いとしき人

 アナスターシャは、回復した。彼女がうっすらと眼を開けたとき、滲む視界の中に、その姿はあった。

「――ザハール?」

 ザハールが、何か声を上げた。とても大きな声だ、と感じた。

 ふと、意識の中で、ニコの声を呼び起こした。それはとても遠く、霞んでいた。

 そして、はっきりと思った。

 ああ、自分は、二人の男の妻になりたいと思ってしまっているのだ、と。

「何が、起こったの」

 口が、渇いている。それに、ひどく寒かった。

「まだ、喋るな。毒を受けたのだ」

 ザハールが、寝具を深くかけた。

「毒――」

 力なく、笑った。

「どうしたのだ」

「南では、あなたが毒を受けた。こんどは、わたし。同じね」

「ああ、そうだ。休め。眼を閉じて。ゆっくりと」

 アナスターシャは、その声に従った。


 ザハールは、ほっとした。このままアナスターシャが死にでもすれば、自分はどうやって生きてゆけばよいのだろうとすら思った。

 剣と、戦いのために、生きてきた。

 そのことすらどうでもよくなるくらいに、彼はアナスターシャのために生きたいと思っていた。

 触れてしまえば、傷付け、汚してしまうのではないかと思い、触れることすら出来なかった。

 だが、アナスターシャの肩の傷に自らの唇を付け、自ら握る刃物でもってその肉を抉り、血を流させた。それが、ザハールの中のなにものかを動かしたような気がしていた。


 左腕は、上がるだろうか。

 もし、自分が肉を抉ったせいで、上がらなくなったなら、自分は、これからずっとアナスターシャの左側に立って生きてゆこう、と思った。

 それが出来るのは、自分だけなのだ、と思った。

 ニコなどに、その役目を譲りたくない、とも思った。

 眠れ、と自分で言ったはずなのに、声が聴きたくなった。

 呼びかけようとして、やめた。眠らせてやりたい。

 次に目覚めれば、薬草を煎じたものを飲ませなければならぬ。南でザハールがサンラットに飲まされたもののように効くかどうかは分からぬが、身体の力を取り戻す効果があると古くから言われる薬湯であるから、無いよりはましであろう。

 それを用意してやろうと思い、そっとその部屋を出た。


 湯を沸かす間、薬草を火にかけて煎じながら、ザハールは様々なことを考えた。

 彼は戦士の家に生まれた。父も彼に教育を育てた父の家臣もグロードゥカの首府で健在であろうが、家を出てから一度も会っていない。

 生きていれば、それでよい。そう思っていた。

 戦士の家としての、誇りを。それを取り戻すため、ザハールは一人、旅に出た。

 父や家臣は、街で、ひっそりと暮らしているのだろう。いつか、己の手で、何かを掴んだとき、迎えに行ってやるのだ。

 七年。短いようで、長かったし、長いようで、短くもあった。ただの傭兵として戦場を駆け回り、ひょんなことからペトロやイリヤ、そしてサヴェフと出会い、森の賊に入り、それはザハール自身も知らぬ間に森の軍となり、いつの間にかウラガーンになっていた。気付けば自分は数百の騎馬を率いる部隊長になっており、ウラガーンは今からこの国そのものを破壊しようとしている。

 なにか、自分が夢の中で剣を振るっているような。そんな気がした。

 そして、それは、自分が見ている夢ではなかった。

 自分以外の誰かが見ている夢。

 その中で、ザハールは必死で剣を振り、愛馬を駆り、血を浴び、戦っている。

 この戦いに、終わりがくる日は、あるのだろうか。

 この戦いが終われば、自分はどうすればよいのか。

 父を、自分を育ててくれた老いた家臣を迎え、サヴェフやヴィールヒが作る新たな国の中でそれなりの官位を得、支えてゆくのだろうか。

 その隣には、自分に向かって優しく微笑むアナスターシャがいた。その薄い色の瞳には、同じように微笑む自分がいるのだ。子が駆け寄ってきて、それを抱き上げてやる。剣も、教えてやらねばなるまい。剣だけではなく、学問も。

 そして、それを誰かに奪われぬよう、護ってやらねばならぬ。


 そういう国。

 ザハールが、求めているものは、そういう国である。

 その国で、どうやって生きてゆくのかは、その国で暮らすザハールが考え、決めることであろう。

 薬草が、焦げかけている。

 ザハールは慌てて火を消し、それを湯に溶かした。

 それを持っていってやろうとアナスターシャの部屋の扉を開いた。

「ザハール!」

 アナスターシャの声が、ザハールを貫いた。

「どこに行っていたの。眼を覚ましたら、あなたがいなくて、わたし――」

 涙が滴になって、墜ちた。

「済まん。薬湯を作ってやろうと思って」

「そんなの、要らない」

 いつも穏やかに微笑んでいるアナスターシャが、こういう感情を露わにするのは、珍しい。

「しかし。飲まねば」

「そんなもののために、わたしを置いて」

「アナスターシャ。落ち着け」

「わたしを置いて、どこかに行ってしまったかと思った」

「アナスターシャ」

「お願い。わたしを、置いて行かないで」

 先程まで、ぽつりぽつりとこぼれ墜ちているだけであったアナスターシャの涙が、ぼろぼろと溢れ出した。


 まだ娘であった時分に父を亡くし、家を失い、弟と生きてきた。弟は姉のためとしてさきの巫女を殺め、その座に据えた。

 それを、アナスターシャが望んだことは、一度もない。弟がそれをしたと知ったのは、彼が、誰にも何も言わず、安全であるはずの精霊の家から姿を消したときだ。アナスターシャは、安全なそこに、閉じ込められた。

