光
南では、王が死んだという。
王家の軍の仕業であるとか、宰相ロッシの差し金であるとか、様々な噂が伝わってくるが、ルスランは、誰がそれを為したのか確信していた。
イリヤとジーンの隊がトゥルケンに入り、ルスランやラーレの挙兵を助けるために噂を流すという活動をしていたのだ。
「馬上の聖女が、ウラガーンの獅子を連れ、理不尽に立ち向かい、人を救うため、戻ってくる」
というものである。それをあちこちで吹聴して回り、人心を味方につけようとしていた。
ところが、ある日から、イリヤだけが、居なくなったのだ。ジーンも、その行く先を知らぬと言う。イリヤの隊の者に問うと、北に向かう前、イリヤだけがサヴェフに呼び出され、何事かを言い付かっていたという。
それが、王の暗殺についてのことであったのだろう。
イリヤは、たった一人で王都に向かい、王城に忍び込み、それを成し遂げたのだ。
そういう役目なら、ヴィールヒが順当である。ユジノヤルスクの候の館に忍び込み、それを屠ったのもヴィールヒである。だが、彼は今、南に行っている。だから、イリヤだったのだろう。
それだけ、イリヤが暗殺者として成長を遂げているということである。あの臆病者が、と思わないでもないが、臆病だからこそ出来ることなのかもしれぬとルスランは思う。
「傷は、いかがですか」
自ら率いる軍と共に野営を続けるラーレが、日に一度はルスランの滞在する街の宿にやってきて、声をかける。傷を受けてはいるがルスランの身体はその名の通り獅子のように頑丈で、なおかつジーンやイリヤの隊の者がそれとなく警護をしているから、万一、雨の軍の襲撃を受けてもこれ以上の傷を受けることはないだろう。
「そうだな。俺は、もういい。それより、こいつだ」
と言うルスランの傍らには、いよいよ腹を大きくしたライラが座している。
「もうすぐ、産まれるのでしょうか」
「知らん。俺もこいつも、人の親になど、なったことがないからな」
ルスランは豪快に笑うが、ライラは、自らの腹に優しく触れながら、
「もう少し。もう少し」
と語りかけるようにして呟いている。
おそらく、出産が近いのだろう。
雨の軍の襲撃とライラの腹が大きくなっていることにより、作戦は遅れている。本来なら、街の一つや二つくらいは乗っ取り、その民の声を集め、軍を立ち上げていてもおかしくはないのだ。
もうすぐ、年が明ける。
多くのことがあり過ぎた四八七年が、終わろうとしているのだ。
トゥルケンの冬は、寒い。
多少滞在が長くなっても、資金はウラガーンから運ばれてくる。ラーレの兵はこの国の産まれだから気にもせぬようであるが、ルスランの兵は寒さに凍えており、資金がいくらあろうとも暖かさは買えぬらしい、と言いながら火にあたっているという。
「あなたの子が産まれれば、すぐ、軍を発することが出来ますか」
そう問うラーレに、ルスランは膠を噛んだような顔を見せた。
「わたしのことなら、気にしないで。
そう言って、ライラは妊婦特有の隈の張り付いた顔を笑ませた。ナシーヤやトゥルケンの者に比べれば濃い色の肌をしているが、それでも分かるほどにはっきりと隈が出ていて、いよいよ出産が近いものであると思われた。
「イリヤさんや、ジーンさんの軍が、守ってくれる。わたしは、ここであなたの帰りを待っている」
だから、身重の自分や子のことなど気にせず、戦いにゆけ、と言う。
「しかし」
ルスランは、妻やこれから産まれてくる子を放り出して戦いに赴く気にはなれぬらしい。
「あなたは、戦いの人」
ライラは、張り出した腹を庇いながら姿勢を変え、ルスランの背に掌を当てた。
「そして、あなたは、とても優しい人。だから、あなたは、戦いに行っても、わたし達のために、必ず帰ってきてくれる」
ラーレは、二人が睦み合う姿を、じっと見ている。
「だから、わたし達のことは――」
そこで、ライラの言葉が止まった。
腹を押さえ、苦しみを訴えている。
「おい、ライラ。大丈夫か。まさか――」
ルスランが、
「ラーレ。宿の者を、呼んできてくれ。それに、い、医者だ。医者」
