
「そうだな。激しい弾圧に対する不満を、彼らは集めた」
「ルスランとライラに、赤ちゃんが出来たそうね」
「ああ、そうらしい。あの歳で、やるものだ」
ザハールは、笑った。
「とっても、良いことよ。どれだけ良い国を作っても、子が産まれなければ、その国は数十年で滅んでしまう。誰かのいのちが消えたあとも、それを受け継いでゆく子があれば、人の思いは、ずっと続いてゆくわ」
人は死したのち、大精霊の前で、自らの名を名乗る。
それは、自らが生きた証。そして人は、天にある星に、自らの知る人の名を与え、それがどのようにして生きたのか、語り伝える。それなくして、世は成り立たぬ、とこの清らかな女は言った。
アナスターシャも、もう二十を超えたことだろう。それなのに、いつまでも、この女は娘のようだった。ザハールも、アナスターシャが今なおニコのことを想っているということを考え、なかなか踏み込めないでいるらしい。
そんな二人の身辺に、変化があったのもこの時期である。そのことを、描く。
ラハウェリの本営の自室に一度戻ったザハールは、アナスターシャを訪ねた。ザハールというのは律儀というか真面目な男だから、陽が暮れてからアナスターシャの部屋を訪れるということはほとんど無い。この日は、まだ陽があるうちに調練を終えたから、この行動を取ったのだ。
「今日の調練も、大変だったみたいね」
「なんの。あれしきのことで音を上げるような兵は、実戦なら、真っ先に死ぬだろう」
「兵を死なせないため、調練で厳しくするのね」
「そういうことだ」
そんな、何気ない会話。
「ザハール様」
室外から、声がかかった。
「どうした」
ここに自分がいるということは、誰にも知らせていない。なぜ室外から自分の名を呼ぶ者があるのか不審に思いながら、ザハールはアナスターシャの隣から立ち上がった。
何の気なしに、扉を開いた。
瞬間、光。
咄嗟にザハールは掌でそれを叩いて流し、その光を放った者の喉を肘で突いた。
そのまま膝を折り、首を締め上げる。
その男は、見知った顔であった。半年ほど前にザハールの隊に入った、若い男であった。武器も馬ももう一つだったが、懸命に調練に耐えていた。
「――間者か」
雨の軍。咄嗟に、そのことを思った。この男は、隙をみて自分を暗殺するために送り込まれた、間者。
「殺せ」
男は観念したらしく、潰れた声を発した。
「誰に、命じられた」
その答えを受ける前に、男は、自らの舌を噛んだ。
それで、人はすぐには死なぬ。しかし、舌を噛み千切られてしまえば、どのみち尋問は不可能になる。ザハールは舌打ちをし、男の首を一息に捻り切った。
その背に、悲鳴。
力を失った男の身体を放り捨て、ザハールは床を蹴った。
腕を、伸ばす。
その先に、アナスターシャ。
どうやったのか、この三階の窓から室内に身を躍らせた三人の男。
それが、刃物を握っている。
しまった、と思った。今の男は、ザハールの注意を扉の方に向けるための捨て駒。本当の狙いは、アナスターシャなのだ。
涙の剣は、壁に立てかけてある。
それに向かって手を伸ばすより、アナスターシャに手を伸ばすべき。そう考えた。
ザハールの手がアナスターシャに伸びる前に、三人の男の剣が、アナスターシャに辿り着く。ザハールは、叫んだ。
だが、それより先に、アナスターシャの手が、涙の剣に伸びた。以前、毒を身体に流さぬため、ザハールによって左肩を抉られた。それから、彼女は左腕を思うように動かすことが出来ない。
右手で柄を握り、持ち上げる。
それはアナスターシャの細い腕には重すぎたらしく、鞘が床についたまま、アナスターシャの身体を引き寄せた。
それが、振り下ろされる剣から、アナスターシャを護った。
空を切る剣。
別の剣を避けるべく、アナスターシャが身を横飛びにさせた。
その弾みで涙の剣は抜き放たれ、一人の胴を薙ぎ払った。
