第五章 陽の出
奪う
その報せを聞いて、宰相ロッシは卓を叩いて喜んだ。
「ニコめの慌てた顔が、眼に浮かぶわ」
よほどおかしいらしく、普段は冷徹な物言いしかせぬこの四十を越えた実質上の最高権力者は、周囲の者に笑いながらそう言ったという。
報せとは、ニコの抱える森の軍が突如として移動を始め、ノゴーリャの街に入ったということである。それを指示する書面は誰がどう見ても正式なもので、それがためノゴーリャの守備軍は、いちど森の軍を街の中に入れてしまった。王家に問い合わせるとしてすぐに使者を発したが、その使者はいつまで経っても王都には着かず、何日か経ってから原野で獣や鳥に食い散らかされた姿で見つかった。そうこうしているうちに書面に記された街の引き渡し期限は過ぎたとして、森の軍が半ば強制的に五百いたノゴーリャ守備軍を追い出してしまった。
追い出された守備軍は、南方の辺境への異動を命じられた。その異動先の街ではそんな話は聞いていないとして押し問答になり、ついには軍同士で小競り合いに発展した。
王都は、たいへんな騒ぎである。いったい、誰がそのような命を下したのか全く分からぬし、書面に名を記した役人は、この騒ぎが起きる前に急に行方をくらましている。
王家の軍は、ニコの管轄である。それが起こした不祥事として取り上げれば、その足元を掬える。ロッシが喜んでいるのは、そのためであった。
「サヴェフめ。やりおる。解き放っておいて、よかった」
ごく近しい者に、そう漏らしたという。また、
「あとは、ヴィールヒが、どう出るかだ。奴め、ノゴーリャから何を見る」
それを聴いた者は、ロッシはまるで国の乱れそのものを喜ぶようであり、サヴェフやヴィールヒにあらぬ疑いをかけたのも、ニコに刃向かわせるためのことであったように思うという手記を残している。
冬は終わり、春を迎えようとしている。
「俺の証文一つで、こんなことが——」
サンスは、蒼白な顔をしている。自らの書いた証文一つで、彼は、今まで証文の偽造により巻き上げたもの全てを足してもあり余るほどのもの——ノゴーリャという貿易と交通の要衝となる街そのもの——を、国から巻き上げてしまった。
「痛快ではあるがな」
それを、証文を書いているとき小屋の中で話した縁でしばしば言葉を交わすようになっていたヴィールヒに漏らした。ヴィールヒは恐らくまだこのとき二十歳そこらだから、サンスよりもずっと若いはずであるが、サンスは、ヴィールヒに一目置いていた。彼の博奕打ちの勘は本物で、負ける相手とは博奕をしないという主義であったから、それがヴィールヒが只者ではないことを見抜いていたのかもしれない。そのサンスが言うには、こうだ。
「痛快ではあるがな。俺は、正しいことのためにしか、証文を偽ったことはないんだ。俺がいつか大精霊の前に引き出され、その羽根の一つとなれるか否かの査問を受けるとき、胸を張って俺は正しいことをしたと言ってのけられるようなことしか、してこなかったんだ」
それを聞いたヴィールヒは、新しい彼らの寝ぐらとなったノゴーリャの街の周囲に巡らされた石造りの壁の上に立ち、青っぽい風の匂いを聴きながら、興なげに言った。
「なら、恥じることはあるまい」
「なぜ、そう言い切れる」
「自分で正しいことと思えばよいだけのことだからだ。それを決めるのは大精霊か世の人かは知らぬが、少なくともお前ではないはずだ」
風に流れるヴィールヒのやや濃い金色の髪が、傾きつつある陽を吸い込んでいる。髪は金色であるが、ヴィールヒの眼の色は濃い。たとえばおなじ金髪でもサヴェフは緑の眼、ペトロは青である。しかし、ヴィールヒの眼は、マホガニーのような焦げ茶である。髪の色がやや濃いことといい、もしかすると様々な血が混じり、この不思議な魅力を持つ男を作り出しているのかもしれないとサンスは思うのだ。