ラーレは、足から根が生えてしまったように動かない。苦しむライラの顔と、汗を飛ばすルスランとを、交互に見ている。
「何やってる、早く!」
戦場で飛ばす怒号のような声を受け、やっとラーレの足が動いた。
駆けた。戦場を何千ヴァダー(彼らの、距離の単位。一ヴァダーでおよそ〇.八五メートルほど)駆けても息を切らせたことなどないのに、このときは、息を切らせた。
「来てくれ、早く!」
と宿の者に声をかけ、そのまま飛び出し、街路を駆け、医者を求めた。
雪が降っている。ナシーヤでは、雨なのかもしれない。
戦いならば、己と兵の力で、どうにでもなる。今まで立った全ての戦場で、ラーレは己の握る双つの剣と弓矢でもって、その生を拓いてきた。
それでも負けたあの戦いの場においても、もしラーレにその気があれば、主ラハーンを背に守り、あの馬軍に向かって突進し、死んでもよかったのだ。
だが、今この場においては、ラーレはどうすることも出来ない。
どれだけ剣を振るっても、どれだけ馬を駆っても、苦しむライラをどうにかしてやることなど出来ない。もし、その苦しみが姿を持ち、ラーレの眼の前に立つならば、ラーレはただ一矢でその首を飛ばし、ライラを救ってやることが出来るだろう。
しかし、これは、戦いではなかった。いや、むしろ、戦いであった。
敵ではない何かと、ライラは戦っているのだ。
ラーレは、今まで、敵としか戦ったことがなかった。
この世には、敵と、そうでないものの二種類しか存在せぬと思っていた。
しかし、違うと知った。
敵ではない何か。
どうすることも出来ぬ。
だから、雪を切り裂くようにして駆け、息を切らせ、医者の家の扉を強引にこじ開け、老いた医師を寒空の下に引っ張り出し、宿へと急ぎ戻るしかない。
「――あ」
ルスランとライラが滞在する部屋を開けたとき、既にライラは布にくるまれた赤子を抱いていた。
「ああ、お医者様。この子だよ。診てやっておくれ」
宿の女が、言った。
「この女将さんが、お産を手伝ってくれたんだ」
室内には、血が混じった湯。何枚もの血の滲んだ麻布が、板敷きの床に転がっている。臍の緒が付いたままの赤子を素早くライラから取り上げ、適切な処置をした。
「うむ、元気な、男の子ですな」
医師が再びライラにそれを返すと、赤子は僅かな泣き声を上げ始めた。
「これが、産声というものか」
ラーレは、圧倒されるような気持ちで、それを見ている。
「いいや、産声なら、さっき上げたよ。父親似だね。とんでもなく大きな声だった」
宿の女将が、豪快に笑った。
「そうか」
何故か、ラーレは、自分がその場にいなかったことを、残念に思った。
「あなたがいてくれて、よかった」
ライラが、消耗しきった身体で、女将に礼をしようと、起き上がった。
「駄目駄目。寝ていなさい。女なら、誰にでもあることなのよ。気にしないで」
女将はまた笑い、赤子の顔を覗き込み、その頬を優しく突いた。
「うちの息子も、こんなだったねえ。懐かしい」
「あんたの息子は、もう大きいのか。あんたに似ているなら、さぞ豪毅な男に育ったろうな」
ルスランが、何気なく問うた。
「そうだね。あんたの言う通りさ」
女将の表情が、やや翳った。
「気が荒すぎたんだろうね。精霊軍に加わり、ナシーヤとの戦いに赴き、そこで死んだよ。十七だった」
あの戦いに、この女将の息子は居たのだ。おそらく、丞相ニコの用意した、尖った丸太の取り付けられた車を曳くあの馬群に轢き殺されて死んだか、その後のニコの苛烈な攻めを受けたときに死んだのだろう。
「どんなに元気でも、人なんて、すぐに死んでしまうものなのさ。あんた、この子を、大切にしてやりなよ。死んでから、親が子にしてやれることなんて、一つもないんだ。夜、思い出して涙を流したところで、あの子は喜びもしない」
女将の眼に、涙が浮かんだ。
「ああ、悪かったね。せっかく、元気な子が産まれたのに、変な話をしてしまって。あたしは、店に戻るよ。お医者様も来てくれたんだ。安心だよ」
医師は、ライラの診察を始めた。特に問題はないらしく、ルスランが大きな溜め息をついた。
ラーレは、部屋の入り口で、ただ立っている。
戦い。
それは、人の命を奪うためのもの。
