ニコははじめ、朝が迫る夜の中を駆け巡っている騒動が何のためであるのかについての知らせをもたらした者が何を言っているのか、分からなかった。

「もう一度、言ってみろ」

「は。何者かが精霊の家に侵入したということですが、詳しいことはよく分かりません。騒ぎが、大きすぎるのです」

「巫女は」

「それも、分かりません」

「敵は、何人だ」

「分かりません」

 ニコは、ルゥジョーからの報告にあった、ヴィールヒのことを即座に思い出した。それが王都に入った同じ夜、精霊の家で騒ぎが起きたのである。話の途中で、部屋を飛び出していた。すぐさまザンチノやルゥジョーを呼び、王家の軍のうちの二百に出動を命じたが、なにぶん、未明のことである。すぐには整わぬ。

「ザンチノ。軍を任せる。まずは、俺だけでも精霊の家の様子を見に行く。ルゥジョー、供をせよ」

「はっ」

 ルゥジョーも、やはりこの騒ぎがヴィールヒによるものであると確信しているらしく、ようやく眠りについたばかりであったであろう疲れた顔を引き締めた。

「なりませぬ」

 と強く制したのは、ザンチノである。

「状況が、分かりません。王都守備軍すらまだ出ていない様子。その中、若とルゥジョーだけが飛び出して、万が一のことがあったら、いかがされる」

「俺の身など」

 ニコは、ザンチノの制止を振り切り、なおも飛び出そうとする。

「なりませぬ、若」

 ザンチノは、身体が大きく、力も強い。いくら鍛え上げているとはいえ線の細いニコの動きを、完全に封じている。

「離せ。離さぬか」

「なりませぬ」

 そうしているうちに、夜が一瞬、橙に染まった。

「何だ——」

 続いて、低い、不気味な音。ニコやザンチノは、その音に聞き覚えがあった。

「あれは」

 かつて森の軍と戦ったとき、彼らが使った罠。山で鉄を採る者が岩を砕くときなどに用いる、爆薬が炸裂した音。

 呆然として精霊の家の方を向くザンチノを振り払い、ニコは駆け出した。ルゥジョーも続く。


「申し訳ありません、ニコ様」

 ヴィールヒがいることを知りながら、どうすることも出来なかったことについて、である。ニコはそれには答えず、精霊の家の方に馬を走らせた。

「これは——」

 精霊の家の前に広がるのは、門番の死骸。馬から飛び降り、聖堂を目指す。点々と、人間が、無残な形になって転がっていた。開け放たれたままの扉から聖堂の中に入ると、そこにも人の死骸。そして、首が落とされた精霊の彫像。

 精霊の家の者を誰か呼び、状況を聴くべきか。もしかしたら、アナスターシャは、どこかに匿われ、無事であるかもしれぬのだ。

「誰か。誰か、おらぬか。丞相ニコである」

 そう呼ばわりながら敷地の中を駆け回り、精霊の家の者を捕まえた。その者は恐怖のためか、顔を真っ白にしていた。

「巫女は。巫女は、無事か」

「み、巫女は」

 突如として乱入してきた男に、連れ去られた。そう言った。

 ニコとルゥジョーは、また駆け出した。


 アナスターシャは、ニコの妻となるはずであったのだ。それを、何故。

 サヴェフ。あの背の低い、金髪の男のことを思い返した。国のため、そのようにしようと思う、ということをニコに伝えろとルゥジョーに言っておきながら、もう既に準備をしていたのだ。ルゥジョーと共にヴィールヒを送り込み、おそらく密かに、そして少しずつ王都に入れた森の軍を使って。それが何人なのかは、分からない。

 そのまま、前方の一点を見つめ、王家の軍の本営に戻った。途中、篝の焚かれた夜が、後ろへ流れてゆくようであった。本営では、ようやく兵が整いつつあった。おそらく、王家の軍はこの騒ぎに対して何もしなかったなどとロッシが言い立ててくるのであろう。

「ニコ様」

 指揮官として、ザンチノはニコを迎えた。ニコは兵の前に進み出て、言葉を発した。

「何者かによって、精霊の巫女が、連れ去られた」

 王家の軍とは、自分とは、何のために存在するのか。そう続け、言葉を少し切った。

「今のところ、誰が、何のためにそのようなことをするのか、確たる証はない」

 国家の安定の要。外敵からこのナシーヤを包み守る、大精霊の翼。そのような数々の評判にも、精霊が与えた才を持つと人に言われている自分にも、糞を塗り付けたい気分であった。

