アナスターシャとウラガーン

 ——十の鱗、二の牙。天を揺らさんとする咆哮、極まれり。大精霊の其の羽根の数は知れず、空にある星を数えること能わず、墜ちる雨の滴を見ること叶わず。


 ウラガーン史記 第六節五項「龍牙と羽根」より抜粋



 まず、手始めに、サヴェフは軍組織を編成し直した。明けて四八五年、その編成と簡単な調練が完了し、それは機能を始めた。この頃の森の軍は、およそ七百。それを、

 総帥 ヴィールヒ

 参謀 サヴェフ

 軍師 ペトロ

 第一軍 ザハール 兵百

 第二軍 ルスラン 兵二百

 第三軍 サンス 兵五十

 第四軍 イリヤ 兵五十

 第五軍 ベアトリーシャ 兵五十

 第六軍 ジーン 兵五十

 という具合に分けていた。残った二百は、焼き物作りやそれを売り歩き、かつ情報を収集する役目や、有事の際の輸送などの支援を行う。


 ザハールは全て騎馬、ルスランは全て歩兵である。その武の力から見てこの二人が現場指揮の筆頭に挙がっているのは納得できる。ルスランやサンスは森の軍に加わってから日が浅いが、サヴェフはそのあたりの匂いを嗅ぎ分けることに関しては天性のものを持っていたから、彼らを指揮官に任じた。また、そうすることで、ここでは集団に属している期間の長短よりも実力がものを言うのだということを示した。

 また、イリヤとジーンがそれぞれ指揮官として名を連ねていることも目を引く。イリヤはサンスを救出する際に、彼の持ち味のようなものを少し見せたこともあるが、臆病で、かつ人前で目立つようなことを好まず、いつも何かに不満ばかりを述べている。ジーンに至っては、物真似が上手いということ以外の取り柄が見つけられない。それをこの時点から指揮官に大抜擢したという史記の記述が事実なら、サヴェフは相当に人の奥深いところを見ていたのであろうと思える。イリヤに与えられたのは、敵の中に潜んでそれを探ったり、ナシーヤ国内を流言や情報によって撹乱したりする役割。ジーンの軍にも、同じような役割が与えられた。

 また、ベアトリーシャにも兵が与えられている。彼女は、いわゆる工作部隊である。その知識や技術を用い、罠を開発したり仕掛けたりするのだ。


 こうして見ると、実際に戦いを行うのはサンスの第三軍までで、あとの半分の兵は諜報や工作、支援に回っている。このことからも、サヴェフがこれから森の軍をどのような組織にし、どのようにして戦ってゆくつもりなのかが窺い知れる。

 手始めに、と言ったのは、精霊の巫女アナスターシャを王都より連れ去って来た後どうするのかという話である。

 サヴェフは、宣言の通り、精霊の巫女の影響力を利用し、この国を塗り替えてゆくつもりである。ご丁寧にノゴーリャの職人に頼み、旗まで作らせた。盾を中心にし、交差するヴァラシュカという戦斧せんぷをあしらい、更に龍がそれを巻いている。更に、それらを大精霊の両翼が包もうとしているという凝った意匠である。このあたりから、彼らは自らを森の軍と自称しなくなった。彼らは外向きには、

「精霊の軍」

 と自らを宣伝し、内向きには、

ウラガーン

 と自称した。


 その盾と斧、龍と精霊の旗を翻した新しい軍の先頭に騎馬のヴィールヒが立ち、隣にアナスターシャ。芦毛の二騎がノゴーリャ軍管区の中枢であるラハウェリという石造りの砦の前に並び、その後ろにルスランとサンス率いる歩兵、さらにザハール率いる騎馬隊が睨み付けた。突如として侵攻してきたウラガーンにラハウェリの軍は驚き、原野に展開するそれらに使いを差し向けてきた。少しのやり取りの後、使者は砦の中に引っ込み、そして門が開かれた。


 あらかじめ、イリヤの軍が砦の中に入り込み、噂を流していたのである。世の乱れを憂えた大精霊が、その眷属たる巫女に、啓示を与えた。その巫女が、乱れを治める者として、森の軍を選んだというものである。

