変事において
同じ時。
ラハウェリでは、北上を開始したバシュトー軍を援護するため、兵をまさに発しようとしていた。
率いるのは、ザハールとサンス。そして、総大将としてサヴェフ、軍師としてペトロも出陣する。
そこで、変事があった。ヴィールヒが待っていたのは、ウラガーンの軍であり、それが来れぬのかと懸念を持ったのは、この変事による。
斧と盾、精霊の翼と龍。その旗が翻る下に、サヴェフが立っている。
「今、この国の乱れは、窮まっている。王すらも死に、丞相ニコはこのナシーヤから身を引き、奸臣ロッシが、この国を取り仕切っている。そして、グロードゥカはユジノヤルスクを攻めている」
サヴェフの金色の髪が、ノーミル暦四八八年二月の風に靡いた。
そして、その風に、アナスターシャの、不思議な音律を持つ言葉が乗せられた。
「南では、我らが友バシュトーが、このナシーヤへの侵攻を開始しています。私たちは、大精霊の加護のもと、それを助け、宰相ロッシ率いる王家の軍を討ち、この国を、人が求めるべき形へと作り変える一助とします」
「もうすぐなのだ」
また、サヴェフ。そこで言葉を切り、顎髭をひとつ撫でた。
「もうすぐなのだ。求めよ。お前達は、龍と、大精霊のどちらをもその内に持つ。いかに王家の軍が強大であろうとも、我らは、龍のように、そして大精霊のように、その力を削ってきたのだ。今、ここで一つ勝ちを得る。そのことが、明日のお前の生を。未だ来たらぬ時の安寧を、導くのだ」
サヴェフの言葉は、兵の魂を燃やす。昔から、この男はこういうことが得意であった。
「求めよ」
兵が、呼応し、声を上げる。
「示せ」
総勢で、二千五百。北にルスランとラーレを入れており、更には中央の拠点の守備にも兵は必要であるから、中央から発せられるのは、それが限界であった。その声が、このラハウェリの広場に降り注いだ。
彼らの声の一つ一つが集まり、それは一個の意思となる。
「ゆく。南へ。そこで、ヴィールヒが待っている」
サヴェフが、そう言った。兵が、喝采を浴びせる。
その整列した兵らの先頭に立っているザハールが、俄かに駆けはじめた。
なにごとかとサヴェフも、サンスもそれを見た。
ザハールの視線の先には、アナスターシャ。
それが、ゆっくりと崩れ落ちてゆく。
その左肩には、羽の付いた、ごく小さな矢。吹き矢か何かの類であろう。
「アナスターシャ!」
ザハールは、地に投げ出されるようにして倒れたアナスターシャの身体を抱え起こした。小さな矢を抜き、胸に耳を当て、心拍を確かめる。
生きている。だが、顔色が明らかに悪い。
ザハールがかつて南の地で受けたような、毒。
「アナスターシャ!」
このようなとき、身体を激しくゆすってはならぬ。
ザハールはアナスターシャの衣服を半分剥き、左肩を露出させた。
そこは紫色に腫れ上がり、熱を持っていた。
やはり、毒。
「皆、互いに、武器を向けろ」
サヴェフの声が、天に響いた。兵らは、一斉に剣を抜き、自らの隣にある者に向けた。この中に、毒の矢を放った者がいるのだ。
「そのまま、一歩、前へ」
兵らは、目の前の相手に向かって、それぞれ一歩ずつ踏み出した。
その中の一人が、叫び声を上げ、眼前の者に打ちかかった。周囲の者がそれを羽交い絞めにし、捉え、地に引き倒した。
「アナスターシャ」
呼吸が、浅い。そして、早い。甘い花のような香りが立ちこめているが、無論ザハールにはそれを愉しむゆとりはない。
ただ露出した左肩に自らの唇を当て、傷から毒を吸い出した。その白い肌の方から望んでザハールの唇に吸い付いてくるようであり、東からもたらされたどんな絹よりも滑らかであった。
口を付けて毒を吸い出すというのは、医療行為としては正しくない行動であるかもしれぬが、この時代ではごく当然の処置であった。痛むのか、アナスターシャは、眼を閉じたまま眉の線を険しくした。
「許せ。お前に、傷を付ける」
ザハールはそう言って短刀を抜き、紫色になったアナスターシャの左肩に突き立てた。びくりと身体を痙攣させるアナスターシャを抑えながら、更に力を込め、短刀を引き回し、腫れている箇所を抉り取った。
