蛇と龍
つまらぬことで、足元を掬われたものである。
森の軍がノゴーリャの街に入ったことで生じた混乱を治めるのに実に一年近くの時を要し、ノーミル暦は四八四年を迎えていた。
ノゴーリャに王家の軍から問い合わせても、我々は王家の軍に命じられ、それに従ったまでのこと、の一点張りである。未だに、森の軍がノゴーリャに入ることを命じたのが誰なのか分からない。
だが、丞相ニコには、分かっていた。森の軍にそれを命じたのは、森の軍自身であると。
書面に記された名を持つ者は、確かに存在した。王家の軍の中の文官で高い地位を持つ者で、ニコもその名と顔を記憶していた。
だが、その者は騒ぎが起きる少し前に、消えていた。どこに行ったのかは、分からない。
死んだか、殺されたか、森の軍に同心したか。いずれにしても、やはり森の軍には野心があったのだと今更ながら確信した。
どう考えても、おかしい。森の軍の首魁であるサヴェフは、はじめからこれを狙っていたようにも思える。いや、ヴィールヒが捕らえられたことはロッシがグロードゥカとユジノヤルスクというナシーヤ王国の中でも一、二を争う力を持っている二つの地域を互いに戦わせ、弱らせるためであったのだろうから、そこからサヴェフは何事かを目論み、動いていたということはないだろう。しかし、混乱がひとつ生まれると、次々とそれに乗じて何事かを為そうとする者が現れるものだ。現に、一時に比べて治まりつつあった各地の内乱は一気に加速し、この国土は再び焼けている。
ニコは、考える。サヴェフを、それらの者と同じに考えてよいものか、どうか。
ニコは、側近のザンチノ、ルゥジョーの二人と話すことで、自分の頭の中を整理することがよくある。この四八四年の春のある夜も、同じようにしていた。
「各地の侯は、王家の力が弱っているのをいいことに、互いに攻め、奪い、自らの力を増やそうとしています」
ザンチノなどに今更言われずとも、この五百年、ナシーヤはずっとそうである。中央の力が強いときはよいが、ひとたび王の後継者争いや権力争いが起きたり、疫病や飢餓が広まったりすれば、たちまち各地の侯は互いに争いを始める。それは民からあらゆるものを奪い、また新たな恨みを産む。
宰相ロッシは、やはり、その乱れを利用している。今の若い王は無能で、本来それを
「森の軍は、ノゴーリャを手に入れ、どうしようというのだろう」
ニコは、二人の側近と様々なことを話しながら、頭の中で絵を描いた。そこには各地の侯の姿があり、軍があり、民があり、ロッシがあり、サヴェフがあった。それらが激しく、複雑な運動を繰り返し、ニコの頭の中の絵を変化させてゆく。
混乱。それに乗じれば、思いもしない力を手にすることがある。サヴェフは、それを狙っているのか。狙って、どうするのか。
やはり、見えてこない。
「叩いておくべきだと思います」
ニコの中のサヴェフの絵を塗りつぶすようにしてそう言ったのは、ルゥジョーである。
「私は、そのサヴェフなる男を、知らない。しかし、あまりにも危ないと思います」
まだ少年の面影を残すルゥジョーであるが、その武は磨かれ、智も並ならぬものを見せはじめている。今はただの側近であるが、将来、この王家の軍を指揮させてもよいかもしれぬとニコは思っている。
「しかし、どう叩くのだ。名目上、サヴェフは王家の軍に従う者だ。昨年の騒ぎも、奴が引き起こしたというより、巻き込まれたという見方をする者もあるほどだ」
「今のその人物を見、危ないと思えば、殺してしまえばよいのです」
ニコは、サヴェフを知っている。森の軍との戦いに敗けたとき、その戦後処理で何度も顔を合わせている。だが、それ以降の彼を知らない。彼が今何を考え、何を欲しているのかを、つぶさに見る必要がある。
「では、会いに行こう」
「とんでもない」
ザンチノである。ニコがまた気軽にあちこち出歩くつもりであることを察したらしい。ましてや森の軍の本拠となったノゴーリャに乗り込むことなど、もってのほかである。
「では、私が」
ルゥジョーが、立ち上がった。
「お前が?」
「おそらく、表立って使者を発したりせぬ方がよいかと。ひそかにノゴーリャに入り、密かにサヴェフに会う。その人物次第では——」
斬る、とルゥジョーは剣の柄を鳴らした。
「任せられるか」
「分かりません。しかし、しくじっても、私が死ぬだけのこと。軍やニコ様にはご迷惑はかかりません」
「お前に死なれては、困る」
「勿体なきお言葉」
ルゥジョーは夜明け前に発つつもりらしく、すぐに席を立った。
「ルゥジョー」
出て行こうとする背に、声をかけた。
「幾つになった」
ルゥジョーは足を止め、ちょっと振り返って、
「数え始めてから、三歳になりました」
と言い、退室した。
「あれは、なかなかの男になるやもしれませぬな」
ザンチノが重々しく感嘆を漏らす。
「境遇が境遇だ。親しき者がこれほど近くにありながら、それに手を伸ばすことも出来ぬ。自らの新たな生の中でのみ生きようと懸命なのであろう」
「若の婚儀の件、進めねばなりませんな」
「それどころではない。しかし、急いだ方がよいかもしれぬな」
