脈動
「何だ。何が、起きているのだ」
この鉄工場を取り仕切る指揮官。突然の轟音と炎に、狼狽した声を上げた。
何か、事故が起きたらしい。状況の確認に、周囲の人間を走らせた。
死者は。被害は。前線から厳命として下されている鉄の増産は、追いつくのか。
「なんということだ」
目の前が、真っ白になった。
ふと、後ろを振り返った。
「――誰だ」
思わず、声をかけた。三重に積まれた塔の、最上階である。今しがた、外に向けて数人が駆け出して行ったところである。この部屋の出入り口は、一つしかない。
それなのに、その影は、当たり前のようにして、そこにいた。
腰に、見慣れぬ武器。僅かな湾曲を持った片刃のそれが、抜かれた。
「お前は――」
そう言いかけた首が、胴から離れた。
「悪く思わないでくれ」
石の床に流れる血を踏む革の沓。
イリヤ。
混乱に乗じ、ただ一人でこの塔に現れ、鉄の生産を指揮している者を屠った。
この者が、精製された鉄の量から生産される製品の内容を決め、指示を行っていた。この者が死ねば、トゥルケン重装歩兵団の補充は、当分成り立たなくなる。
イリヤは、それだけをし遂げると、自らが発見されることを恐れ、石壁に穿たれた窓から外へと身を踊り出した。
これが、仕上げであった。
話は変わるが、この頃になるとウラガーンという組織はだいぶん力を付けてきている。
ごく初期の頃から続けている器を売ることのほか、主だった収入はトゥルケンへの鉄の密輸になっている。その収入は莫大なものになるらしく、その本拠の一つであるノゴーリャの町を貫く貿易の道を行き交う商人どもが、ウラガーンという一個の組織相手に商売を持ちかけてくるほどであった。
その中に、このときイリヤがはじめて用いたと史記に記されるような珍しい武器もあった。
北西の王朝でよく用いられるというこの片刃剣は、史記の最後のくだりで登場する中心的人物が愛用していたことでも有名である。思えば、その者も、黒髪であったから、これが史記を編んだ者による創作でないならば、奇妙な一致と言えるだろう。
まあ、そのことを今になって我々が確かめることは出来ないから、その背後にあるウラガーンの力の増大を示すひとつの指標として描いておくに留める。
余談が過ぎた。イリヤのことである。
彼は、ある意味で、こういう役目に、うってつけであった。これまでは、彼は人の中に混じって噂を流して国家の矛先がウラガーンに向かぬようにしたり、雨の軍の捜査を逃れるための工作をしたりする役目に専念していたのだが、このときから、彼が担うのは、もっぱら、こういう仕事である。
彼は、臆病である。
ゆえに、向いている。
臆病であるがゆえ、時間をかけてでも、最も人に自らの姿を見られず、自らの存在を知られず、ことを為す道筋、手段を取ることが出来る。
このとき、明らかに何者かに殺されたということが分かるように仕向けたのには、意味がある。
トゥルケン国内へ、精霊の軍の眼を再び向けさせること。
それが、目的であった。
その先にあるものをサヴェフは求め、ペトロがこの策を立案した。
細かいことは後の項で描くとして、とにかく、この役目はイリヤにうってつけであった。
ついでに、そのときのことをここに引いて記しておく。
「イリヤに、暗殺か」
ペトロは、はじめ、驚いた。
「彼に、向くだろうか」
「向く」
サヴェフは、いつも断定的である。
「サンスなどの方が、度胸があるが」
「いや、イリヤがいい」
ペトロは、その意味を考えつつ、前髪を少しかき上げた。どういうこだわりがあるのか、顔半分を隠すように前髪を垂らすこの髪型だけは昔から変わらない。
「そうか。では、ジーンが現場にまず潜入し、ベアトリーシャの爆薬を倉庫に運び込む。少しずつだな。十分な量が揃ったとき、ベアトリーシャを施設の中に引き込む」
サヴェフは、頷いた。運び込むのはジーンが人夫に化けて行うことが最善であるが、麦の粉と硫黄と鉄で作った奇妙な爆薬を扱うのは、ベアトリーシャがよいと考えたのだ。
実際は、ベアトリーシャはただそれを見ていただけであったが、彼女のこういう知識は、ウラガーンという組織がそれまでの単純な反乱軍などとは全く別のものであるということに厚みを加えている。
そして、イリヤが仕上げを行い、トゥルケン国内での鉄の生産を一時的に停止させる。
「ほんとうに、イリヤか」
ペトロは、古くからイリヤを知っているだけに、不安が拭えないらしい。
「問題ない」
とまたサヴェフは断定的なことを言う。
「サンスを牢から出したときの
「あれは、凄かった。まさか、塩の入った汁を鉄格子にかけて錆びさせるなど」
ペトロがそのことを思い出し、少し笑った。
「その汁の腕が、剣に変わるだけだ」
分かりやすい言い方である。あれが、もしサンスをひそかに殺せという話であったなら。あの時点のイリヤでは無理でも、今のイリヤなら、やり遂げるだろう。
