与える者
ウラガーン史記というのは編年体で描かれているから、その人物の動きをやや追い辛いふしがある。この物語は史記を題材にしつつ、その訳本として綴るような性質のものではないから、便宜上、時間軸を前後させることがある。
先の項までで、丞相ニコが王都に戻り、王城に入った話を一つの流れとして描いたわけであるが、ここでは少しだけ時を戻して、バシュトーのことを描いておく。
四八八年、一月末。ニコが王都に戻る、ほんの半月足らず前のことである。
「一体、どういうつもりなのだ」
すぐに立ち去るものと思っていたが、ヴィールヒはこのバシュトーが気に入ったのか、まだ滞在している。そのヴィールヒに、サンラットは困ったように声をかけた。
ウラガーンの首領というだけで物珍しいのか、あるいはあの精霊の巫女の言葉が蘇ったのか、
そして、言葉をかけられた者は、どういうわけか、この出来たばかりの王都サラマンダルに滞在している。
サンラットが見て、おやと思うほどに、その者らの眼は鋭い光を放つようになっている。
そうこうするうちに、この一月末の時点で、なんと八百もの人がこのサラマンダルの地に集った。
「一体、どういうつもりなのだ」
とサンラットがヴィールヒに問うたのは、そのことについてである。
「どうもこうも、ない。奴らが、勝手にそうしたことだ」
「彼らは、何を求めて、ここに留まっている」
サンラットが王のようなものになり、バシュトーという国は出来たが、その中身は古くからのこの地域の生活習慣そのままであり、サラマンダルのような潤った地が他にないため、殆どの部族が家畜を飼い、それに僅かな草を食ませるためにあちこちを転々としている。
それを止めてしまえば、彼らは、生活が出来ぬようになるのだ。勿論、各地から集った部族はその全てが集合しているわけではなく、あくまで一部ではあったが、サンラットには、何故彼らがここに留まるのかが分からない。
「さあな。奴らに、直接聞いてみろ」
問うべき相手は、ヴィールヒではないと言う。彼らにこそ、問えと。サンラットはそれもそうだと思い、夜、
火を囲むのは、五十人。すなわち、五十の部族がここに集っているということになる。
「貴殿らに、問う。何のために、このサラマンダルに留まるのか」
と、バシュトーの言葉で言った。
一人が、答えた。
「国を、求めるためだ」
サンラットは、その意味が分からない。
「俺は、国を作った。それでは、不足か」
「不足かどうかではない」
別の一人が言った。
「私たちは、求めたい。私たちの血に連なる者が、とこしえに飢えず、暮らせる国を」
サンラットが、隣で火に当たりながら眼を細めているヴィールヒを見た。ヴィールヒは、何の反応も示さず、ただ掌を火の熱にかざしている。
「これは、ここにいる者全員で、話し合ったことだ。サンラット。あんたが、本当に、与え合うための国を作ると言うなら、私たちはそれに力を貸す。だが、それを絵空事で終わらせたくない。現実にして、はじめて意味があることだと思う」
サンラットは、少したじろいだ。ヴィールヒが、口の端を少し歪めている。笑っているのかもしれない。
「ヴィールヒ。彼らに、何を話したのだ」
ヴィールヒは、口の端を歪めたまま、答えた。
「言っただろう。ここにあるのは、まだ雛鳥なのだと」
国の形。与えるために、奪わなければならぬ日が、来るというのか。それも、こんなに早く。
「人とは、弱いな」
ヴィールヒが細めたままの眼で、ここに集まったバシュトーの人々を見ながら言う。
「ついこの前まで、お前達は、それぞれがばらばらに生き、自分の部族のことだけを考えていた。それが、どうだ。こうして集まり、国となれば、その自分の部族の利のためにという感覚が、国に置き換わっただけではないか」
ヴィールヒの言う通りである。
人の求めに応じて国を作ったはいいが、それは、単に所属する集団が大きくなっただけのことで、むしろ集団が大きくなることにより、望むものも大きくなっているではないか。
自分達が食うに困らず、生きてゆければよい。そう思っていた人々は、国という正体の分からぬ集団を得ることで、永く安寧に暮らしてゆけるのではないかという期待を持つようになっている。
