鼠狩り

 王家の軍。その精強さを知らぬ者はない。この時代の、南方の騎馬民族との争いは、のちのパトリアエとバシュトーほど盛んではないが、それでも領土争いはある。北方にも膨張的な政策を取る国家があり、そちらも油断がならない。王家の軍は、それらが領内に侵入してきたとき、もしくはそれらを攻めるときにはじめて発するためのものである。今回、森の族に対して軍を差し向けてきたのは、異例のことと言ってよい。

 王家の軍への畏れは、その精強さや充実した装備によるものもあるが、ひとえにそれを指揮する若き丞相ニコへの畏れである。彼は若いが武も智も人並み外れたものを持っており、北方民族の侵入があった際、奇計と力押しの両方を用い、僅かな時間でそれを壊滅させ、ナシーヤ軍の死者は僅かに九人という驚異的な戦果を上げたことはあまりにも有名である。

 だからこそ、はじめ、森の人々は混乱した。今まで軍が攻めて来ると言っても地方軍ばかりで、その指揮は緩慢で、罠に怯み、すぐに撤退するものであったのだ。そもそも、この森に住む彼らのうちで武器を取って戦ったことのある者が、どれほどいるのだろうか。無論、村人やそれが組織する自警団相手に剣を振り回したりしたことはあるが、軍と戦うことは首魁アガーシャにより強く止められていた。アガーシャがグロードゥカ地方軍と繋がりを持っていたためでもあるが、出来るだけ大きなことをしないというアガーシャの考えによるところが大きかった。それが、今、ナシーヤで最強と言われる王家の軍と戦うと言うのである。彼らは、今、ある種の狂気の中にいる。今の時代の職業軍人ならいざ知らず、この時代の兵は、畏れれば戦いをやめ、がれば押す。サヴェフらは、じつに上手くこの場にいた者どもを狂気の中に巻き込んだ。だが、それも、ここで王家の軍に蹂躙され潰されてしまえば、元も子もない。


「まさか、王家の軍だなんて」

 イリヤが、顔を青白くしたまま言った。

「真っ向から向かい合って、勝てるものか、どうか」

 とザハールが言い出したとき、イリヤは、こいつ馬鹿か、と思った。この武のことしか頭にない凄腕は、真っ向から王家の軍とぶつかるつもりらしい。

「無理だろう」

 ペトロがすかさず言う。

「では、どうするのだ。サヴェフ」

 ザハールは、サヴェフの意見を求めた。

「この森のあちこちに仕掛けられた、罠。それを使わぬ手はない。しかし、それだけで、ほんとうに、退けられるものか。いや、森の中に仕掛けた罠に頼るのでは、敵を引き込みすぎる。敵の規模もよく分からぬのだ。もっと、早いところで手を打った方がいい」

 五百もの人を巻き込み、立ち上がらせておきながら、サヴェフはことが成るか否かについて慎重である。この性格こそが彼の根幹であるのだが、こうして見てみると頼りなくもある。

「おそらく、武力だけの衝突になれば、ひとたまりもないのではないか」

 ペトロが述べる見解に、皆賛同した。

「なにか、罠を増やすとか、そういったも、必要だろう」

「使えそうなものなら、ある」

 ベアトリーシャの方を、皆が一斉に見た。見られて、ベアトリーシャは戸惑っているらしい。

「何があるのだ。聞かせてくれ」

 ザハールのまっすぐな視線に押されたように、再び口を開くと、

「器に使うための硝子を作るとき、色々と―—」

 とのみ言い、言葉を切った。話すのが苦手なのは相変わらずらしい。

「色々、って?」

 割と親しく話をする――と周囲には思われている――イリヤが再び訊くと、

「硫黄とか、硝石とか」

 という答えが返ってきた。それを、何に使うのか、誰も知らない。その様子を見て、ベアトリーシャは面倒そうに言葉を継いだ。

「それらを混ぜれば」

 爆薬が出来る。ベアトリーシャの家はもともと山で鉱物の取り出しを行っていたから、彼女が幼い頃に父が死んだとは言え、こういう知識はふんだんにあるらしい。



 火薬がこの時代のナシーヤにあったというのはいささか驚きであるが、世界史的に見て何の不思議もない。中国では七世紀ごろには既に硫黄と硝石と炭でもって作る火薬のことについての記録もあるし、十三世紀頃には戦闘での使用があったことも記されている。しかし、硝石は水に溶け、流れるほか、植物のあるところでは発生しない。その科学的根拠をベアトリーシャが知るはずもないが、彼女は土中からそれを取り出すのにうってつけの場所を知っていた。

「便所よ」

 と彼女は表情を変えずに言う。聞けば、父ら山で鉄を取る者は、岩を砕くのに爆薬を用いていた。そのために必要な硝石なる物質を、彼らの糞尿を流して溜めている穴から採っていたというのである。