ぱっくりと開いたそこからは、アナスターシャの美しく、紅い血が見る間に満たされ、溢れ、滴となって墜ちた。
その一滴すら、惜しい。
そう思いながら、ザハールは腰の袋から傷の手当てに使う干した薬草を磨り潰したものを全てふりかけ、自らの衣を裂いてきつく縛り、血止めをした。
これで、おそらく、毒が全身に回ることを防げるだろう。
ザハールは驚異的な身体の強さによって毒を受けても回復したが、アナスターシャの身体はふつうの女のものである。だから、もう、毒が身体に回る前に、傷ごと抉ってしまうしかないのだ。下手をすれば、左腕が上がらぬようになる。それでも、アナスターシャの命がここで消えてしまうよりは、ましであった。
「済まん。済まん」
ザハールは苦しげな息を吐くアナスターシャを抱き、ただそう何度も呟いた。
「ロッシの手の者か。雨の軍か」
このところ、情報の漏洩が目立つ。ロッシの手の者や雨の軍が、紛れているのだ。サヴェフは、引き出されてきた男に剣を向け、問うた。男は無論、答えることはない。
くわっと口を開き、舌を噛み切ろうとした。
その口に、サヴェフの剣が入った。
「おい、勝手に死ぬことは、許さん。私は、問うているのだ」
燃えるような眉の奥から男を見下ろしている。
その眼には、男が見たこともない類の光があった。
「答えよ。ロッシの手の者か。雨の軍か」
男は膝立ちになったまま口にサヴェフの剣を入れ、不敵に笑った。
「答える気はない、ということか」
また、男が笑った。
「そうか。ならば死ね」
サヴェフが、その剣をぐいと押し込んだ。男の首からそれは突き出て、男は力を失った。一息に剣を引き抜き、それを蹴転がす。
「アナスターシャは」
ザハールに眼をやり、問うた。
「分からん。傷を抉り、血止めはした」
「このようなところで、死なせるわけにはゆかぬ」
ザハールは、サヴェフのその物言いに、違和感を感じた。それでは、まるで、どこかでアナスターシャを死なせるつもりであるようではないか。だが、この非常の時であるから、サヴェフですら、言葉の選び方を誤るのかもしれぬ、と解釈した。
「ちゃんと、手当てをした方がいい。軍を発するのは、それが終わってからにしよう、サヴェフ」
ペトロの進言に、サヴェフは頷いた。
「皆、案ずるな。精霊の巫女は、それを護るザハールにより、救われた。彼女が気を取り戻し次第の進発とする。それまで、祈れ。彼女が、少しでも早く、気を取り戻すよう」
ウラガーンの兵と言えど、大精霊の導きや教えを否定しているわけではない。その場は散会となったが、誰もが、アナスターシャの回復を願い、祈った。
「どうだ、アナスターシャの様子は」
「落ち着いている」
「ザハールは」
「ずっと、付きっ切りだよ」
「そうか」
サヴェフは、ペトロと二人、自室で話している。
「まだなのか」
「――サヴェフ。俺は、あんたが好きだ。俺に知略の才があるなんて知らなかったが、俺の知恵が役に立つなら、幾らでも使ってくれていい。その策が破れ、死ねと言われれば、喜んで死ぬ」
だが、とペトロは、前髪を掻き上げながら言った。
「人の心を弄ぶようなことだけは、してくれるな」
「再三、お前はそのように言うな」
「ああ、何度でも言う。俺が好きなのは、あくまで正しきを行い、求めるあんただ。そのためになら、龍になることすら厭わない、あんただ。だけど、あんたが今ザハールとアナスターシャについて考えていることは、正しきことでも、龍の行いでも、なんでもない」
「お前、アナスターシャが、丞相ニコと、そういう間柄であったという話は、聞いたことがあるか」
サヴェフが、いきなり話題を曲げた。
「何のことだ。アナスターシャと、ニコが?」
「私にも、確証はない。だが、そういうことなのだろうと思う。その後ろめたさがあればこそ、アナスターシャは龍となり、自ら率先して行動しているのだろう」
「ニコとウラガーンが衝突せずに済むため、自らが先頭に立ち、戦いを避けていると?」
「そうだ」
「あり得ぬことではないが。それを、何故、今言う?」
「ザハールの今後の役目に、関わってくることだからだ」
