意思
「馬鹿な」
ラハーンは、その知らせを聴き、愕然とした。
後方支援の要である鉄工場が、機能を停止した。運んでいた麦の粉が倒れ、炉の火に引火して大爆発を起こしたという、何とも馬鹿馬鹿しいものだった。
極めて不幸な事故のようでもあるが、どうも違うらしい。現場の指揮を任せていた精霊の軍の支援部隊の指揮官の首が、何者かによって落とされていたのだ。
「どうなさるのです」
馬群の曳く車により重装歩兵団が壊滅したあの戦いで受けた傷のまだ癒えぬラーレが、無表情で問うた。
布で腕を吊ったままの姿であるから、夜は立ったままラハーンの責めを受けていた。その最中も、彼女は無表情なままであった。さすがにこの報せを受けたのは昼日中であるから、普通にラハーンの隣に座している。
「どうすればいい」
ラハーンというのは、勢いに乗っているときは良くても、このような
ラーレの表情が、珍しく曇った。
「ラーレ」
報せを告げる急使が去ったあとラーレの方を見たラハーンの顔は、既にナシーヤになだれ込み、己の理想を現実にしようと目論む者のそれではなかった。
「今ある戦力だけで」
ラハーンは、目を血走らせながら、そう言った。
「無理です」
ラーレは、即座に言った。
「しかし、このままでは、また保守派の連中が」
どうやら、ラハーンは、この悲劇を、国内の保守派の連中の差し金であると考えているらしい。それも、サヴェフやペトロの思うつぼであった。
「奴らを黙らせるには、ナシーヤ王家の軍を打ち破り、力を示すしかない」
「しかし、重装歩兵団は、もうありません」
示すだけの、力がない。そのことを、冷静に主に告げた。
「どうにかなる。お前の騎馬を使え」
「無理です」
「臆したか」
強い言葉を浴びても、ラーレの表情は変わらない。その言葉が、平手打ちとなり、頬を襲っても。
「ラーレ。拾ってやったのは、誰だと思っている。答えてみろ」
ラーレは、答えない。
「ラハーン様」
ただ、我が主の名を呼んだ。
ヴィールヒの言葉が、蘇る。もう、一年以上、ずっとそれは彼女の中にさざ波を立て続けている。
アナスターシャの姿が、瞼に浮かぶ。それで、ラーレは自分が眼を閉じているのだということを知った。
だから、その眼を開いた。
必死の形相で、自らを従えようとする、主の姿がそこにあった。
「わたしの兵も、死にました」
それに、言葉をかけた。
「兵など」
血走った目のまま、ラハーンは言った。
「本国から、いくらでも補うことが出来る」
「しかし」
ラーレは、自らに降り注ぐ平手の雨を、避けようともしない。それを浴びたまま、続けた。
「減った兵は、補える。しかし、死んだ兵は、戻らぬのです」
ぴたりと、平手が止まった。
そうすると、別の音が聴こえた。
ラーレの頬ではなく、野営のための幔幕を打つ雨。
雨が降っているのだ、と何となく思った。
「もう、どうにもならぬのです」
「ラーレ」
ラハーンの眼が、
「俺のもとを、去ろうと言うのか」
「まさか」
ラーレは、腕を吊ったまま、立ち上がった。片手で器用に剣を
そのまま、雨を聴くように、外へ出た。
この位置からは見えぬが、王家の軍は、確実にトゥルケン精霊軍にとどめを刺そうとしてくるであろう。
丞相ニコが、ただ重装歩兵団を壊滅させただけで満足し、引き上げてゆくわけがないのだ。
つまり、この戦いは、もう終わったのだ。若いながら数々の戦場に立ち、勝利をおさめてきたこのラーレという天才は、そのことを知っていた。
雨を聴き、その身体を染めながら、ラーレは歩く。
ずっと、人形のようにして生きてきた。
それ以外に、ラーレがこの世で生きてゆく術はなかった。
だが、彼女は、知っていた。
いつの段階で、それを知ったのか、彼女自身にも分からぬであろうが。
彼女は、思った。自分のしてきたことに、なにほどの価値もないと。
自分のしてきたことは、例えば大聖堂に飾られている、精霊の彫像にでも出来るようなことであったと。
すなわち、自分は、何もしてこなかったのだと。
意思。
それが、自分に宿るのを、はっきりと感じた。
それが、彼女の思考を旋回させた。
父。かつて、ラハーンと共に戦っていた。
その父が死んでから、ラハーンは急に頭角を現した。
かつての友の子であるからとして、ラーレを拾い上げ、その戦いの才を磨かせ、そして自らの欲のはけ口として夜な夜な使った。
思えば、ラハーンとは、そういう類の男なのだ。
そして、彼女は、考えた。
父を殺したのは、ラハーンだったのだと。戦いに出向き、戻らなかったのではなく、ラハーンに謀られ、殺されたのだと。
何の確証もない。誰に聞いたわけでもない。ただ、ラーレは、そう思ったのだ。
片腕を吊る布を、そっと外した。
弓。それを、ゆっくりと構えてみた。
痛みがあった。
生きていると、感じることが出来た。
全ては、終わった。
いや、始まってもいなかった。
これからそれが始まるのかどうかは、分からない。
お前は、ただの人。他の大勢と、何ら変わりはない。
そう、ヴィールヒは言った。
ラーレは、考えた。
また、言葉が蘇る。
「考えることだな。自らを縛るものが、何なのかを。自らが、この世から何を奪われたのかを」