ぱっくりと開いたそこから、夥しい量の血が噴き出て、アナスターシャの髪を紅く染めた。
ザハールが、ようやく、アナスターシャの身体に自らの手を触れさせた。
そのまま力強く引いて男から遠ざけた。勢い余ってアナスターシャは部屋の隅に吹き飛び、壁に背を強く打ち付けた。
ザハールの手には、アナスターシャを引き倒したときに彼女の右手から抜き取った、涙の剣。
「雨の軍か」
静かに、言った。二人の男は、答えず、構えを低くした。
もう一人は、血を床に流し、絶命している。
打ち掛かってきた。
ザハールは、龍の咆哮を上げた。
なんの謂れがあって、アナスターシャを傷付けようとするのか。
彼女は、もう十分すぎるほど、傷付いている。この上で、また彼女を傷付けようとするのか。
それが、許せなかった。
心から、魂から、
その咆哮は涙の剣を揺らし、二人の男を血の躯に変えた。
一人の腰から上が天井にぶつかり、落ちた。もう一人は、左の腰から右の肩近くまでを斬り上げられ、身体の中のものを室内にぶちまけた。
血染めのザハールは、しばらく剣を構えたまま、肩で息をしている。
少しして剣を手から離し、アナスターシャに駆け寄った。
「怪我はないか」
血に塗れたアナスターシャは、目を見開き、震えていた。
「大丈夫か、アナスターシャ」
強くその肩を揺らし、呼びかけた。呆けたようになっている目に、少し光が戻った。
「――ザハール」
「大丈夫か。怪我は」
べっとりと髪にこびりついた血を、拭ってやろうとした。しかし、それはザハールの手にこびりついた血と混ざり、滲んで伸びるだけであった。
「済まん。俺がついていながら」
「ザハール」
アナスターシャは、震える身体と声で、ぽつりと言った。
「わたし、人を、斬ったわ」
アナスターシャの知る人は、全員、それをしている。ザハールも、ルゥジョーと名を変えた弟のヴィローシュカも、そして、ニコも。だが、自ら人を殺めたことはなかった。
「お前が、気に病むことではない。そうしなければ、お前は殺されていたかもしれんのだ」
ザハールは、血に塗れた身体を、同じ色に染まるアナスターシャに寄せ、強く抱きしめた。
これだけ共に過ごし、心からそれを望みながら、はじめて、それをした。このような形で、はじめて。
自らが、血で汚れていると思っていた。だから、この穢れない清らかな存在に触れるのが、怖かった。
だが、今、アナスターシャもまた、同じ色に染まっている。だから、今だけは、その震えを止めてやるために、抱き締めてもよいはずであった。
「案ずるな。案ずるな。それでよいのだ」
なんども、そう耳元で呟いた。
アナスターシャが涙をこぼし、それが彼女の柔らかな頬についた血を、桃色に塗り替え、洗い流してゆく。
「済まん。お前に、このような思いを」
ザハールも、泣きたい気持ちであった。必ず守ると心に決めた。彼女の左腕が動かぬなら、自らが左側に立ち、彼女を守ることに生涯を使ってもよかった。それなのに、今、彼女は震え、涙を流している。
「済まん、アナスターシャ。済まん」
涙の剣が、彼女を守った。
自分は、無遠慮に敵を室内に引き入れた。
そして、彼女にこのような思いをさせた。それを、悔やんだ。
大変な騒ぎになった。サヴェフも、ペトロも、顔を真っ白にしている。
ラハウェリにいる主な者全てが呼び寄せられ、緊急の会議が開かれた。
「アナスターシャが、襲われた」
まず、サヴェフが、端的にそれを改めて告げた。
血染めのままのアナスターシャは、眼を伏せ、一点を見つめ、ザハールの衣服の端を掴んでいる。
「俺が、傍にいた。しかし、このようなことになった。詫びても、詫びきれん」
ザハールが、肩を落とす。
「いや、傍にいたのがお前でよかった、ザハール」
サヴェフが、ザハールに目をやり、言った。その目を、全体に向けた。
