バシュトー
混乱。
ザハールが、夜眠る以外で、地に横倒しになる様を見たことのある者はいない。率いる兵どもは、彼には神武が宿ると信じて疑わなかったし、それゆえ精霊の巫女であるアナスターシャもザハールと仲が良いのだと思う面もあった。その分、彼がたった一本の矢を受け、倒れたという衝撃は大きい。
「ザハール!ザハール!」
ザハールは、ほとんど泣きそうになりながら呼びかけるアナスターシャに応えることは出来ない。ただ、浅い呼吸を早めるのみである。
馬蹄。
それが、近付いてくる。
兵らは眼を血走らせて武器を構え、その方向を見た。
三騎の騎馬。敵、と思い、ザハールを守るようにして固まった。
「待て、待て——」
そのうちの一騎が、声を発した。
「なぜ、武器を向ける。お前達は、何者だ」
言葉に、どこかたどたどしい響きがある。肌はナシーヤの者よりも褐色が強いから、南方の騎馬民族の者らしい。
「俺は、敵ではない。まず、落ち着くのだ」
手にしている棒のようなものを引き、男は自らに敵意のないことを示した。
「こんなところに、軍とは。——おや、怪我をしているのか」
ザハールを見つけ、馬を降りた。
「毒を、受けているようなのです」
アナスターシャが、縋るように言った。
「毒、だと。見せてみるのだ」
妙な語尾を乾いた草の生える土の上に残し、男が歩み寄る。周囲の兵が武器を握り直すのを気にも止めず、ザハールの側に屈み込んだ。
「毒だな。間違いない。早く、運ぼう」
無造作に、男はザハールを担ぎ上げた。
「手を離せ」
兵の一人が武器を向ける。それを、アナスターシャが制した。
「我々では、ザハールの毒をどうすることも出来ぬのです。ここは、彼に助けてもらいましょう」
男は立ち止まり、振り返った。
「嬢は、俺を信じるのか」
アナスターシャの眼がぱちりと瞬き、それを見返す。助けてくれるんでしょう?と言わんばかりに。
男が少し笑ったのが、口元の埃除けの布が動いたことで分かった。
「心配するな。俺達は、毒を使う。だから、この男の毒のことも、出来る」
助けることが出来る、という意味らしい。
「お前達が何者なのか、それが知りたい。なぜ、こんなところに軍がいるのだ」
それをこの男に言ってもいいものか、兵は戸惑った。判断すべきザハールは、苦しげな吐息を漏らすのみである。
「南へ」
アナスターシャ。灰色のフードを外し、自らの顔を風に晒した。
「南へ向かうところです」
「ここより南には、何もない」
男は、馬に跨った。ザハールの手当てを急ぐつもりらしい。
「そんなところへ、なぜ」
詳しいことは、駆けながら話せということらしい。ザハールの隊の曳く荷駄に手短に目指すべき方向を告げ、駆け出した。
「南には、何があるのでしょう」
アナスターシャは、必死で馬にしがみ付きながら、声を張り上げた。
「言った。何もないと」
「何も」
「そう、何も」
旗が、音を立てて翻っている。それが、南を目指す。たとえ、南に何もなかったとしても、行かなければならない。サヴェフに命じられたからではない。ザハールが助かるかもしれぬ何かがあり、そして、自らが目指さなければならない何かがあるのだ。だから、それほど慣れていない馬に振り落とされそうになっても、アナスターシャは必死で騎馬の男どもについて行った。
騎馬の男は、表情ひとつ変えず、駆けている。彼らほど馬に慣れた民族ならば、確かにこれくらいの駆け方など、どうということもないだろう。ザハールの兵らも馬の調練を繰り返しており、かなり練度は高いが、それでもこのような駆け方をさせて大丈夫かと心配になるほどの駆けっぷりであった。
「何故、助けてくれるのです」
アナスターシャは、また声を張って問うた。
「倒れていたからだ」
それだけの理由。もしかすると、気のいい男なのかもしれない、と思った。
「それに」
男は、続けた。
「この男を、知っている。俺の見当違いでなければ、この男は、俺の知る男だ」
夕暮れが近付く頃、馬は停まった。
兵の馬のうちの何頭かが、ちょうど潰れかけていた頃である。
「集団で生きる。馬というのは。一頭一頭の速さではない。集団のうちで、最も遅い馬に、足を合わせてやるのだ。そうすれば、長く駆けられる」
眼前には、相変わらず草原とも呼べぬ土っぽい殺風景な光景が広がっている。その中に、ぽつりぽつりと人の手によるものが建てられているのが見えた。
「あれが、俺たちの
男の馬を見て、幕舎から人が吐き出されてくる。それらに、男はアナスターシャの知らぬ言葉でなにかを伝え、ザハールを運ばせた。
「嬢」
と男はアナスターシャを呼ぶ。
「お前の友が、殺気立っている。争いになりかねん。何とかしてくれ」
無理もない。わけもわからぬまま、見たこともない土地の見たこともない集団の中に入っているのである。昼間、雨の軍の襲撃を受けて戦ったばかりであるし、主であるザハールはそれによって毒を受けているのだ。兵らが警戒を示しているから、幕舎から出てきた人々もまたそれを写す鏡のようになり、未知の来訪者に対して険しい顔をしている。
どうやら、人というものは、そういうものであるらしい。
そのことに、アナスターシャは気付いた。
灰色のフードを外して人々に歩み寄り、にっこりと微笑んでやる。アナスターシャほど美しい娘がそうして、嫌な気持ちになる者は男女問わずいない。
「わたしは、ウラガーンのアナスターシャ」
ナシーヤ、ではなく、ウラガーンと自称した。
「わたしの大切な人を助けてくれようとして、感謝します」
言葉が、通じないらしい。それでも、アナスターシャは懸命に話を続けた。
「あなた達の名は?」
先程から会話をしている男が、どうやらこの集団の首領であるらしい。この男は、ナシーヤの言葉を理解する。それに向かって、問うた。
「
ザハールが運ばれていった幕舎から人が出てきたので、アナスターシャはそちらを見た。それは駆け足で近付いてきて、男になにかを伝え、また戻っていった。
「やはり、毒であった。俺達もよく知る毒だ。俺達の薬が、効くだろう」
「助かるのですね」
「普通なら、死んでいる」
アナスターシャの表情が曇った。
「だが、あの男は強い。あの男のいのちの力が、毒をはね返すかどうかだ」
「旗を」
しばらく黙っていたアナスターシャが、兵に向かって口を開いた。
「旗を、伏せて下さい」
兵らは互いに顔を見合わせたが、すぐにアナスターシャの言う通りにした。それを見届けてから、アナスターシャは首領の男に向かって言った。
「毒が癒えるまで、我々を、ここに留め置いて下さい」
男は、少し笑った。
「ここには、国はない。留まろうとも、去ろうとも、誰も咎めはしない。それが、
ちょっと意外であった。ナシーヤにおいて南方の騎馬民族と言えば、気性が荒く残忍であるという見方が一般的である。しかし、アナスターシャの目の前の男は、ザハールを助けてくれた上、それが癒えるまで集団の中に軍を留め置いてくれると言うのである。その理由を、男は、
「強い男を死なせるというのは、戦士にとって惜しむべきことだ」
と述べた。
「あなたの、名は」
アナスターシャは、問うた。
男は、答えた。
「サンラット」
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