「サヴェフ」
また、ペトロの表情が、険しくなった。
「それを、ほんとうにやるんだな」
「ああ。まだ先のことではあるがな」
「そうか。では、今言っておく」
サヴェフの眼が、眠ったようになった。
「そのときが来れば、俺は、あんたを全力で止める。俺の持つ全てを用いて、あんたを、止める」
「――好きにすればいい」
サヴェフの居室の外では、雨の音がしている。それを、少しの間、二人で聴いた。
「サヴェフ」
名を呼ばれたサヴェフが、眠ったようになったままの眼を、ペトロに向けた。
「あんたは、いつから、それほどに孤独になったんだ」
「孤独?感じたこともないし、たとえ孤独であったとしても、構わぬ」
「そうか。俺は、悲しい」
「何を悲しむことがある」
「あんたは、はじめ、森の賊の皆の、光になった。ヴィールヒが理不尽に疑いをかけられ、牢に入れられたことに、ただ
「そうだ。それは、今も変わらぬ」
「その思いが、あんたを、孤独にした」
何故か、ペトロの眼には、哀れみの光があった。サヴェフは、それをじっと見ている。
「孤独であってもよい。人に忌み嫌われてもよい。後の世に、悪人として名を残してもよい。それでも、私には、求めなければならぬものがあるのだ。自らの全てを肥溜めに投げ込んででも、私には、追わなければならぬものがある」
ペトロは、サヴェフにかけるべき言葉を探した。探したが、見つからなかった。
「そうまでして――」
「ペトロ。忘れたか。我らとは、はじめから、こういう存在であるのだ」
ペトロは黙って、俯いた。
「ペトロ。お前が言うことは、このサヴェフ、よく分かっている。その上で、私は私の思うことをする。そのために、人であることすら、捨ててもよい。そう思っている」
「あんたは、とうとう、魂まで龍になったんだな」
「もしそうなら、良かった」
サヴェフが、どの座標にあるのかよく分からぬ種類の笑顔を漏らした。
「その時が来て、私を止めたいとお前が求めるとき、私は、それを止めはせぬ。ただ抗い、示すのみだ」
「そうか」
ペトロはそれきりサヴェフの自室を後にし、アナスターシャの眠る部屋へと向かった。そこには、憔悴しきった表情のザハールがいた。ベアトリーシャがいれば、もしかすると毒に対しても何らかの知識が得られたかもしれぬが、今、彼女はダムスクにあり、また何かの兵器の開発に勤しんでいる。
「どうだ、アナスターシャの様子は」
「先ほどと、変わりない」
言われて、ペトロは、先程も様子を見に訪れたことを思い出した。
「さぞ、辛いことであろうな――」
ザハールは、眠るアナスターシャの頬にそっと手を伸ばした。しかし、それに触れることはなかった。
「この世の乱れに流される、か弱き木の葉のような」
ペトロは、ザハールの様子を、引き込まれるように見つめている。
「そんなアナスターシャをも、巻き込んで」
ザハールの眼には、涙が浮かんでいる。
「そんなアナスターシャすら、自らの意思で戦わねばならぬとは」
今にも、それは滴となって墜ちそうである。
「傷付き、痛み、苦しみ、それでも、生を示している」
「――ザハール。俺が、代わろう。お前は、少し休んだ方がいい」
ザハールは、首を横に振った。
「南で、俺が同じようにして毒に倒れたとき、アナスターシャは、片時も離れず、側にあった」
「だが、今お前がここにあっても、どうすることも出来ぬであろう」
「だから、せめて、俺はここにありたいのだ。それでどうなるわけでもないことであっても、俺は、彼女が眼を再び開くとき、ここにありたいのだ」
「分かった。無理はするな。代わって欲しくば、いつでも言ってくれ」
「済まん、ペトロ。感謝する」
ペトロは、去り際、ちらりとザハールを顧みた。同じ姿勢で、じっとアナスターシャを見つめている。その傍らには、彼の愛用する涙の剣。
やはり、サヴェフの言う通りになろうとしている、と思い、口惜しそうな、それでいて悲しそうな顔を前髪の下に隠し、その扉を閉めた。
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