ザンチノが見たもの
「さて。どう出る」
ロッシは、ナシーヤの南部に広がるなだらかな丘陵地帯の切れ目に作られたジャハディードの砦を、丘の上から眺めて舌なめずりを一つした。
「一息に、揉み潰してしまえばよいものを」
ザンチノは、ロッシがなかなか戦いに踏み切らぬものだから、苛立っているらしい。
「焦るな。この地形だ。何か、罠が仕掛けられているかもしれん」
ロッシは、実戦において軍を指揮した経験など無いに等しい。その素人同然の男が分かったような口を利くものだから、ザンチノはなお腹を立てた。
「たとえ、どのような罠があろうとも、北からウラガーンが背後を突いてくる前に、この砦を破るべきなのです」
指揮権は、ザンチノに委任している。しかし、総帥はロッシである。ロッシにしてみれば、自分が王家の軍の指揮者としての初めての戦いだから、完膚無きまでに相手を叩きのめし、国内にその名を改めて喧伝したいところであった。
「バシュトーの小賢しい羊飼いどもめ。どう出るのだ」
遥か向こうに見える砦に、ここからそう問いかけることに、何の意味もない。ザンチノは溜め息を一つついて、自分の兵のところへ戻って行った。
攻めるべきか、否か。ロッシは、実際、迷っていた。
ザンチノの言うとおり、いかに敵が砦に籠っているとはいえ、その数は僅か千足らずなのだ。王家の軍は一万。全力で攻めれば、あっという間に決着はつくだろう。
だが、バシュトーとて、それは承知のはずである。承知の上で、篭城をしているのだ。つまり、そこに留まることで、狭隘な地形に王家の軍を誘い込もうとしているか、ウラガーンの援軍を待っているかの、どちらかということになる。
ナシーヤにおいては、南の民というのは軍略など持たないというのが定説であった。しかし、今回の戦いにおいては少し違うらしく、バシュトーが国境を越えてから僅か数日で、三つのナシーヤ側の砦が
生き残った者は、砦の指揮官の首がいつの間にか無くなっており、混乱をきたしたことを証言している。その混乱が治まらぬうちに、白馬の将が先頭に立ち、あり得ぬほどの勢いの突撃を仕掛けて来たのだと言う。そして、その一度の突撃で、どの砦も守備軍は壊走し、陥落したらしい。
何か、ある。
バシュトーは、何かを隠し持っている。それが何なのかは、ロッシには分からない。ましてや、ヴィールヒがウラガーン本隊から離れてたった一人でその軍に参じているなどとは、知る由もない。そして、その背を見た者が狂乱するようにして敵を討っていたことも、知らない。
このまま進み、丘陵地帯を越えた途端、両側に伏兵がいるということも考えられる。ウラガーンとは、神出鬼没である。実は既に本隊は南の地に入っており、王家の軍がそこに足を踏み入れてくるのを待っているという可能性について考えた。
あるいは、落石などの罠。混乱をきたしたときに、生き残って砦から逃げ延びた者が証言したような突撃を見せるのかもしれぬ。狭隘な地形においては王家の軍はその数を活かすことが出来ぬから、繰り返しの激しい突撃を受ければ、崩れてしまう恐れもある。
そういうようなことを、考えた。ロッシは、文官である。かつて読んだことがある書に記されたそういう古今東西の戦いの事例を、思い出した。
それにしても、ウラガーンとは。ナシーヤも、厄介なものを抱えたものである。
それは、人の身体を蝕んで弱らせてゆく死の病のようであった。知らぬ間に生じ、気付いたときには当たり前のような顔をして身体のあちこちを食い破り、人を死に至らしめる。ウラガーンとは、まさしくそのようにして、ナシーヤを蝕んできた。
それを知りながら、ロッシは利用してきた。おかげで、ニコも政治や軍事の場から消え、全ての力を自分のものにすることが出来た。そして、ウラガーンはご丁寧に、王まで葬り去ってくれた。あとは、ロッシ自身が王になれば、それでよかった。
そのためには、この戦いに勝たなければならない。
ウラガーンが強大であればあるほど、それを利用したときの効果は大きい。だが、これ以上強大にするわけにはゆかぬ。
この戦いに鮮やかに勝ち、そして、出来れば、ウラガーン本隊にも打撃を与えておきたい。そういう思惑もあったから、ロッシは容易に動かなかった。
ふと、眼下を見た。
騎馬隊が、ジャハディードの砦目掛け、進発している。
「おい、何をしている。やめろ」
丘の上から叫んだが、騎馬隊は止まらない。先頭にある
独断専行。ロッシは、何度も引き返すよう叫んだ。
「よろしいのですか、ザンチノ様」
指揮官の一人が、馬を寄せてきて言った。
「構わぬ。あの臆病な豚の言うことを聞いていては、敵と刃を交える前に、俺の寿命が来てしまうわ」
そう言ってザンチノは豪快に笑った。
敵は、僅かに千。
負けるはずがないのだ。
三千の騎馬隊を連れている。背後のロッシのもとには、七千に上る歩兵がいる。それだけの兵があれば、どのような事態にも対応出来るだろう。
ロッシが警戒していた、狭隘な地形。
