次の一手
「なあ、サヴェフ」
サンスは、ちょっとサヴェフの機嫌を伺うようにして、声をかけた。
「どうした、サンス。兵の調練は、終わったのか」
年は明け、ノーミル暦四八八年一月。この冬は寒かったという。ナシーヤでは雪は降らぬが、東方の大山脈や北方の山岳地帯などには深く積もっていたという。
そこから吹き降ろしてくる寒風が平地を駆け抜け、その道筋の一点に、彼らはいる。
ラハウェリ。ウラガーンが拠点としている軍事要塞である。もともと、グロードゥカのものであった。経済の拠点としているノゴーリャはこのサンスが偽造した書類によりその守兵とウラガーンを入れ替えるようにして奪ったわけであるが、このラハウェリは、精霊の巫女を立て、それに従わせるという形で奪った。もともとここに詰めていた兵は残らずウラガーンとなっており、グロードゥカの影響を受ける者はない。
ある研究者は、この時期のこういう人の心の動きを、国民の自我の芽生えであると言う。ずっと、国家やそれに許されて地域を治める統治機構というものに従うことしかしなかった国民が、自分の意思でもってその行動を決定することを始めたことを指して言うのであろう。
何もないところからそれが生じることは稀である。しかし、例えば楚漢戦争の頃のことなどを思えば分かり易いことであろうが、何かのきっかけがあれば、潜在的に抱えていた人の意思というのは一気に噴き上がり、野焼きのように広がってゆくものである。
人々の、こういう心の働きが活性化し、自我を持って動くには、条件が要る。
まず、国に対する不満。それは、このナシーヤを見れば、どこにでも満ちている。役人は不正を行い地方軍は横暴で、民は奪われて飢え、戦いがそれを更に助長させる。
次に、人。これより百年も二百年も前からナシーヤには国のあるべき姿を説いて回る、古代中国で言うところの遊説家のようなものがあらわれ、しきりと国の行く末に警鐘を鳴らし続けていたが、だからといって国民はどうしてよいのか分からない。だが、この時代の特殊性は、これより前の時代にも後の時代にも居なかった、「士」という存在にある。
士とは、自分がどの勢力に所属していようとも自分とはあくまで個であると考え、その個の視点から全を見る者を指す。
このウラガーンに所属する者は、誰もが士であった。彼らは個であるから、意思や思考を行動にすることが出来た。もし彼らが多くの国民同様、衆のうちの一人であれば、周りが苛まれ、困り、苦しむことのみを見、自ら考え動くということは出来なかったであろう。
そして、ウラガーンとは、そういう個が集まり、出来た衆。
国家という最も分かりやすい衆の破綻により分離して発生した個が群れをなし、また衆となったのだ。
だから、彼らは、国をどうこうするということについて、直線的あるいは曲線的な行動が取れた。
いや、それもやや違う。彼らにしてみれば、彼らの為すことはあくまで個としての行動の発現であり、国を正すとか倒すというのは、その手段であり通過点にしか過ぎぬのだ。
それゆえ、彼らは自らが追い、求めることについて、率直であった。
サヴェフの頭がどうかしているわけでもなく、ペトロが天才であるわけでもない。彼らは、自分達がどうしたいのかを知っている。ゆえに、そのために何をしなければならないのか考えることが出来た。
だが、やはりサヴェフとは、並の人間ではない。
それは多くのウラガーンの者が思うところであり、サンスもまた然りである。
「これから、どうなるんだ」
サンスがサヴェフの機嫌を伺うような口ぶりなのは、王が死に、それがサヴェフの差し金によりイリヤが実行したものであるということを知ったからである。
「どうなる、とは」
サヴェフは、例の眠ったような眼をした。
「でかい博奕だと思っていた。しかし、それが、これほどまで大きくなるとは」
サンスは、掌の中で賽子を転がしている。
「どうなる、とはお前らしくもない。たとえ勝てぬ博奕であったとしても、勝ちを自らに引き寄せるのが、お前という男ではなかったか」
サヴェフは、金色の髭を撫でながら言った。
「そりゃあ、俺だって、博奕は大きい方がいいさ」
「ならば、何を恐れる」
「あんたのことさ」
サンスは、賽子を、ぱっと投げた。
「私のことだと?」
その出た目を見つめながら、サヴェフが身体をサンスの方に向けた。話を聞こう、ということである。
「そうさ。あんたのことだ。俺は、あんたが心配だ」
「それは、王が死んだのが私の差し金によるものだということが露見することを恐れているということか」
「それも、ある」
一月の風が、吹き込んできた。
寒いため、サヴェフが雨戸を閉めた。この神経質な男は陽射しをまず嫌うし、寒さも嫌う。と言うより、この世の中で、この男の好きなものを探すことの方が難しいほどである。
「それなら、心配ない」
風のなくなった室内で、サヴェフは静かに言った。
「丞相ニコは、必ず戻ってくる。私が王を殺したと知ったとしても」
「どういうことだ」