 ただ祈るしかなかった。何故か、人はアナスターシャこそが真の巫女であるとし、崇めた。彼女の髪がたまたま薄い色をし、その容貌が美しかったからかもしれぬ。それゆえ、彼女が親しく言葉を交わすことが出来る者は、無かった。

 そこへ、ニコが現れた。ニコは容貌も良く紳士的で、面白い話をたくさんした。自然、その人間の内側に興味を持った。それはすぐに好意になった。そして、アナスターシャを妻としたいと言い、抱いた。その疼きは今なおアナスターシャの身体に残っている。


 だが、ヴィールヒが現れた。

 あのとき、何故自分がヴィールヒに従って精霊の家を出たのか、未だに分からない。だが、ヴィールヒは言ったのだ。

「お前は、ただの人なのだ」

 と。それは、アナスターシャにとっては重大な事実であった。自分がただの人であるならば、何故この精霊の家の中に押し込められるばかりの生を過ごしていなければならなかったのか。何故弟は自分のために他人を殺めるようなことをしなければならなかったのか。何故、一国の丞相たるニコほどの男が、自分を欲しなければならなかったのか。

 もし、自分が大精霊の加護を受けた真の巫女などではなく、どこにでもいるただの女であったとしたならば、アナスターシャがそれまで享受するしかなかった生は、偽者であったということになる。

 望んで与えられたものではなく、強制されるようにして歩んできた生。だが、ふと、思ったのだ。

 強制されるようにして自らの生を歩んできたのではなく、ただだけであったのではないか、と。

 人とは脆く、弱い。己が選ばず、求めず、ただ流され、享受することしかしなかったことを、さも仕方の無いことであったかのように言うのだ。

 自分がしているのは、それではないのかと思った。

 違う、と証明したかった。

 自分で望み、自分で求め、自分で叶え、自分で示したいと思った。

 アナスターシャが特別な存在ではなく、ただの人なのであれば、それが出来ると思った。


 それゆえ、彼女は龍になった。

 人の心を一つにし、それぞれが向かうべきものへと向かう。一人ひとりが抱く思いや求めるものは違えど、それら全てが集まり、同じものを目指すということを見た。自らの足で土を踏んで歩き、様々なものを見た。精霊の家でニコの話を聞くよりも、もっとそれは鮮やかで、痛々しくて、美しかった。


 サヴェフ。ベアトリーシャ。ルスラン。ジーン。イリヤ。サンス。ペトロ。ラーレ。ウラガーンとして生きる誰もが、それをしていた。彼らは、どこにでもいる、ただの人であった。そして、ヴィールヒ。彼は、ただの人であることを許されなかった人だと思った。そのことに彼は怒り、悲しみ、眼には見えぬ涙を流しているのだ。彼は、特別であることを強いられた。ただの人として生きてゆくことを、奪われた。


 そして、ザハール。

 ザハールもまた、どこにでもいる、普通の人であった。

 だが、アナスターシャにとっては、違った。

 特別なのだ。

 ザハールだけは、違うのだ。

 だから、これほどに涙が溢れるのだ。

 薬湯を作るのも、アナスターシャのため。それは彼女も分かっている。ザハールのことだ。彼女が眠っている間、ずっとその側で寝顔に変化がないか、汗をかきすぎてはいないか、苦しそうではないか、寒そうではないか、見守っていたに違いない。

 だが、自分が目覚めたときに、何よりも先に、その姿を自分の眼に映したい。そうアナスターシャは思ったのだ。それが叶わず、目覚めたとき、無機質な石造りの部屋だけがあった。これまでの生のようだ、と思った。それら全てが奔流となってアナスターシャに流れ込み、涙となって眼から溢れ出たのだ。

 目覚めたときに、ザハールがいなかったから。

 左腕に、力が入らない。

 どうしてなのか、分からない。動かそうとすると、腕そのものが裂けそうに痛む。それでも、ザハールさえ見守っていてくれれば、平気だった。

 旅がどれだけ辛くとも、戦いがどれだけ惨くとも、ザハールが隣にいれば、乗り越えられた。

 ザハールにも、それに似た思いがあることを、アナスターシャは知っている。これでも、女なのだ。異性が自分のことをどう見ているかということには敏感である。それを承知で、たとえば自分の社会的価値を無意識に計るようにして、思わせぶりな態度を取ったこともある。


 ザハールが、好きなのだ。心から。

 それでいて、ニコを忘れ去ったわけではない。

 あの身体の疼きも、あの肌の熱も、今なおアナスターシャの中を蛇のように駆け回っている。

 だが、その声は、遠くなっていた。そのことに対する、焦りもある。

 どうすればよいのか、分からない。

 だから、ただ泣くしかなかった。

 ザハールは薬湯をとりあえず置き、狼狽しながら声をかけるばかりであるが、それでも構わなかった。ザハールなら、きっと、自分が泣き止むまで、狼狽し続けていてくれると思えたのだ。

 もし、生涯アナスターシャの涙が止まらなければ、彼はアナスターシャの涙を拭くためにその生涯を使いかねない。

 だから、ほどほどのところで泣き止んでやらねば、と思った。

 アナスターシャの中で、明らかに何かが動いた。

 それが生んだ新たな矛盾と、向かい合うことを始めた。

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