南の雨と血と毒
ノーミル暦四八六年の、三月になった。王家の軍は、北への戦いに向けて発し、今なお交戦している。トゥルケンの精霊の家の軍はかなり精強で、なおかつ死を恐れず、倒せばまた本国から同数の補充が次々と送られて来るらしく、手こずっている。数年前のようには行かぬらしい。
その隙を突いて、南に国を作る。その突拍子もない策の実現に向けての準備を終え、ウラガーンは動き出した。また、精霊の旗が翻る。ルゥジョー率いる雨の軍が横槍を入れてくるかもしれないが、襲撃の心配はない。なにせ、今回ラハウェリを出発したのは、ザハールの隊なのだ。
南には、国は無い。ただ、旅をしながら家畜を育てている騎馬民族がいる。しばしば、それらは南の国境を越え、村を襲って食料を奪ったりしてきた。
南の民は、馬を扱うことが巧みで、なおかつ気性も荒く、剽悍である。ゆえに、ザハールの騎馬隊がそこへ向かったのだ。べつに、戦をしに行ったわけではない。あくまで、国を作りに。ただ、そのための戦はある。
一度に兵を多く動かせば王家に感付かれる恐れがあるため、兵は少しずつ、隊商などに偽装して送り込むことになっているから、はじめに南に向かったのは、百の騎馬のみである。
遅れて、ルスランも南に加わることになっているが、この時点ではまだラハウェリに居る。
「これを」
ザハールが、自らの馬に乾いた草を食ませながら、分厚い外套を差し出した。これより南は埃が多く、なおかつほとんど雨が降らず、日差しも強い。それから、自分が座るのと同じ岩にちょこんと腰掛けているアナスターシャを庇うためである。
「ありがとう」
とアナスターシャはそれを身に付け、外套から垂れ下がる灰色のフードを被り、唇に弧を与えてみせる。
「北のことが、気がかりか」
「ええ」
ザハールは、ウラガーンの中において、アナスターシャが丞相ニコと互いに想いを寄せる間柄であることを知る、唯一の人間である。何故アナスターシャがザハールにその最大の秘密を話したのかということについて史記では触れられていないが、なんとなく察しは付くから、あえて触れなかったのかもしれない。
「王家の軍は、勝つさ」
不意にそう言うザハールの言葉を受けて、アナスターシャが、フードの奥で吹き出した。
「変なことを言うのね」
「何故だ」
「王家の軍が勝っては、あなた達は困るでしょう」
「確かに」
ザハールの心中は、複雑と言うほかない。アナスターシャのためには、ニコが死ぬようなことがあってはならないと思う。しかし、ニコは、ウラガーンの最大の仮想敵なのだ。
そもそも、ここにアナスターシャが居ること自体、悲劇であろう。望まずして連れ去られ、精霊の巫女であると勝手に喧伝され、軍の先頭を歩かされて砦に赴き、その兵を従えるための道具にされている。
そして今も、南へ向け、慣れぬ馬に揺られている。さすがに馬を歩かせることに不足はなくなっていたが、長く乗っていると、尻が痛むのだ。それを気遣ったザハールが、隊に休止を命じ、二人、岩に並んで腰掛けているといった具合であった。
「わたしがここに居ること。そのことにも、意味があるはずよ、きっと」
アナスターシャは、ザハールに対しては砕けた口調で話す。
「サヴェフなどは、お前がここに居ることについて、大きな意味を感じているだろうな」
「サヴェフ――」
アナスターシャが、その名を口にした。それで、彼女がサヴェフをどのように思っているのか、ザハールは察することが出来た。
「悪い男ではない。他人に厳しいが、それ以上に、自分に厳しい。あれほど高い志と激しい熱を持つ男を、俺は知らぬ」
「ずいぶん、仲がいいのね」
「仲がいいとか悪いとか、そういう間柄ではない。ただ、あの男は、とてつもなく純粋なのだ」
そう、ザハールはサヴェフのことを評した。
「子供のようなところがある。純粋すぎるのだ」
「わたしは、なんだか怖いことがある」
「確かに、時折、あの頭の中が恐ろしくなることもある」
「あと、ヴィールヒのことも」
「怖いか」
「ええ、少し」
アナスターシャは、初めてヴィールヒと邂逅を果たしたときのことを思い出していた。
確かに、アナスターシャは、ヴィールヒによって連れ去られた。しかし、ヴィールヒと出会い、その言葉を聴き、何故か誘われるようにして、彼女は大聖堂を出たのだ。それが何故なのかは、分からない。
ただ、ヴィールヒは、言った。アナスターシャもまた、人であると。
人であるならば、自ら選び、生きなければならぬと。
それに賛同したわけではない。しかし、抗ったわけでもない。むしろ、どこかの部分で、受け入れたようなふしがある。ヴィールヒを前にすれば、アナスターシャが、いや、誰もが持つ、自らを守る理屈や概念を剥がされてしまうらしい。筆者にも未だにヴィールヒという人間が何者であるのか分からぬが、そのことについては、概ねそんなところであろう。
それを、彼女は、怖れと表した。
「ここより向こうは、夜、冷える」