どうせ、流されることでしか、生きてゆけぬのだ。
構えた弓に、矢を
引き絞る。
腕の傷が破れ、血が噴き出した。それすら、心地よいと感じた。
感じたのだ。確かに、感じたのだ。
だから今、ラーレは、もしかすると生まれて初めて、沁み透るような笑顔を浮かべているのだ。
雨に打たれ、身体をそれに塗り潰されながら。
髪から滴る、その一粒すら、愛おしそうに。
放った。
雨を斬り裂くように、それでいて雨に溶けるようにして、矢は飛んだ。
そして、ラーレが先程までいた幔幕の中へ飛び込み、彼女を縛り付けていたものを貫き、止まった。
幔幕の中のことであるから、彼女がそれを見ることはなかった。
その代わり、腕からまた流れる血を雨が薄め、溶かしてゆくのを見ていた。
そのまま、自らの兵のもとへ。
丞相ニコは、訝しい顔をした。
大打撃を受け、前線を大きく後退させたトゥルケン軍は、また重装歩兵団を補充し、向かってくるつもりであると彼は見ていた。
しかし、どういうわけかトゥルケン軍はそれをせず、降伏を申し出てきた。
正直、肩透かしを食らったような気分であった。これからどのようにして彼らの戦力の補充を妨げ、とどめを刺すか。そのことを、考えていたからだ。
降伏の使者に、会った。
「帝国主義の復活。それを、我が主ラハーンは唱え、この度の戦を開きました」
ニコは、何も言わず、それを聞いている。
「我らは、確かに、その理想に乗った。しかし、貴殿らの策により、それは打ち砕かれた。主将ラーレも自軍を率いて遁走し、我が主も死んだ。こうなった以上、これ以上この戦を続けても無意味。ゆえに、我らは、貴軍へ降伏を申し入れる」
それが、使者の言うところである。
「わかった」
ニコは、まず回答をもたらした。使者の顔が、やや和らいだ。
「ザンチノ」
ニコが、傍に控えるザンチノに呼びかけた。
「我が剣を持て」
使者の顔が、凍りついた。
「早くしろ」
ザンチノも戸惑いながら、ニコに剣を差し出した。
それを抜きざま、凄まじい斬撃を放ち、使者の首を刎ねた。
その眼は、燃えていた。
「帝国主義。精霊の家。そのようなこと、どうでもよい」
ニコが、鮮血を噴き上げる使者の身体に向かって言う。
「貴様らは、このナシーヤの地を踏み、そして我らから、奪おうとした」
血が、ニコが踏む土に染みてゆく。
「俺は、それを打ち砕く」
ザンチノもまさか本当にニコが使者を斬り捨てると思っていなかったらしく、穴の空いたような眼をしながらそれを聞いている。
「忘れたか。我らは、王家の軍。人から、何かを奪おうとする者全てが、我らの敵」
様々な顔が、ニコの脳裏に浮かんだ。自らの父。ルゥジョー。アナスターシャ。宰相ロッシ。ウラガーンのサヴェフ。
「この世から、それを消し去ること。それこそが、俺が今ここにある理由」
ザンチノ、と鋭く最も信頼する副官であり育ての親のような男の名を呼んだ。
「心せよ。これより、一切の加減はせぬ。全力でもって、この国を、人を苛む全てのものを、潰しにゆく」
「――ははっ」
ザンチノは、思わず膝をつき、胸の前で手を組んだ。
丞相ニコの怒りは、尋常ではないと人は噂した。
主将が逃げ、総指揮官であるラハーンも死に、戦えぬようになって降伏を申し入れてきたトゥルケンの使者を斬り捨て、その足で自ら馬を発し、策も何もあったものではない力押しでもって、残っていたトゥルケン軍を一瞬にして殲滅した。
このとき死んだトゥルケンの兵は、実に千にも登るという。
馬群に車を曳かせてぶつけるという大掛かりな奇策でもって討った数よりも圧倒的に多い死者を、ニコ率いる本軍の容赦ない突撃は生んだ。
それはニコ本軍やザンチノ軍の戦闘力の高さを物語っており、彼らがいかに国を脅かすものに対して容赦ないかということをも示した。
王家の軍。
それは、人に畏れられる。
ただ単に、権威や奇策のためではなかったということである。
ウラガーンの狙いこそ、分からぬ。
北にニコを釘付けにし、その間に南でサンラットを焚き付け、国を作る動きを始めたところまでは、良かった。
だが、突如として鉄の工場を破壊してラハーンに焦りを生ませ、戦えぬようにした。
北での戦いが終わってしまえば、ニコは中央に戻ってくるのだ。ウラガーンにとって、良いことなど一つもないはずである。
しかも、ニコには、火がついてしまっている。そのような妙な土産まで付いてしまっては、普通に考えてウラガーンには不利でしかない。
それは結果論であるとしても、何か狙いがあって然るべきである。
無論、ラハーンを討ち、出奔したラーレは、そのようなことを考える余地もない。
彼女は、あの雨の中、ただ自らの直属の百余りの騎馬隊のみを連れ、トゥルケンの本営を去った。
そして王家の軍の控えるサンカラ北の原野を迂回するように山を越え、南へ南へと進んだ。
目指す先は、無論、決まっている。
そこで何が彼女を待つのか、彼女自身は知らぬ。しかし、その馬の足を南へと向けるのは、紛れもない彼女の意思であった。
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