ならば、何故、人は産まれてくるのか。
今ライラが抱き、ルスランが満面の笑みで見つめているこの小さな命は、戦いで失われるために、産まれてきたのか。
人など、すぐに死ぬ。だから、大切にしなければならない。死したのち、生きる者が、死した者にしてやれることなど、ない。
女将の言葉が、胸を揺さぶった。
「――なさい」
ラーレが、呟いた。
「どうした、ラーレ。突っ立ってないで、お前も、この子を抱いてやってくれ」
ルスランが、ぎょっとした顔をした。
「――ラーレ?」
「ごめんなさい」
大粒の涙。まるで、星のような。
それが、凍りついたラーレの眼から、滴となり、墜ちている。
「ごめんなさい」
「どうしたの、ラーレさん」
横たわるライラも、弱々しい声を上げた。
「ごめんなさい」
「何を、謝っているんだ」
「戦うことをして。殺して、ごめんなさい」
ラーレはそのまま床に崩れ、両手で顔を覆って泣き始めた。
「それしか、知らないの。戦うことしか。殺すことしか。あの女将の子を殺したのも、わたし。名もなき敵を殺したのも。きっと、その者の母も、あの女将と同じように思っているわ」
「おい、落ち着け。どうしたっていうんだ」
ルスランは、ライラのことに加え、ラーレの面倒も見なければならなくなったことに、さらに狼狽している。
「殺して、ごめんなさい」
ラーレの慟哭は、続く。
ルスランはどうしてやることも出来ず、ただ困ったように眉を下げ、白髪の混じった頭を掻いた。
「ラーレさん」
その嗚咽を、ライラが破った。医師の制止を聞かず、赤子を抱いたまま、ゆっくりと起き上がり、ラーレに歩み寄る。
「大丈夫。あなたは、守ってくれるんでしょう?わたしの
そう言って、布にくるまれて眠る赤子を差し出した。
差し出されたそれを、ラーレが受け取る。
また、赤子が小さく泣き始めた。
ラーレは、もっと大きく泣き始めた。
命を奪うことしかしてこなかった女と、今、命を与えられた子。共に、泣いた。
「この子に、名前を付けてあげて」
ライラが、穏やかに言った。ラーレはまた泣くのをやめ、きょとんとした顔でライラとルスランを交互に見た。ルスランも、笑って頷いている。
「――わたしが?」
「そう。あなたが」
「ラーレが、俺の子の名を。そいつはいい。いい名を頼むぜ」
ラーレは、自らの腕の中でまだ泣き声を上げる子を見つめた。
少しでも力を加えれば、それはたちどころに壊れてしまいそうであり、少しでも力を緩めれば、それは腕からすり抜けて墜ちてしまいそうだった。
まるで、流れ墜ちる星のようだと思った。
「――
ぽつりと、言った。
闇の中、浮かぶ光。
それに似ていると思ったのだ。
「光、か。それはいい」
ルスランが、膝を打った。ライラも、嬉しそうに笑っている。
「そう、スヴェート。この子は、スヴェート」
ラーレが、今度は力のある声で言った。
眼を真っ赤に腫らしながら、それでも、笑った。
とても慎重に、二人にスヴェートを返してやり、瞼と同じように真っ赤になった鼻を啜り、
「また明日、来る」
と言い、剣を腰に提げ、立ち去った。
筆者は、思う。
このくだりが、あえて史記に記されているのは、何故なのだろうかと。
ラーレという人間に深みを持たせるためとも思えるし、単に十聖将の一人、獅子星ルスランの子スヴェートの誕生を描いたものとも思える。
だが、筆者は、単純に思う。
この長い長いウラガーン史記が描くものの本質が、これなのではないかと。
ラーレは、ルスランの子の誕生を受け、ただ一心に駆け、スヴェートの産声が聴けなかったことを残念に思い、人の命の脆さと重さを感じ、その温かみに触れ、己が人から奪うことしかしてこなかったことを悔い、涙を流す。
それは、ラーレが特別だからではない。
ラーレもまた、人であったからだ。
ヴィールヒの言うことは当たっている、と筆者は今更ながら思う。
「お前は、何でもない、どこにでもいる、ただの女だ」
ラーレは、このようにして、龍となった。
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