第十三章 はじめの咆哮

王の蛹

 僅か、数ヶ月。ニコが王都を離れてから、一年にも満たない。だが、それでも、その古びたままの石畳や人の多い街が、懐かしく思えた。


 かつて、この街路を、丞相として歩いた。ザンチノが、供も連れず不用心な、といつも口うるさく言ってきたが、ニコは、この街路を歩くことが好きであった。

 この王都において、ニコを知らぬ者はない。誰もが、その姿を見、ある者は驚いた顔をして見送り、ある者は胸の前で手を組み、拝んだ。王が死に、王都は混乱の極みにある。その中でのニコの帰還は、人の感動を誘い、涙を流す者さえあった。


 ニコは、自らがかつての丞相ニコであるということを、隠しもしない。

 堂々と、胸を張って、歩いていた。

 四八八年、二月。

 ルゥジョーの訪問を受けてからすぐにニコは東の地を発ち、王都に戻った。



「丞相ニコ様じゃ」

「ニコ様が、戻って来られた」

 人々の声を雨のように浴び、ニコは王城を目指す。

「ニコ様!」

 ある老いた男が近付いてきて、ニコに拝跪した。

「よくぞ、お戻りになられました」

「御老。おやめ下さい。私は、今は丞相ではない」

 そう言って老人の側に屈み込み、頭を上げさせた。上がった老人の瞳には、涙が浮かんでいた。

 老人はそのまま立ち上がり、ありがたいことだ、ありがたいことだ、と呟きながら、路地の暗がりの方へ立ち去った。

 そのとき、老人の羽織る薄汚れた外套から、筒状のものがこぼれ落ちた。

 なんだろうと思ってニコが手に取ると、書状であった。鹿の革に書かれたそれを開き、名を確かめた。

 宛名は、知らぬ名だった。しかし、書状の最後に記された差出人の署名サインに、見覚えがあった。


 それを、食い入るように見た。

 その書状には、こう記されている。

「必ず、仕留めるように。くれぐれも、私の差し金であるということが露見せぬよう、注意を払え。万一、私の関与が疑われるようなことがあれば、お前とお前の一族を、皆滅ぼす」

 署名は、ロッシのもの。

 ナシーヤの役人や軍人など官にある者はふつう、公的な文書には印を、私的な手紙などには署名を使った。

 つまり、これは、ロッシが誰かに宛てた、私的な手紙。


 ルゥジョーの差し金だろう、と思った。ルゥジョーは、東の地にあるニコを訪ったとき、確かに言った。

「これより、変事が起きます。ニコ様が、再び人の上に立つことが出来るようになります」

 と。

 やはり、ニコが思った通り、雨の軍が、王を殺したのだろう。そして、このロッシの書状。ルゥジョーが、偽造したものかもしれない。雨の軍に書状を偽造するような技術があるのかどうかニコは知らぬが、どちらでもよいことであった。

 使えるものは、何でも使う。

 その書状をまた筒状に丸め、懐にねじ込んだ。

 もう、頭の中で、絵は描いた。



 王城に向かい、街を歩くうち、東には入っていなかった話が流れてきた。噂というのは人の口から口へと伝播するため、中央と周辺部であれば数日の差が出る。ニコは、たった数ヶ月、それまでの自分と訣別して暮らしただけなのに、我々に分かりやすい比喩を用いるならば浦島太郎になったような気分であった。そのうちで、最も大きなものは、南のバシュトーが軍を発し、北上しているという話であった。それに応じるため、ロッシが王家の軍を率い、国境へと向かったという。

 民が、ニコに駆け寄り、口々にそのことを訴えかけた。

 皆、ニコの帰還を喜んでいる。己の力ではどうにもならぬことを、この大精霊の加護を受けたと言われる稀代の天才に託したいのだ。

「お救い下さい、ニコ様」

「どうか、ナシーヤを」

 いかに王家の軍が精強だと言っても、ロッシでは話にならぬというのが、もっぱらの見方であった。このナシーヤを救うことが出来るのは、ニコだけなのだ。

 新たな国の危機のことを始めて聞いたニコの周りに、人だかりが出来た。

 それらが発する、助けを求める声は、雨の音のようだった。

「済まん」

 ニコが、ぽつりと言った。声の雨が、一瞬、止んだ。

「私には、王家の軍も、地位もない。今は、どうすることも出来ぬ」

 そんな、と誰かが言った。では、誰がこの国を救うのだ、と。

「それは、お前達なのだ」

 雨の一滴が放った言葉に、ニコは答えた。

「私には、この国は、救えぬ。それを願い、求めるのは、お前達なのだ」

 だが、とニコは声を強くした。

「私には、導くことなら出来る。だから、今しばらく。今しばらく、待て。私は、必ず、お前達を導き、この国に安寧をもたらす助けとなる」

 雨は、止んだまま。

 そして、喝采に変わった。

 形は違えど、やはり、それは雨だった。

 ニコはそれを全身に浴びながら、剣を抜き放ち、高々と掲げた。

「取り戻す。全てを。王家の軍を、お前達を導く者を、精霊の巫女を。そして、このナシーヤの安寧と、誇りを」


 目指すは、王城。

 そこには今、主はいない。

 かつての丞相ニコの帰還を見て、門兵も守兵も皆、武器を立てて直立した。

 待っていたのか、とニコは思った。

 人は、王都は、そしてこのナシーヤは。

 自分の帰還を、待っていたのか。

 それほどに、傷付いていたのか。

 この国が傷付いているのは今に始まったことではなく、ニコなどが生まれる百年も二百年も前からそうである。だが、ニコは、この雨を浴び、自らを直立して迎える王城の兵を両脇に見ながら、それを肌で感じたのだ。


 国とは、赤子のようなものなのかもしれぬ、と思った。

 それは、人にとって、光となるべきもの。

 あらゆる人が愛で、大切にし、守らねばならぬもの。

 それが長じれば、国もまた民を愛し、守る。

 そういう、国を。

 そういう、王に。


 王城の敷地の中の石畳を踏む足取りは、確かである。

 敷地の中に複数ある建造物のうち、王が普段執務を執り行う主城へと。

 三層になっているそれの最上階、最も奥の部屋へ。

 その扉の前に立っている、かつての王の側近の者が、戸惑ったような表情で、ニコを見た。

「どいてくれ」

 ニコはただそう言い、その扉を、我が両腕で押し開いた。

 一人で開くには、重い。だが、ニコは、その扉を開いた。

 ここで、待つのだ。

 王家の軍の帰還を。

 自らが、この部屋の主となるのを。



 誰もおらぬその室内に、ひとつだけ、気配が生じた。

「お前か」

 それに向かって、声をかけた。

「お待ちしておりました」

 ルゥジョー。いつの間にか、ニコのすぐ近くにいた。

「全く。とんでもないことをするものだ」

「はい。しかし、ニコ様は、考え過ぎるご性分。ゆえに、これほどのことをしなければ、戻って頂けぬと思いました」

 ザンチノのような口ぶりだ、とニコは苦笑した。しかし、どこかに違和感がある。以前のルゥジョーとは、もっと物静かで暗い影を帯びていたが、それが消えている。むしろ、明るい表情をしている。それなのに、どこか歪んだような印象を受ける。やはり、東でルゥジョーと再会したときに思った通り、アナスターシャと接触をし、何かがあったものらしい。


「アナスターシャは、どうだ」

 雨の軍とは勿論、王の暗殺などのために作られたものではない。アナスターシャを連れ戻し、その暴挙に出たウラガーンの者共をニコ自らが殺すために作られたものである。

「は。所在は掴んでおりますが、なにぶん、ウラガーンの中心に、いつもおりますゆえ」

「ルゥジョー」

 ニコの声は、この王の部屋によく響いた。

「はっ」

「お前は、何を恐れているのだ」

 ルゥジョーはただ、膝をついた姿勢のまま、答えない。

「答えよ」

「はっ」

「何を、恐れているのだ」

 ニコの声が、思いのほか厳しい。

「アナスターシャは、我が妻となる女である。そして、この国の人にとって、無くてはならぬ人である」

「承知しております」

「そして、お前にとってたった一人の、かけがえのない姉ではなかったか」

「その通りです」

 ルゥジョーほど影に潜み、命のやりとりをする戦いの場にも多く立ってきた男が、背筋を凍らせ、萎縮している。彼も、このようなニコを見たのは、初めてなのだ。彼の中でのニコというのは、どこまでも穏やかで、そして優しい男であった。それが今、王が座すべき椅子から、刺すような視線で、ルゥジョーを見下ろしている。