そこに至っても、何も変わりはない。罠も、伏兵もない。拍子抜けするほどあっさりと、そこを抜けた。
実際に、砦を破るかどうかは別である。だが、騎馬隊でこの砦の周りを激しく駆け回り、バシュトーの連中の肝を冷やしてしまおうと思っていた。
騎馬隊は平原での決戦には非常に効果的であるが、攻城戦には向かぬ。やはり、歩兵で城壁を上らせるとか、城門を破らせるとか、そういうことをせぬ限り、攻撃にならぬのだ。
だから、これは、ほんの瀬踏みのつもりであり、倒せる敵を目の前にしながら動こうとせぬロッシへの、当て付けであった。攻めかかり、無傷で戻り、ロッシの
砦の壁からは、ぱらぱらと矢が射掛けられてくるが、バシュトーの弓というのは馬に跨った状態で使うことを前提としている短弓だから飛距離もなく、矢の勢いも弱い。そもそも、ザンチノが駆け回るところまで、届きもしていないのだ。
やや近づき、その射程に入った。やはり申し訳程度に矢が降ってくるが、当たりはしない。
この程度の敵に。
ザンチノは、腹が立った。
この程度の敵に、何を臆することがあるのか。
王家の軍とは、国家を、人を苛むものを
ゆえに、傷を受けることも、怯むことも許されぬのだ。ナシーヤを包むようにして護る、大精霊の翼。それが、王家の軍。
ニコに、心の中で呼びかけた。
ニコがおらぬ戦場では、誇りを持つことすら許されぬ、と。だから、早く戻ってきてくれ、と。
そのとき。
城門が、うっすらと開いた。
ザンチノは馬足を緩め、それを注視した。
何が出てくるのかと思ったら、軽騎が、二騎。
一騎は槍を握り、見事な白馬に跨ってこそいるが、その兜も鎧も粗末で、滑稽ですらあった。もう一騎の栗毛の馬の方は、それよりはましな軍装であるが、やはり見るからに頼りなく、傭兵のようだと思った。
それが、あろうことか、三千の王家の軍の騎馬隊に、向かってくる。
速い。
ザンチノは、馬首を回した。
騎馬隊が四つに分かれ、二騎の敵を飲み込もうとする。
疾駆。
白馬の方に、狙いを定めた。
栗毛の方は、先ほどザンチノに馬を寄せて声をかけてきた指揮官が当たった。まだ若いが、才能があり、ザンチノは彼を買っていた。
金髪。
ナシーヤ人か、とザンチノは全身に風を浴びながら思った。そうだとすれば、ウラガーン。
もう片方の栗毛の方は、南の者らしい。
再び、眼を正面へ。
粗末な革兜から、金髪が流星のように流れている。
槍。やや、短い。
低く提げるようにして握ったまま、疾駆している。
素人か、と思った。
馬が、主の挙動を感じ、左側に体重をかけている。
その反発を利用し、一気に振り抜く。
すれ違った。
髪は白いものばかりになりつつあるが、まだ、老いてはいない。
ふつうの兵なら、振ることすら出来ぬこの
今頃背後では、先ほどの金髪が跨っていた白馬だけが、主人を失い、足を緩めているはずだ。
ふと、違和感を感じた。
敵を打ち砕いたのに、その手応えすらないとは、どういうことだろうか。
思わず、振り返った。
振りぬいた
一瞬、何が起きているのか、分からなかった。
少し遅れて、視界の端に、巨大な刃が墜ちた。
斬り飛ばされた。あのような、短い槍に。
金髪の男は、そのまま、騎馬隊の群れに突っ込んでいく。正気ではない。間違いなく、死ぬ。しかし、ザンチノは、背筋を流れる汗を感じている。
戦場での長年の経験が、危険を訴えかけていた。
あれは、ふつうの人間ではない。
はっとして、もう一騎の方を見た。
栗毛の一騎も、やや遅れて王家の軍の騎馬隊の海に飛び込んでいくところであった。
それに当たっていたはずの若い指揮官の一人は、まだ馬上にあった。
しかし、馬は足を緩めている。
その指揮官の首から上が、ほおずきのように弾けて、無くなっていた。
討たれたらしい。
退却、と叫びそうになった。
あり得ぬことが、起き過ぎている。
バシュトーに、このような武を持つ者があったとは。
混乱してはならない。狼狽してはならない。ただ、
敵を、見据えて。
呼吸を、整えて。
二騎が突入した先から、叫び声が上がっている。
それが、呼吸をいかに整えようとも、どうにもならぬことがあるのだということを、ザンチノに知らせた。
「――退却!退却!」
遂に、叫んだ。二騎に、王家の軍の騎馬隊の者が、次々と打ち破られているのだ。そのようなことが、この世にあるはずがなかった。
しかし、実際に、ザンチノの眼の前でそれは起こっていた。
まるで、神話の戦いを見ているような心地であった。
神話に記される、大精霊の怒り。
王家の軍の騎馬隊に取り囲まれその姿は見えぬが、どこに居るのかははっきりと分かった。まるで雷に打たれたように人が吹き飛び、血と断末魔の雨を降らせているのだ。
あそこに、あの男が居る。ザンチノは、戦慄した。
またひとつ、叫びと血の雨。疾駆させながら、向かうところにある敵を全て屠っているらしい。
それは、さながら、暴れる風のようであった。
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