 それは、衝撃をラハウェリの人に与えた。本来、大精霊とは、この地を造る際の龍との熾烈な戦いに疲れ、眠りについているはずなのだ。それゆえ、この世に精霊の巫女を残し、自らは現世とは違う場所に居るのである。しかし、それが、この世の乱れを憂えたという。誰もが知っていることであるが、ラハウェリの人は、世の乱れというのがそこまでのものであるということを改めて認識した。

 使者は半信半疑であったが、王都の精霊の家にかつて参詣したとき、精霊の巫女の姿を見たことがあった。ヴィールヒの隣で静かに佇む女性は、紛れもなく精霊の巫女であった。

 色の薄い髪が、年が明けたばかりの朝に透けていた。それを見た瞬間、使者は胸の前で手を組み、地に膝をついた。その姿勢で、ラハウェリの長官から与えられた質問を投げかけた。

「そこもとらは、精霊の巫女に選ばれ、ここに来たと言う。それが誠であることを示すことが、出来るか」

 アナスターシャは、答えた。当人の意思であったのか、ヴィールヒやサヴェフに脅されていたのかは分からない。

「わたしが、今ここにいること。それが、何よりの証」

 使者は、答えに困った。

「巫女よ」

 とアナスターシャのことを呼び、

「あなたは、何故森の軍が世の乱れを治めるとお思いになったのです。王家の軍や我ら地方軍ではなく、何故、森の軍なのです」

 アナスターシャは、うっすらとした笑顔を使者に向けた。

「あなたは、王家の軍や地方軍と、大精霊のどちらを守りますか」

「そ、それは——」

「あなたは、国と人、どちらを守りますか」

 使者は、俯いてしまった。

「あなたは、何のために、このラハウェリに居ますか」

 アナスターシャは、なおも言葉を紡ぐ。それは不思議な音律を持ち、使者の心の中に墜ちた。

「あなたを知る、誰かのためではありませんでしたか。微笑むあなたを、その瞳の中に見ることが出来る誰かの」

 使者は、絶句した。

「——家族がおります。妻も、息子も、老いた母も」

「では、その者達の瞳に映るあなたは、笑っていますか。その者達を、王家の軍や地方軍が、守ってくれますか」

 使者は答えられず、そのまま拝跪はいきし、帰営した。それから門が開かれるまで、時間はかからなかった。



「大したものだ」

 砦の中に入り、ヴィールヒは皮肉っぽく笑った。

「あなた方は、狂っています。わたしは、あの者に語りかけた。しかし、わたしは、自分の言葉を持たないのです。先ほども、今までも」

「お前が何を思い、何をしようが、どうでもいい。お前が、ここにいる。そのことに、意味がある」

「わたしは、もはや精霊の巫女ではありません」

「そうだったな」

「あなた方は、狂っています」

 アナスターシャの言葉には、何かしらの力が込められていた。

「何を、今更。俺達は、狂っているさ。王家や国から見ればな」

「だからこそ、わたしは、ここにいる」

「面白いことを言う」

 ニコとのことは、アナスターシャは言わなかった。言えば、なにごとかに利用されるに決まっているのだ。自分の行動や言動で、ニコの足を掬ってしまうようなことだけは、避けたかった。連れ去られてきたアナスターシャがやけに協力的に見えるのは、そういう一種のがあるためであるかもしれない。


 しかし、彼女は風変わりであった。はじめの頃から述べている通り、彼女は、未だ起こらぬことを夢で見て言い当てたりすることがある。それがどこまで本当のことなのか筆者には知る由もないが、彼女がよく見ていた夢のなかに出てきた、雨の中で血を浴びながら舞う男とは、ヴィールヒではなかったか。そのことも、連れ去られてきたはずのアナスターシャが協力的であることについて関わりがあるかもしれない。

 彼女は、内心、どう思っているのであろう。おそらく、この頃で、十八くらいのはずくらいである。その歳の女性が、婚姻を約束した想い人のところを離れ、彼女自身が狂人と呼ぶ男と共に、その狂った事業を助けるのである。さぞ、ニコに会いたいと思ったことであろう。