「ニコは、手段を選ばぬようになっているらしい。アナスターシャを奪おうとしてくることは、かねてから警戒していた。しかし、まさか、殺しに来るとは」
それは、サヴェフの想定を超える事態であった。アナスターシャがこのままウラガーンとして生き、ニコを阻み続けるくらいなら、いっそ殺してしまおうという腹なのだろう、と見解を述べた。
「考えを、改めなければならん。ザハールの隊の調練は、お前に任せる、サンス」
「俺で、いいのか」
「頼む」
サンスは、頷いた。
「ザハールには、暫くの間、片時も離れず、アナスターシャを護ってもらう。昼も、夜も、朝もだ。今、彼女を失うわけには、ゆかぬのだ」
「――構わぬか」
ザハールは、サヴェフにではなく、自らの衣を掴んで離さないアナスターシャを顧み、問うた。アナスターシャは、無言で頷いた。
「イリヤ」
呼ばれたイリヤは、眠そうな眼を上げた。ベアトリーシャと夜通し、朝になっても昼になっても求め合い、疲れているのかもしれない。
「お前は、雨の軍を洗え。徹底的に。そしてそれを率いる者を見つけ、殺せ」
「――わかった」
イリヤが、物憂げに頷いた。たまたま、という具合にそれとなくその隣に立っているベアトリーシャが、同じような表情で、言う。
「わたしは?」
「お前は、いつも通りでよい。ただし、身辺の警戒は怠るな。常に、複数の人間で行動しろ」
「アナスターシャみたいに、誰かが夜の間も付きっ切りで居てくれるのね」
といつもの調子で言い、口の端を引きつらせるようにして笑った。
「冗談を言っている場合ではない」
サヴェフには、こういう場で諧謔を述べる心境が分からぬらしい。
「イリヤ。ノゴーリャのジーンにも、このことを伝えろ。雨の軍を、共に探れ」
「分かった」
イリヤは、広間を後にした。
ベアトリーシャも、もう用事がないなら、行くわ。と言い残し、それに続いた。
「アナスターシャを、守れ。そこに、力を集中する。雨の軍だ。それを、どうにかしなければ」
サヴェフは、苛立っている。ずっと、世の中が、自分の思うとおりに旋回してきたのだ。それが、初めて裏切られた。
「私には、慢心があったのかもしれぬ。アナスターシャ。お前を襲ったものは、ある意味で、私の慢心が招いたものなのかもしれぬ。ここに、それを詫びる」
こういう筋は、しっかりと通す男だ。アナスターシャは、聞こえているのかいないのか分からぬような表情で、小さく頷いた。
「もう、行く」
ヴィールヒが、サヴェフの肩にひとつ手をやり、扉の方に足を向けた。
「サヴェフ。溺れるな。お前の焦りが、思わぬ綻びを生むのだ」
「分かっている。心を入れ替え、アナスターシャを守る」
「――違うな」
ヴィールヒが足を止め、少し笑った。
「どう違うと言うのだ、ヴィールヒ」
こうなると、サヴェフはうるさい。自らの納得を見るまで、決して追求をやめない。盟友ヴィールヒは、そのことをよく知っていた。だから、ただ苦笑を漏らし、
「なに、気にするな。だが、考えろ」
とだけ言い残し、さっさと退室してしまった。
アナスターシャを、直接狙う。これまでには、なかったことである。ニコは、本当にアナスターシャを殺してしまおうと考えたのか。
ザハールの身体を、彼女からほんの数ヴァダー(彼らの、距離の単位。一ヴァダーで、およそ〇.八五センチメートル)離すため、扉から刺客を一人入れた。その間に、窓から別の男が三人、踊り込んでいた。
もしかすると、このこと自体も、そのようなことではあるまいか。
だとすれば、ニコは、そしてそれを直接実行するルゥジョーは、どこを狙うのか。
サヴェフは、もしかすると、そのことも頭に置いているかもしれぬが、ザハールとアナスターシャには、そのような余裕はない。
ただ、暮れた闇を薄く照らす灯火に、二人でその姿を揺らしているのみである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます