龍と精霊

 祈っていた。

 胸にのしかかるようなが、彼女にそれをさせた。その正体が、湿り気を含んだ夜であるのか、星を隠す雲であるのかは、分からない。

 ただ、祈った。祈って、思った。自らが行なっているそれが、祈りに似た別のものであると。


 ニコ。その美しい横顔。優しい微笑みと、甘い吐息。その全てが、自らに向けられているという喜び。背筋が快くなり、あの夜の振動がまた蘇る。蘇ったそれに押し流されたときは、どうにかしてそれを再現しようと様々な方法を試してみることもある。今も思わず自らの下腹部に手を伸ばしそうになったが、それをこらえ、その手を胸の前で組み直した。

 そうするうちに、心に静謐せいひつが戻った。そういうとき、どこからともなく、歌のようなものが聴こえてくる気がする。意味も、詞も、旋律もない歌。それがこの国に渦巻いているのだ。それに耳を傾けていると、突然、その歌が現実のものになった。


 声。いや、気配。

 この聖堂の天井の向こうに広がっているであろう雲の奥で星がひとつ墜ちるのが、はっきりと分かった。

 扉が開け放たれ、激しい風が吹き込んできて、灯火を吹き消した。気配は、人の姿になった。それは黒く歪み、波打っていた。まるで、闇そのものが、息をするかのように。それは、影であった。開け放たれた扉から聖堂の中に入ってくるかがりの光に伸びる、影であった。

「精霊の巫女だな」

 その影は、言葉をも持っていた。ゆっくり、聖堂の中に身を滑らせらせ、近付いてくる。

 手には、槍。そこから、なにかの滴が墜ちている。


 夢のことを、思い出した。長い間ずっと、見ていた夢。あの夢で血を浴びながら舞っていたのは、この男ではなかったか。

「あなたは」

 辛うじて、声を発した。不思議と、恐怖はなかった。

「龍と精霊が、こうして出会ったわけだ」

 影の持ち主は、笑ったらしい。

 そこへ、護衛の者が悲しい叫び声を上げながら乱入してきた。それを、影の持ち主は槍の一振りで屠った。いや、それは、槍ではなかった。

「精霊の、怒り」

 思わず、口に出していた。いつも物言わず側に佇み、自分を見守っていた男。言葉を交わしたことはないから名は知らぬが、顔ははっきりと記憶している。その肉が、身体そのものがあっさりと断ち割られてなまぐさい鮮血が飛び散る様を、何故か神話の世界を覗き込むようだと感じた。