「それを見、どこに居るのか知りながら、お前は、なぜこのようなところに居る」

「それは、ニコ様に――」

「答えよ、ルゥジョー」

「――申し訳ありません」

「お前が見なければならぬのは、俺のことではない。お前の姉のことを。それを奪った敵のことを。そして、お前自身のことを見なければならぬのだ」

「はっ」

「見誤るな。敵を」

 ルゥジョーにしてみれば、面白くない。せっかく、ニコがこの国の実権を握ることが出来るよう、後押しをしてやったのだ。今この場においてそれを咎めるなら、なぜ、あの東の地の村で止めなかったのか。今この場にニコが座していることが出来るのは、あの雨の夜、ルゥジョーが自分と部下の生命をかけて王の居室に侵入したからではないのか。たとえ、直接手を下したのが、ウラガーンであったとしても。

 だが、眼前のニコは、いかなる弁解をも許さぬような気を放っている。

「ウラガーンが」

 だから、別のことを言った。

「王を殺したのは、実は私ではありません」

「どういうことだ」

 ニコの表情が、かつてのそれに戻った。

「ウラガーンなのです。私たちは、確かに、ニコ様のため、王を葬り去ろうと、この王城に忍び込みました。ですが、一足早くウラガーンが忍び込んでいて、私よりも先に王の居室に至り、それを殺し、私たちの仕業であると騒ぎ立てながら立ち去ってしまったのです」

 ニコは、なにごとかを考えた。

「これに、見覚えはあるか」

 懐から、先ほど拾ったロッシの書状を取り出した。

「いえ、ありません」

「そうか――」

 また、沈思の中へ。

 ルゥジョーは、ほっとした。いつもの姿である。ニコとは、決して彼の存在を否定せぬものだ。そうでなくては、彼の知るニコではない。

「ウラガーンめ、この俺に、何を望む――?」

 この書状は、おそらく、ウラガーンが偽造したもの。街路で出会ったあの老人も、ウラガーンの者。そう言えば、拝むような仕草を見せておきながら、あの老人は、決して手を見せようとしなかった。顔は外套のフードを深く被っておりよく分からなかったが、手まで隠すということは、変装か何かであろう。


 ウラガーンは、ニコを王座に就け、どうしようと言うのか。

 ロッシは、王家の軍を率い、南へ向かった。そこには、ウラガーンが作った、バシュトー。

 それとロッシとを戦わせる。恐らく、ウラガーンの助力を受けたバシュトーに、ロッシが率いて戦意が騰がらぬ王家の軍は負けるだろう。

 今、王家の軍が負けては、まずい。

 だが、それも考えようによっては、ニコにとって有利な情勢となる。かつてロッシがそうしたように、今度はニコがその失敗を責め、追い落とすことが出来るのだ。

 そして、この偽造した書状。王暗殺がロッシの企てによるものであるという動かぬ証拠となる。これを、ウラガーンがもたらした。その意味を考えた。

 答えは、一つしかないだろう。

 ロッシを、斬ってしまえということだ。

 そして、ニコが王座に就けということだ。


 それをして、ウラガーンに何の得があるのか。

 ニコには、分からない。

 彼は、守る者であり、奪う者ではないからだ。

 どこまでも、彼は大精霊の加護を受けていた。それゆえ、龍がその瞳で何を見るのかは分からぬらしい。

 だが、ニコは今、その双眸を光らせている。

「使えるものは、何でも使わせてもらう」

 そして、ルゥジョーをまた見下ろした。

「引き続き、励め。そして、考えろ。己が、何のためにこの世にあるのかを」

 ルゥジョーは、ひとつ拝跪した。

 ただまっすぐ、自分とルゥジョー以外の誰もおらぬこの広すぎる部屋の向こうを見つめるニコからは見えぬが、ルゥジョーの表情は、曇っていた。


 ルゥジョーが退室した後も、ニコは、その椅子に座していた。

 この広大な部屋は、ニコが王となるためのさなぎだった。

 そこで、彼は、ただ待った。

 龍が大精霊の翼を食い破り、自らの剣が届く距離にまで近付いてくるのを。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る