「人の心の要たる大精霊に対する、冒涜である」

 怒り。はっきりと、思った。ニコは今、全てに対して、怒っている。

「そのような行いを、断じて許すわけにはゆかぬ」

 女一人。自らがそれと決めた、女一人。ただ静かに祈り、そっと笑う、あの精霊の巫女。それすら守れず、何から何を守るというのか。

「ゆえに、これより、ここにある者に、精霊の巫女を連れ戻すことを任ずる」

 ヴィールヒ。そして、サヴェフ。その名を、深く心に刻んだ。

「ゆえに、これより、この二百をもって王家の軍より切り離す」

 一同に、どよめきが起きた。

「これより、ここにいる者は、精霊の巫女を救い出し、この暴挙を行った者を探して誅殺するために行動する」

 ザンチノも、ルゥジョーも、眼を見開いてニコを見ている。

「指揮官を、これに任ずる」

 その眼が、すぐ傍らにいるルゥジョーを見た。

「これから、この二百人を指揮するのは、このルゥジョーである。軍の名は——」

 ニコは、そこで言葉を切った。ルゥジョーに、雪辱の機会を与えてやったのだ。ルゥジョー自身もそのことが分かるらしく、黙って頷いた。これをしなければ、ルゥジョーは、この事変が起きる予兆を前もって知りながら止めることが出来なかった責をひとりでに感じ、自刎じふんしかねない。ほんとうならニコ自らがアナスターシャを探しに行きたいところであるが、こうすることで、ルゥジョーに生きる理由を与えてやったのだ。

 少し、天を仰いだ。

 風。夜は、鈍い青になりつつあった。空ではない。雲が、鈍い青なのだ。そこからニコの顔に、滴がひとつ。これで、名は決まった。

「——雨の軍」

 ニコはあらたな名をこの二百人に与え、顔を戻した。

「お前たちは、人の間に混じり、情報を集め、探り、精霊の巫女を救い出す。これまでの騎馬での調練などは、もう要らぬ。これからは、どこにでも現れ、誰にも知られることなく己の使命を全うすることが出来るような調練をするのだ」

 ルゥジョーが跪き、胸の前で手を組んだ。

「必ず精霊の巫女を救い出し、この凶行を為した者の首を、丞相の前へ献じます」

「いいや」

 ニコは、首を横に振った。

「出来れば、生きたまま連れて来い。この俺がはらわたを抉り、眼を潰し、手足を切り落とし、喉笛を切り裂き、殺す」

 尋常ではない怒りであった。ヴィールヒやサヴェフら森の軍は、とうとうこの国最強の軍を統べる丞相ニコをウラガーンにし、その逆鱗に触れたのだ。それが作為によることであるのかどうかは、分からない。


 とにかく、ここに新しい組織が誕生した。ニコの言う通り、雨の軍は、普通の軍ではない。人の間に紛れて諜報活動を行ったり、ときに闇に紛れて標的に近づき、音もなくそれを屠り、また闇の中に消えてゆくこともあるのかもしれない。ただ、そのような組織を作るからには、相手は個人ではなく、集団でなくてはならない。ニコは、ルゥジョーと同じく、初めからこれがある集団の仕業であると決めてかかっている。

 森の軍。一見、王家の軍に従うようでいて、何かとてつもないことを企んでいる。そのために、彼らはアナスターシャを奪うような真似をしたのだ。

 とてつもないこととは、何だろうとニコは思った。思って、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。もう、ここに来れば、森の軍が為そうとしていることが何であるのか、子供でも分かる。

 叛乱である。それも、国を覆すような。


 おそらく、サヴェフは、考えたのであろう。この時代、多くの候が力をそれぞれに得、自らの領土を更に広げようと画策している。それがもたらす乱れが常態化しているから、たとえば同じ時代のヨーロッパなどと比べて個を尊重する向きがある。個に、それぞれ自我を持ち、国を、そして世を憂う気持ちがあれば、それは士である。士である以上、その心のうちは個人の所有物であり、たとえ王であっても精霊であってもその中に立ち入ることは許されない。だからこそ、士は己の真名を大精霊の前で名乗るとき、胸を張って己の行いを述べられるように生きていなければならない。その一人ひとりの心のうちの筋道や倫理観は、時代が治まっていれば緩やかに、乱れていれば激しくなる。古代中国における戦国時代や楚漢戦争の頃などもそうであるが、こういう時代においては個の憂いや怒り、憎しみや正義が沸騰し易いのである。


 ついでに、彼らの正義というものについても述べておく。

 正義とは、時代によって簡単に変わる。ふつう、正義とは、倫理に従い、それを遵守することを指す。広い意味では、秩序や規範というのも入るかもしれない。しかし、この頃は、それを行うことが悪であると考える者が現れていた。世が乱れ、国が腐り落ちようとするその瞬間に生まれ、生きているその者の中での正義と悪は逆転し、倫理に従うことこそが悪であり、叛き、打ち壊し、その者の求める新たな倫理を敷くことこそが正義と考えるのだ。だから、このウラガーン史記に特に名を強く刻む者どもは、一様に自らをウラガーンであるとした。正義を求めるため、悪を行わなければならない。そういう時代の中で、彼らは生きている。


 しかし、ニコは違う。彼はナシーヤの守護者であり、それを守ることが正義であると思い定めている。だから、ウラガーンとは、決して相容れぬ。

 史記に四八四年の事変として記されているこの夜から朝にかけての出来事から後、彼は、はっきりと思い定めたのだ。

 森の軍が、敵であると。

 その筆頭がサヴェフ、そしてヴィールヒ。


 やはり、ヴィールヒがアナスターシャに語った通り、龍と精霊の戦いは神話の中だけではなく、今もこうして人の中で、そして人の内側で続いているのだ。

 この日から、ナシーヤ国家には、敵が出来た。それを、記しておく。

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