ザハールが、立ち上がった。休息は終了ということだ。
「あなたは、とても優しいのね」
アナスターシャの無垢な笑顔を見ず、ザハールはただ南を見据えている。
「もう、国境だ」
そう言って馬に跨ろうとしたザハールが、足を止めた。
アナスターシャを地に無理やり伏せさせ、鷹のような眼になった。少し離れたところで思い思いに休息していた兵らも、それを見て戦闘体制を取った。
敵襲。軍や集団が接近していた気配はない。
それは、突如として湧いたようであった。たとえば、転がる岩の一つ一つが、乾いた草の一本一本が、兵になったように。
「巫女を守れ」
ザハールの号令が、この乾燥した国境地帯の、変化の薄い春に響いた。
どう見ても、正規の軍ではない。
雨の軍。そう見て取った。その数、二十。
「大精霊が眷属、アナスターシャ様とお見受けします」
そのうちの一人が、声を発した。
「いかにも。貴方は?」
アナスターシャの声の色がにわかに強くなり、精霊の巫女のものとなった。
「あなたの帰りを待つ者より、遣わされて参りました。ご同道を」
「わたしは、今、旅の途上です。それをやめ、貴方と道を共にすることは、出来ません」
ザハールが、アナスターシャを見た。
「引き揚げなさい。貴方は、ここで、わたしを見なかった」
「そういうわけには、参りません。ご同道を」
雨の軍の者は、アナスターシャが拒むとは思っていなかったらしく、意外そうな顔をしている。腰に提げた短い剣を抜くか否か、迷っているらしかった。
ザハールに向かって、アナスターシャは目配せをし、頷いた。
そこではじめて、ザハールは剣の柄に手をかけた。
「
「我々は、命じられたことを為すのみ。ゆえに、退却はない」
その口が、叫びを上げた。
踏み込み、跳ね上げた剣に、胴を断ち割られたのだ。
数人が、わっとザハールに襲い掛かってきた。ザハールの隊の兵も、一斉に武器を構え、主を救おうと駆けた。
涙は、水。ここに雨は降らぬが、代わりに血の飛沫が地に注いだ。
水は、流れ。突き出されてくる短い剣を弾き落とし、身を寄せてすれ違いざまに斬った。
流れは、時。まるで、時が、自らがこの場を過ぎ去ってゆくのを惜しむかのように、ゆっくりと。
いや、ザハールの身のこなしが、速いのだ。そして、無駄がない。身体のあらゆる部分を、彼は今、戦いに向けている。
雨の軍が身につけている粗末な革鎧など、無いのと同じである。
薙げば、その鎧が守るはずの身体をも断ち、突けば、水を斬るほどの手応えしか伝わってこない。
ザハールの兵がにわかに起こったその争闘に自らの身を投じることが出来る距離に入ったとき、既に、それは終わろうとしていた。
最後の一人。
畏れている。
「我が名は、ザハール――」
涙の剣が、天高く。
「――大精霊の前で、己が名と共に、告げるがよい」
頭蓋から、腹まで、断ち割った。
残心。
風が、吹いた。それが通り過ぎたとき、血振りをし、剣を納めた。
「怪我は」
もとの穏やかなザハールが、アナスターシャの前にあった。
兵の喝采。それが、二人に降り注いだ。
「アナスターシャ」
灰色のフードの向こうに、ザハールは語りかけた。
「斬ってしまって、よかったのか。この者らは、お前を迎えに来たのだぞ」
「斬ってから、それを言うのね」
さすがに、笑うわけにはゆかない。彼女の眼の前には、無残な死骸が二十ほども転がり、風でも拭えぬ血の臭いが立っているのだ。
どういうわけか、アナスターシャは、この雨の軍に従ってザハールを振り切り、ニコのもとへ戻ろうとは考えなかったらしい。むしろ、自らもまた南へと向かうことに何かしらの意味を感じており、そのことを優先することを選んだようである。
ザハールは、複雑な心持ちであったろう。彼女の心の中のどういう部分にどのような変化があって自らウラガーンとしての行動を取っているのかが分からないから、手放しで喜ぶことも出来ない。だから、
「とにかく、怪我がなくて、よかった」
と彼女自身の無事を喜ぶしかない。
「あなたのおかげよ、ザハール」
その瞬間、アナスターシャは、地に激しく押し倒された。何が起こったのか分からぬが、ザハールの身体が自らに覆い被さっていることだけは分かった。
「ザハール?」
「大丈夫か、アナスターシャ」
ザハールの腕に、一本の短い矢が刺さっていた。雨の軍が、まだ潜んでいたのであろう。その矢を放った者は兵に追い立てられて捕まり、滅多打ちにされて死んだ。
「早く、国境を抜けてしまおう。ここは、危ない」
ザハールが、腕に刺さった矢を引き抜き、自らの愛馬に跨った。
そこで、天地が逆転したような感覚に陥った。そのまま、落馬。
「ザハール!」
アナスターシャの、叫び声。漆黒の兜の下を覗き込むと、その肌は蒼白になっており、うっすらと汗をかいていた。
「毒――?」
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