時間は、経っている。
史記をなぞり、この物語を編み始めてから、実に五年。まだ十代の若者であった彼らは既に二十を超え、ナシーヤにおいては十分に社会的成熟を遂げる年齢となっている。ゆえに、彼らもまた我々と同じように、以前出来なかったことが出来るようになっていたり、出来ていたことが出来なくなっていたり、以前とは違うものの見方をするようになっている。
筆者はこのイリヤという男の変わりっぷりが面白くて、つい彼に多くのスポットライトを当ててしまいがちのように思うが、サヴェフは感情的になることが少なくなっており、のちに神謀を持つと言われるようになる素地を磨き上げているし、ペトロも明るく気のいい性格は変わらぬながら、目的のためには手段を問わぬという軍師らしさを発揮しつつある。
歴史というものを追うとき、ついその出来事ばかりに目をやってしまうものであるが、実際にそれを行なっていた人間のことに思いを馳せるということに意味と醍醐味があるように筆者は思う。
それには、このウラガーン史記というものは、絶好の題材であると言えよう。
また、話が逸れた。
そういうやり取りの後、この任務を言い渡されたイリヤは、文句を垂れながら、考えた。
どのようにして、人目につかず、標的に忍び寄るか。自由に動き回れるのは、混乱が起きている間のみ。それまで、どこに身を隠すか。
運動の邪魔にならぬ武器。それでいて、必ず相手を仕留められるもの。
イリヤは、ウラガーンという武装組織を目当てに各地の商人がもたらした武器が納められている倉の中から、ひとつの武器を手に取った。それが、あの奇妙な湾曲を持った片刃剣。その刃は鋭く、上手く振ればイリヤのように膂力のない者でも一撃で首を落とせる。
それを、イリヤは、毎日振った。
繰り返し、繰り返し。
彼は、ものに熱中しやすい方では決してない。それでも、このようにして剣を振るい続けたのは、彼が、自分について、人よりも為し得ることが少ないと常々考えていたからであろう。
それゆえ、彼は、剣を振るった。
何度も、何度も。
仕留めるべき相手の体格などについて分かることはないかとペトロに聞きにきたときは、ペトロも驚いた。何のためにそれを知りたいのかと問うと、イリヤは、
「剣の刃を入れる角度を、知りたいからだ」
と答えたという。
その表情はいつもの通り心細げで、それを人に悟られまいとする棘をまとっていたらしい。
どうやら、イリヤはこれから、その棘を刃に変え、自らの立つべき場所を斬り開くものらしい。
余談ばかりになるが、ペトロとサヴェフの会話の光景について、ひとつ付け加えておく。
北での仕事の準備は先に触れた通り綿密な打ち合わせのもとで行われ、実行された。当然、このウラガーンの二つの頭脳は、南のことについても話し合ったわけである。
「南の具合は、どうだ」
「問題ない。ザハールとルスランが、上手く南の部族の一つを焚き付け、それがジャーハーンという河を支配する最大の部族を退けて、拠った。今は、アナスターシャとザハールが各地を回り、他の部族を寄せ集めているところだ」
「そうか」
そこで、サヴェフの眼が光ったのを、ペトロはやはり見逃さなかった。
「なあ、サヴェフ」
長身のペトロが、小柄なサヴェフに視線を合わせるために、少しだけ膝を折った。サヴェフというのは、おおよそ人と眼を合わさぬ。自らの言葉が激しすぎることをこの頃になれば彼はよく知っていたから、それがその言葉以上の意味を持つことを嫌い、あえて人と眼を合わせぬようにして話す癖を身につけていた。逆を言えば、自らの言葉が、相手の中で繰り返し反芻され、ひとりでに意味を持って蠢くようなことを期待するとき、サヴェフははっきりと眼を合わせ、ものを言う。
その眼と、ペトロのそれが、合った。
「南のこと。本気なのか」
ペトロの言葉には、窺うような響きがある。
「ああ」
サヴェフは、短く答えた。
「あまり、多くは言いたくない。だが、あんたの考えていることが何となく分かる以上、俺は、それには賛同出来ないんだ。どうしても、それだけには」
サヴェフは、答えない。
「正しきを、行う。あんたは、かつて俺にそう説いた。俺は、そういうあんたが好きだ」
「そうか」
「なあ、よく考えてみてくれ。あんたが考えていることが、ほんとうに正しいことなのか、どうか」
サヴェフは、眼を逸らそうとはしない。そのまま、
「正しいかどうかで、計れぬものがある。言ったはずだ。俺は、自らが正しいと考えたことのためになら、悪すら行うと」
と答えた。
重ねて、言っておく。この物語に名を連ねる十聖将なる者どもは、時を重ね、その形を為してゆく。今ここにおいて描いたのは、その過程の話である。
建国の英雄、サヴェフ。
その姿が、徐々に形を持って、脈動を始めている。
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