「言ったままだ。丞相ニコにとっては、王を殺したのが誰かということなど、どうでもよいことであろう」
サヴェフの眼には、不思議な光があった。サンスは、その光を知っている。
これは、博奕に勝つ眼だ。とその光のことを思った。
「詳しく、教えてくれないか」
サンスは、引き込まれるようにして、サヴェフの言葉を待った。
「ニコは、一度野に下った。しかし、このまま腐り、消えてゆくはずがない。あの男にとって、王家の軍が全てであったのだからな。それに、雨の軍——」
と、言葉を切った。
「雨の軍の存在は、アナスターシャを取り戻すためであるということであったな」
と、今更気付いたように言う。
「ああ、そうだったな。何だよ、急に」
「サンス。アナスターシャは、どうしている」
「さあ。今朝は、ザハールと一緒にいるのを見かけたが。原野で、騎馬隊の調練に行くと言っていた。アナスターシャも一緒に出たのか?」
「そうか」
サヴェフは、なお考えている。
「アナスターシャを取り戻すために、ニコは雨の軍を作り、そしてそれを率いるのはルゥジョー、か」
サンスは、何となく足元に転がった賽子を再び手に取った。
「アナスターシャとニコは、もしかすると——そうか、それで、あの女」
サヴェフの世界から、サンスの姿が薄くなってゆく。
「そして、ルゥジョー。何故、あの男は、アナスターシャに固執するのか。ただ任を帯びているからというわけでは、あるまい」
サヴェフのいつもの癖である。サンスは、仕方なく手の中の賽子を振った。
「目が、揃ったな」
サヴェフは、サンスの存在を忘れてしまったかのようであったが、ちゃんとその賽子の目を見ていた。
「ああ、揃ったな」
サンスも、それに応じてやる。
「ふふ、揃った」
笑って、サヴェフは立ち上がった。
「大精霊は、その翼でもって、人を守る、か。アナスターシャめ」
その口ぶりに、なにか含みがある。それが何なのかは分からぬが、サンスは、背筋が寒くなるのを感じた。
「このあとどうする、という話だが——」
サヴェフが、サンスを見下ろしながら、話題を元に戻した。
「南から、バシュトーが、攻めてくる」
「何だって」
サンスは、驚いた。バシュトーはつい先年、ウラガーンの手によって出来上がったばかりではないか。
「バシュトーが、攻めて来るだと?」
「ああ、そうだ。そうでなくては、わざわざ南に人をやり、建国を手伝った甲斐もない」
「サヴェフ、あんた——」
「全ては、目的のため。そのため、あらゆる手段を使う。バシュトーは、別に国など欲してはいなかった。しかし、我らに触れ、彼らは、国を欲した。一度欲すれば、もう、止まらぬよ。彼らは、膨れ上がった
サンスは、怖くなってきた。一体、サヴェフは何を言っているのだ、と思った。
「自分達に与えるため、彼らは、奪いに来る。必ず」
それを焚き付けるため、ヴィールヒは南に向かったのだろうか。
「そして、北だ。北で怨嗟を渦巻かせるため、私達は鉄を流した」
正直、トゥルケンなど、どうでもよいのだ、と後代になってから史上最高の宰相と呼ばれるようになるサヴェフは言った。
「この国を取り巻く全てを使い、私は、乱す」
「宰相ロッシは、どうするんだよ」
「あれは、捨て置けばよい」
「だけど、ウラガーンとロッシは、互いに利用し合うのではなかったのか?」
「そうだな。だが、放っておけば、あれは国を滅ぼす。このナシーヤという国ではなく、そこに暮らす人の生を。だから、力を持ちすぎる前に、殺すつもりであった」
恐ろしいことを、さらりと言う。
「だが、その必要もないだろう」
「どういうことだ」
「まあ、見ていろ。今に、分かる」
博奕の相手がサヴェフでなくて良かったと心から思った。この小柄な男は、恐らく、相手が握り締めた拳の中にある賽子の目すら、言い当てるのだろう。
「サンス」
サヴェフは、強い声で言った。
「兵の調練を、よくしておけ」
「わかった」
「博奕好きのお前が見たこともないような、一世一代の博奕が出来るぞ」
「——わかった」
大博奕なら、もう間に合っている、と言おうとして、やめた。サンスもまた、この国に蔓延るものを憂えているのだ。強き者は、弱き者を守らねばならぬ。それなのに、この国の役人や兵は、弱き者を虐げ、奪うばかりではないか。
だから、彼は証文を偽造する腕を身に付けた。はじめ、それで小さな悪を懲らしめることで満足していたものが、いつの間にか国そのものを相手に博奕をすることになっている。
だが、不満はない。むしろ、誇りであった。
「書いて欲しいものが、ある」
サヴェフが、また書類の偽造を依頼してきた。
「いいぜ。大博奕だ。何でも、やってやる」
「その意気だ」
サヴェフは、口の端を歪めて笑った。
サンスは、別にことが大きくなっていることに臆しているのではない。
ただ、このサヴェフという男が、恐ろしいだけなのだ。
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