 森の軍が血を流さずラハウェリを手中にしてからしばらくした後、サヴェフがウラガーンの主要な人員を伴ってやって来て、アナスターシャと話をしたと史記にあるから、そのことを引いておく。

「アナスターシャ」

 彼らは、本人に対しては間違っても巫女、などとは言わない。

「暮らしには、慣れたか」

 サヴェフは、アナスターシャに対しても彼らしい物言いであった。

「慣れるも何もありません。今まで、大聖堂の中から出たこともなかったのです」

「確かお前は、王都の名家の娘ではなかったか」

「——調べたのですか」

「人の噂というのは、とめどもない」

「あなたの、言う通りです」

 アナスターシャは、自らの生い立ちについて話した。父が、国の中の陰謀に巻き込まれ、地位も家も失ったこと。ナシーヤにおいてはよくある話である。難を逃れるため、弟と共に精霊の家に入れられたこと。たまたま前の巫女が若くして死に、自らがその座を継いだこと。弟はある日精霊の家から出され、どこかの家に引き取られていったこと。

「それは、誰も口にしないだけで、子供でも知っているさ」

 ペトロである。顔の半分を隠している前髪をかき上げ、少し笑った。

「どういう意味でしょう」

「俺たちが今話しているのは、その話の、もっと内側のことさ」

 アナスターシャは、ひやりとした。

「顔色が、変わったわね」

 おそらく、アナスターシャと同い年くらいであろうベアトリーシャである。彼女は鉱夫の娘であり、史記にもだいたいの生年しか記されていないから、はっきりとした年齢が分からない。

「大丈夫よ。ここにいる人は皆、いつの間にかここにいる。でも、誰もが、ここにいる理由があって、ここにいる」

 顔立ちはとても美しいが、眼が、冷たい。アナスターシャはベアトリーシャについてそういう印象を持った。いつも何かの石や炭などをいじくり回している変わった女であるとしか思っていないが、なかなか人間に深みがありそうだと思った。

「おい、ベアトリーシャ。俺は、未だにどうして自分が軍の指揮なんかをしているのか、まるで分かってねえぞ。俺の兵は、可哀想だ。こんな素人に、自分の命を預けさせられてるんだからな」

 サンスである。博奕打ちであったはずがイリヤに助けられ、そのときに交わした約定によりウラガーンに加わりはしたが、そこには彼が軍指揮を行うなどという馬鹿げた内容は無論ない。彼自身、あれよあれよという間に話が進んでいき、サヴェフにそれを頼まれ、軽い気持ちで何となく首を縦に振っただけである。

「あなたのことなんて、どうでもいい」

 ベアトリーシャに両断され、サンスは苦笑いをした。

「あなた」

 珍しく、多弁である。もしかしたら、これを狙い、サヴェフは一同とアナスターシャを引き合わせたのかもしれない。

「何様のつもり?自分だけが可哀想だと思っているの?」

 明らかに、アナスターシャに対する嫌悪があった。

「まあ、落ち着け」

 ザハールが、それを止める。

「アナスターシャ。あなたが何故精霊の巫女になったかは、人の知るところだ。俺たちは、人の知らぬあなたのことを、聞きたい」

 話してはいけない、とアナスターシャは思った。話せば、もう後には引けなくなると。それは、ニコとの永遠の別れを意味する。だから、口をつぐんだ。

「案外、甘いな。もっといい女かと思っていた」

 ずっと眼を閉じ、眠っているように見えていたヴィールヒである。この集団の中で、いや、このナシーヤの人の中で彼は特に異様な何かを持っているとアナスターシャは思っているから、少し身構えた。ヴィールヒは、そのことなど気にもしないように、壁にもたれかかってだらしなく足を伸ばしたままの姿勢で、続ける。