「サンラット。
「草が無くなって別の場所に移り住んだり、飢えたりせずに済むように。俺は、俺の子に、俺とは違う生が与えられるのなら、それを掴みたいと思う」
それぞれの部族の長が、次々と声を上げる。
「お前がもし立たぬと言うなら、やむを得ん。ここにあるヴィールヒ殿を立て、ウラガーンと共謀し、我らはそれをする」
サンラットの顔が、凍りついた。
「ヴィールヒ。この者らに、何を話したのだ——」
ヴィールヒは、なお口の端を歪めたままである。サンラットを真っ直ぐに見据え、言った。どういうわけか、細めていた眼を、見開いて。
「選べ、サンラット。ここで俺に、お前の全てを奪われるか、お前が、北から
そのどちらかを選べ、と、後の世で英雄王と呼ばれるようになるウラガーンの総帥は言った。
「前者を取るなら、今ここで、この者らが見ている前で俺を殺し、己の正しさを示せ。この者らを、バシュトーを敵に回す覚悟があるなら、な」
サンラットは、傍らに寝かせている鉄棒に、そっと手を伸ばした。
掴んだ。
瞬間、座したまま、それを振り上げた。
しかしその鉄棒は
それが映す火が、視界をちらちらと染めた。
「後者を選ぶなら、俺はこのまま、お前達と共に北へ向かうだろう。そして、お前達は、お前達の欲するものを手にする」
凄絶な気を放ち続けるヴィールヒを前にして、なお失禁などせずにそれを睨みつけているサンラットは、流石と言っていい。
しかし、サンラットには、自ら作ったはずの国自身が抱き始めた自我を、どうすることも出来ない。
「——わかった」
彼は、ヴィールヒに従ったわけではない。
歓声と、喝采。
ここに、はじめて、バシュトー王と、バシュトー国民が誕生した。
そこに、サンラットの部族の者も何事かと集まってくる。
「民は、お前の声を、待っている」
ヴィールヒ。不敵に笑っている。
サンラットは、鉄棒を握り締めたまま、それを見回した。
サンラットのよく見知った顔が、並んでいた。
その者らの眼に、サンラットが背にしている大篝が映っている。
ナシーヤほど寒くはないが、乾いた大地の冬の夜は冷える。
その風を、自らの体内に取り込んだ。それが、身体の中を駆け回ってゆく。
そして、ひとしきり暴れた後、言葉となり、吐き出された。
「支度を。戦いの、支度を。出立は、明日。目指すは、ナシーヤ。俺は、
どよめき。
この数年の間、南では乾燥が特にひどく、飢えて存続することの出来なくなった部族がいくつも出ていた。その背景があるから、ナシーヤの豊かな大地とそれがもたらす実りを得るというのは、バシュトー人にとって魅力でしかなかった。
飢えがない世というものは、彼らの知る苦しみのうちのほとんどを取り去ってくれる世のことである。
皆、この夜、本当の意味で生まれた王に従った。王自身が、国の意思に従うように。
翌朝。各地の部族の長が持ち寄った食糧や家畜はそのまま兵糧となり、集まった八百の人間はそのまま兵となった。
この八百の集団は、軍だった。
サンラットの部族の二百の戦士も、加わった。
彼らは初めて国となり、彼らは初めてバシュトー人となった。
ヴィールヒも、純白の馬に跨り、槍を
「言葉を、かけてやれ」
その横顔が、言った。
「——いざ!」
大歓声。
彼らは馬を駆けさせ、まっしぐらに、北へ。
全く、ウラガーンというのは妙なものだ、とサンラットは呆れるような思いであった。
ザハールをたまたま助けたと思ったら、サンラット自身も知らぬ間に国を作ることになった。
ヴィールヒの来訪を受け入れたと思ったら、サンラット自身も知らぬ間に、ナシーヤを攻めることになった。
なにやら雲の上に浮かぶような心地がするが、サンラットは、ただ北を見つめている。
サンラットは、この南の地に暮らす全ての人に、飢えを知らぬ世を、互いに与え合える世を与えなければならぬ。
そのことに、変わりはないのだ。
彼は、この南の地において、人に与えるということをする、最初の人間になろうとしている。
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