ニコは、精霊の巫女アナスターシャを妻に娶るつもりである。本来、精霊の巫女とは人でありながら人ではない存在で、誰かの妻になるようなことはない。しかし、このナシーヤにおいて絶対的な影響力を持つ精霊の家を取り込むことで、各地で乱発する戦いや、ひいてはそれを利用して何事かを企もうとする手合いを封殺することが出来るかもしれぬ。
そういう建前のもと、ニコはアナスターシャのもとへ通う。
単にアナスターシャが好きで、それを欲しているだけだということは、たとえばこの口うるさい古株の側近などには口が裂けても言えない。
「巫女」
ニコは、久しぶりにアナスターシャのもとを訪れた。しばらく見なかったからか、アナスターシャはさらに女らしくなっていた。はじめ、精霊の巫女になったときは、まだ少女であった。しかしこの時点で十八歳になっているから、その肢体のしなやかさや目元の色香は見違えるほどである。それが、
「まあ」
と嬉しそうにしながら、
「来てくれたのね」
とその姿を、西のソーリ海という塩湖の沿岸地帯で栽培されている植物の種を絞って採られる油を燃やした灯火に明滅させながら大聖堂の中の石段を鳴らして駆け寄ってくると、やはり堪えがたいものがある。
「巫女」
ニコは再びそう呼び、跪いた。
「このところ、色々と忙しく、なかなか祈りを捧げに来れませんでした」
「また、戦い?」
アナスターシャにも、明らかにニコに対する好意があった。ニコは調練などのために武装して王都を歩くと、貴賎を問わずあらゆる女が溜め息をこぼしながらその姿を見送るというほどの美男であるから、いかに精霊の巫女といえど生物学的に女である以上、この若き宰相に好感を持たぬはずがない。それに、ニコは、アナスターシャにとっての、唯一の娯楽を運んでくる存在なのだ。会うのを楽しみにする以上、その来訪を待ち焦がれるのは自然なことであろう。それが、いつしか、好意に変わっていた。
ニコは、アナスターシャに分かりやすく、そして興味を持てるよう噛み砕きながら、最近の出来事を話してやった。アナスターシャは世間の情勢が乱れていることに眉を下げながらも、どういうわけか森の軍がノゴーリャの守備軍を追い出すような形で街に入ったくだりなど、眼を輝かせて聴いた。
ひととおり、話が終わった。いつもなら、あとはニコが大精霊に祈りを捧げ、帰る。しかし、このときは、違った。
「巫女の夢の話を、聴かせて頂きたい」
と、アナスターシャの話をするよう持ちかけた。
「夢」
「そう、夢。巫女がどのような夢を見るのか、もっと知りたいのです」
アナスターシャの透けるような色の頬が、紅潮した。
「願わくば、このニコも、その夢の中で悪を打ち倒していたいものです」
「ニ、ニコ——」
ふわりと、とても柔らかに、跪いていた姿勢からニコがアナスターシャの隣に立った。それは、精霊の羽根が舞い落ちるようであった。
あ、とアナスターシャが短い声を上げたとき、もうその身体はニコの腕の中であった。
唇を塞がれると、甘いのだということをこの神聖な巫女は知った。そして、ニコの指が東よりもたらされた絹の衣の上を這うと、快いのだということも。
それが下衣の中に差し入れられようとしたときはさすがに抵抗を示したが、僅かなものであった。為す術なく、いや、むしろ自然に、それを受け入れた。
この瞬間においては、アナスターシャは、精霊の巫女ではなく、一個の人であった。
大精霊の彫像に手をつき、後ろからニコの与える振動を受けた。なにも、やましい思いはない。ただ、鋭い痛みと快感が走るのみである。
「お静かに、なされますよう」
そうニコが耳元で囁いてはじめて、自分が声を上げていたことに気付いた。それは、恥ずかしいと思った。
そのことが、済んだ。アナスターシャは、自らの腿を血が
ニコが、自らの衣服の袖で、ぐいとそれを拭った。
「汚れてしまうわ」
慌ててニコの腕を捉えたが、ニコは微笑みながらそれを優しく解き、
「女は、血を流すもの。男に出来ることは、これくらいしかない」
と言った。そして、
「巫女。いや、アナスターシャ。私の、妻となってくれないか」
とも。
アナスターシャは、驚いた笑顔で頷かざるを得ない。
「話していい?」
「なにを」
二人の声と吐息が、混じり合った。
「夢のことを。同じ夢ばかり、見るの」
「同じ夢?」
「星が雨になって降ったかと思えば、それは血で、それに打たれて立つ人がいる。そして、歌が聴こえるの。知らない歌が。そんな夢を、ずっと」
ニコはアナスターシャの頬に手をあてがいながら、また微笑んでやった。
内心、その夢にどういう意味があるのか気にはなる。だが、今は、この愛おしい女が自分のものになった喜びと、守護不入とされているはずの精霊の家の、それも巫女をその職から引き剥がし、軍の総指揮者である自らの妻とすることにより生じる様々な事柄をどう封じるかということのみを思った。
一方、ルゥジョーは。
王都を発し、東のノゴーリャへの街道を、一人で歩いていた。まだ夜明け前である。行動も、歩くのも速い。翌日、街道は、なだらかな丘陵が続く地域に入った。
丘を避けて道は切られるから、ちょうど、アナスターシャの腿を這った
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