「お前は、精霊の巫女であった。それは、たまたま前の巫女が死に、なり手が居なかったからではない」

「やめて下さい」

「考えれば、いや、考えずとも分かるさ」

「ヴィールヒ。お願いです」

 アナスターシャは、このよく分からぬ男が心底怖い。まだ理責めでまくし立ててくるサヴェフの方がよほど人間らしく、可愛げがある。

「お前が精霊の家に入ってすぐ、前の巫女が死んだ。それは、大精霊の加護なのか」

 違うだろう、とヴィールヒは顔を歪めた。

「お前は、自ら、精霊の巫女の座を、奪ったのだ」

 一同の視線が、アナスターシャに注がれている。

「思い上がるな。自分だけが、汚れないような振りをするな。お前は、自ら言ったはずだ。自分は、人であると」

 アナスターシャは、溜め息を一つつき、諦めたように、話した。

「わたしの、弟。これは、少し気性の激しい子でした。当時まだ幼いながら、わたしのことを案じ、何もかも奪われたわたしが、この世で生きてゆける術を、考えてくれました」

 ここにいる誰もが、アナスターシャがこれから語ることについて、察しがついている。しかし、誰もそれを言い当てようとはしない。彼女が自らの意思で語らなければ、意味がないのだ。

「弟が、前の巫女を殺したのです。恐らく、毒か何かを使ったのでしょう。そのような大それたことをする人間がいるなどと精霊の家の者は誰も思わなかったらしく、そのことに気付いた者は、いませんでした」

「あなたのために、弟君はそれをしたのだな」

 ザハールは、ややアナスターシャに同調的である。

「わたしのためです。わたしという人間が存在することで、弟はそれをしなければならなくなったのです。わたしを思うあまり、あの子は、あなた方がよく言う、ウラガーンになったのです。それが、あの子にとっての正義だった」

 そして、アナスターシャの弟は、精霊の家を出ていった。

「とんだ巫女も、いたものね」

 ベアトリーシャが皮肉に笑った。

「いや、違うぞ、ベアトリーシャ。それほど、世が乱れているということなのだ。彼女は今のこの世の姿そのものであり、それをこそ、俺達は正すのだ」

 ルスランである。彼はザハールとの繋がりで参加しており、普段は戦場の空気が好きだとうそぶいて見せる豪快な男だが、こういう部分もあるらしい。その証に、アナスターシャの境遇に同調し、涙を浮かべている。

「今日は、これまでとする」

 サヴェフが立ち上がった。


「サヴェフ。これは、尋問ですか。わたしは、人質ですか」

 その背に、アナスターシャの言葉がぶつかった。

「人質ではない。お前が何故ここにいるのか、お前に理解してほしかった。お前は、わたしのせいで弟が、と言いながら、なお自分が望んで精霊の巫女になったわけではないと言う」

「そのようなことは」

「言っているのだ。弟の行為を無意味なものにしているのは、お前なのだ。そのことを、よく考えることだ。そうすれば、私達が何を思い、お前を連れて来たのか、分かる」

 一同は、連れ立ってアナスターシャの部屋から出て行った。


 弟のしたことを、自分が無意味にしている。

 自分もまた、奪われぬため、奪う者。

 答えを求めようにも、優しく問い返しながら導いてくれるニコはいない。

 一人になった夜の中、頼りない灯火を吹き消し、粗末な寝台に潜り込んだ。潜り込んで、すすり泣いた。さまざまなことが、去来する。

 あの夢の意味。

 自分を妻にしたいと言った、ニコ。

 やはり、会いたい。

 しかし、それは今は叶わない。

 孤独。

 そして、自責。

 汚れなき巫女は、その誕生から血に濡れていた。

 ふと、自らの下腹部に手をやった。

 それは、やはり血に濡れていた。

「やっぱり、そうじゃない」

 アナスターシャは一人呟き、そのまま、血を流す部分に手を当て、危なげな刺激をそこに与え続けた。

「わたしは、ただの人」

 背骨を貫くような感覚に身体を仰け反らせた。

「あなたに、会いたい」

 人である証が、血とは異なる何かで濡れている。想う人がそうしたように、そこに深く指を入れた。闇の中に、水の音と、彼女の押し殺した吐息が充満した。

 やがてそれが収まっても、水の音だけは続いていた。

 どうやら、雨が降っているらしい。

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