 影になっている男が振るうのは、精霊の怒り。それは、いかづち

 魂が、心が、激しく振動するのを感じた。

「あなたは」

 もう一度、問うた。

「誰でもない」

 影は、答えた。

「精霊の、巫女」

 男は、そう言った。自分のことを言っているのだと思った。

「お前を求め、ここまで来た」

 そのことを、知っていた。たぶん、ずっと前から。

「お前は、ただの人、アナスターシャになるのだ」

 それが、自分の名。今さら、そう思った。もとより、あの夜から、精霊の巫女であることはやめたようなものである。ただの人としての心が、彼女の全てであった。

「龍と精霊の話は、知っているだろう」

 アナスターシャは、頷いた。なぜか、この狂気の乱入者の話を聴かなければならないと思ったのだ。

「それを、昔話の中に封じ込めてしまったのが、お前達の、このナシーヤの全ての人の罪だ」

「昔話ではない。そう、あなたは思うのですね」

「持つ者は、持たざる者から、さらに多くのものを奪う。奪われた者は、その悲しみや怒りを埋め合わせるため、また別の誰かから奪う」

「この戦いは、いつ、誰が、何のために始めたのか分からぬもの。それを、あなたはそのように捉えているのですね」

 だとすれば、それはとても悲しいことである。そして、それは、この国のどこにでも転がっている。あまりに多すぎて、かえってその一つ一つは見えづらいほどである。

 たとえば、路傍の石のように。

 たとえば、瞬く星のように。

「そして、俺は、怒りに怒り、悲しみに悲しんだ挙句、お前の前に居る」

 男の言葉に、自嘲が内包されていた。

「あなたは、なにかを奪われた。だから、国から、わたしを奪いに来た。そう言うのですね」

 男は、声を上げて笑った。

「思い上がるな、アナスターシャ。お前を奪うのは、俺が奪うために必要な道筋の一つにしか過ぎん」

「では、あなたは何を——」


 そこへ、また人が入ってきた。四人。アナスターシャの護衛の者どもである。口々に精霊の巫女に対する非礼を叫びながら抜剣し、一斉に駆けた。男は、それを省みもしない。

「見ろ。お前は、ここにこうしてあるだけで、この者共から、奪ったではないか」

 男が、足を一歩引いた。それは聖堂の床石に喰らいつくようにして音を立て、男の身体が激しく旋回するための軸となった。

 槍。それが空を斬って唸る様は、まさしく精霊の怒り。その刃が、護衛の男達を無残な肉塊と変えて吹き飛ばした。


 それは、さながら、暴れる風。


 振り切った姿勢で、残心。

 男が、呼吸を戻すのが、背で分かった。

「奪い、奪われ、また奪い、奪われぬために奪い、そして、死ぬ」

 男は、槍を下げた。

「だから、俺は、ここに来た」

 散らばった死体が先程まで握り、闇を払っていた松明が、男の足元に転がった。それが、男を影から人間にした。

「あなたは、何がしたいの」

 アナスターシャは、眼を少し細めながら佇む男に、問いかけた。男は、紛れもなく、人であった。ただの人が、ときに影となり、ときに風となり、ときに龍となり、ときに怒れる精霊となることがあるらしい。

「俺か」

 男は、松明の光の中で言った。

「俺は、俺を、最後の人間にしたい」

 付け加えて、人から、なにかを奪うことが出来る最後の人間にしたい、と男は言った。

「そのために、全てを奪い尽くすのだ。龍も、精霊も、国も」

 アナスターシャは、文字通り雷に打たれたような衝撃を覚えた。この男の持つ激しさと悲しさと、そして歪んだ美しさを見た気がした。

「あなたの、名は」

「——ヴィールヒ」

 ナシーヤの言葉で、突風という意味である。なるほど、乱れがきわまり、歪みに耐え切れなくなったときに吹く突風。そういうものを、連想させる男だった。

「わかりました」

 アナスターシャは、男から背を向けて精霊の彫像の前に跪き、胸の前で手を組んだ。ヴィールヒを照らす明かりがアナスターシャの髪を透かし、夕焼けのような色になった。

「あなたに、奪われましょう」

 どのみち、抵抗する術も、そのようなつもりもない。この男がここに来た時点で、自らの命運が尽きていることくらい、いかに彼女が世間を知らぬといっても、分かる。


 背で、ヴィールヒの呼吸を聴いた。それは、いのちの燃える音であった。それが刃に魂を宿し、精霊の怒りを呼び、雷となった。男は、ウラガーン

 刹那、アナスターシャは知った。少なくとも、この男の中では、精霊と龍が、今なお戦い続けていることを。その龍が咆哮し、暴れる風を呼んだ。

 この男の中の精霊は、この男の中の龍に、怒っている。この男の中の龍は、この男の中の精霊を、憎んでいる。

 そして、それを、この男は、悲しんでいる。


 静寂。

 ニコに、もう一度、会いたかった。

 人となったアナスターシャが、思ったことである。

 自分の首が、音を立てて床に落ちるのが見えた。しかし、人ならば、赤い血を吹き上げていなければならない。やはり、自分は、人にはなれなかったのか。目の前に落ちた自分の首と、眼が合った。

「——言ったはずだ。思い上がるな、と」

 背後で、ヴィールヒが低く言った。

 目の前に転がるのは自分の首ではなく、これまで一心に祈りを捧げてきた精霊の彫像の首だった。

「この石の塊を壊したところで、人の中の精霊を殺したことにはならぬ。人の中で続く龍と精霊のどちらをも殺してはじめて、人は、人になれるのだ」

 アナスターシャは、振り返った。涙が、こぼれた。

「お前に、選ぶべきことなど、何一つとしてない。俺と共に、お前は来るのだ。お前に選ぶことが出来るのは、自らが選ぶべきものを持たぬということを、認めることだけだ」

 アナスターシャは、少し笑った。諦めなのか何なのか、分からない。

 そのまま、松明の光と精霊の彫像を背にして、ヴィールヒと共に夜の中に消えた。

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