「お前の言う正しいこととは、何だ」
「たとえば、自らの欲のために、貧しい者から金を巻き上げるような者。そういう奴を、俺は博奕で懲らしめてやっていたのだ」
ヴィールヒは、口の中で笑った。
「何がおかしい」
サンスは、少しむっとした。
「おかしいさ。自ら悪を行い、目の前の小さな悪を裁く。そういうことだろう」
「そうだ」
「俺たちのしようとしていることは、もっと大きなことなのだ」
ヴィールヒの濃い色の眼が、暮れてゆく空の青を宿している。
「俺のしていることが、小さなことだと言うのか」
「お前のしてきたことを、別に否定はせぬ。しかし、小さなことであると、そう言っている」
「なんだと」
「だが、俺たちのしようとしていることと、同じだ」
今にもヴィールヒに掴みかかりそうな気勢を示したサンスが、訝しい顔をした。
「お前がそうしてきたように、俺たちも、これからそうしようとしているのだ」
ヴィールヒは、少し眼を細めた。やはり癖なのだろう。
「自らの勝手で、人から何かを奪う者がいる。そういう者を見たとき、お前はどうしてきた」
「だから、言っただろう」
「俺たちは、国を相手に、それをしようというだけのことだ」
「国を——」
サヴェフから、一通りの説明は聞いている。しかし、ヴィールヒの言葉は、もっとサンスの深いところに刺さった。
「しかし」
博奕打ちのニキには、分からないことがある。
「自らの勝手で俺たちから奪ってゆくだけの国から、このノゴーリャの街を奪い、どうなるってんだよ」
それこそ、小さなことだ。そう言いたげな様子である。
「サヴェフがどう思っているか知らぬが——」
とヴィールヒは自らの盟友について前置きをした上で、この会話においてはじめてサンスの方を見た。その右目には暮れてゆく青とそれに抗うような橙が、左目にはこれから世を支配してゆくであろう黒が映っていた。
「——俺はな、サンス」
その眼が、不敵に笑った。
「国から、国を奪ってやりたいと思っているのだ」
「国から、国を」
サンスは、頭が痛くなりそうだった。
「奪うのだ。俺は、そのために戦おうとしている」
「何のために」
サンスは、どうしてもヴィールヒがサヴェフのように正義に燃え、国を正そうとしているように思えない。
「知れたこと」
ヴィールヒは、壁の上に通された通路を歩きだした。
「馬鹿馬鹿しくなったからだ」
つられて、サンスもあとを追う。
「なにが」
「生きていることが。正しきを示し、自らの死後、精霊に顔向けできるか否かを考えることが」
これは、この時代においては、かなり危ない思想である。王家は勿論、民の一人、賊の一人、犬一匹に至るまで、このナシーヤにおいて精霊を疑う者はいない。危ないというより、前例のない思想であった。
「サヴェフは、言った。正しきを示すためならば、
サンスが、唾を飲み込む音がした。
「どうせ
石段を、降りてゆく。
「なんとなく、お前に話そうと思った。それが何故かは、どうでもいい」
サンスは、その背を見送ることしか出来ない。
「何もかもを押し流したその先に、俺は俺の生を見出す。そのつもりだ」
陽が、完全に暮れた。
サンスが頭上を見上げると、星がもうその姿を見せ、青っぽい闇に空いた穴から人を覗き下ろしていた。
再びヴィールヒに眼を戻しても、もうその姿はどこにもなかった。
星は、闇が深くなればなるほど、その輝きを増す。あれが何故光っているのかは分からぬが、しばらくの間、春らしい風に包まれながら、それを見上げていた。
懐から、
振った。
石の上に、それが二つ転がった。
二つとも、一の目であった。
サンスは苦笑し、それを懐に戻すと、また天を見上げた。
春の風が、にわかに湿り気を帯びてきた。
どうやら、雨が降るらしい。
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