 これは科学的にも説明がつく。学生時分、化学が嫌いであった人は読み飛ばして構わぬが、糞尿に含まれる尿素の分解物やアンモニアなどが、いくつかのバクテリアに分解される過程で酸化して硝酸イオンやカリウムイオンなどになり、それを含んだ土を精製することでも硝石は得られる。天然で産出するのはよほど雨が降らず、植物も少ない乾燥地帯に限られていたから、二十世紀になり科学的に硝酸カリウムが合成される方法が開発されるまでは、案外用いられていた採取方法である。

 疫病の防止のため、ふつう、糞尿は川や池などには流さず、穴を掘って埋める。五百人分のそれが溜められた穴が、この森にはいくつもある。そのうちのいくつかからは、硝石が採れた。新しいものでは合成が進んでおらず、古いものでは雨に流れてしまっているから、ベアトリーシャは皆が器のことに専心しているとき、一つずつその穴を回り、確かめていたのだ。やはり、変わった女である。しかし、それが役に立つときが来た。彼女のもたらしたものは、まず火力の高い骸炭がいたん。それを用い、石から取り出した硝子。それで、器に使う釉薬が出来た。それとは別に、彼女は、爆薬まで作ることをしていたのだ。無論、それをしていた頃は、このようにそれが戦いの役に立つとは思っていない。ただ、彼女の興味がそちらに向いていたという単純な理屈なのであろう。

「わたしにしか出来ないことを、わたしはする」

 そう、彼女は自分の思うところを端的に述べたと史記にはある。筆者があえて補足するならば、彼女がこの森にやって来るまで、自らの若い身体を売るようなことをしなければならぬほどに生きることが困難であった経験が、この思いに強く結びついているのであろう。

 身体を売り、金を得るのは、誰でも出来る。そこに女の身体さえあれば、明日飯を食うだけの金は得られる。ベアトリーシャはむしろ、その意味では恵まれた美しさを持った娘であった。賊になり、民から食料を奪うことも、誰でも出来る。しかし、ベアトリーシャの父は違った。父や、その仲間にしか出来ぬ技を多く持ち、それを使って生きてきた。汗を流し、泥にまみれ、それでも日々を意味のあるものとして過ごす彼らの姿が、彼女が理不尽に全てを奪われる前、人間であった頃の鮮やかな記憶として焼き付いている。

 彼女は今、それをすることで、彼女自身も、生きられると思っているのか。

 

 あとは、それらを混ぜ合わせて樽などの容器に詰め、火をかけるだけでよい。

 準備が出来る頃には、サヴェフとペトロが作戦をまとめ上げていた。五百人を分け、それぞれに武器を持たせることも完了した。軍と戦ったことのある者は少なくても、人を斬ったことのある者は多い。満足な装備ではないが、彼らのぎらぎらとした目つきだけは、王家の軍とも戦えそうなものであった。

「よいか。戦いに、酔うな。ここに並ぶ俺たちの声を、よく聴いていろ」

 ザハールが、そう声を上げている。ここに並ぶ俺たち、とは、ザハールの他、サヴェフ、ペトロである。五百を、百、百五十、二百五十に分け、イリヤはペトロの隊百人の中にいる。他に、サヴェフの百五十の中にベアトリーシャ。最も数の多いザハールの二百五十のうち、百は馬に乗っている。馬に乗らぬ者の中にジーンの姿があった。ここに名の挙がっている者は、それぞれ、を言いつけられている。

 間もなく、夜。森に迫る王家の軍も、陣を張り、野営の準備をしていることであろう。

 明日である。

 この夜が明ければ、戦いは始まる。



 その王家の軍の陣の中。

 ニコは、黙ってかがりの火を見つめている。

「ニコ様」

 と側近のザンチノが声をかけてきたから、その眼を火から自分の最も親しい男に向けた。

「この度のこと、悔しく思います」

「そう言うな、ザンチノ」

「お父上より譲り受けし、誇りある王家の軍。それを、このような鼠賊そぞくの討伐に使うなど」

「仕方がないさ」

 ニコは、空を見た。篝を見つめていたからか、星の数が少ないように思えた。

「宰相は、地方軍を使った討伐の失敗に、お怒りなのだ」

「それは、ニコ様への妬みと恐れでしかありませぬ」

「分かっているさ」

 夜の空に、眼が慣れてきた。そうすると、小さな星がいくつも敷き詰められているのが分かる。

「なにか、妨害をして来るやも知れませぬ。そうして、ニコ様の足元を―」

「やめろ、ザンチノ」

「申し訳ありませぬ」

 ニコは、立ち上がった。剣を執り、それを抜く。

「分かっているのだ。あの男の考えていることくらいは」

「はっ」

「どうにかして、己の権勢を守ろうとしているのだろう。しかし、それは俺にとってはどうでもよいことなのだ」

 ザンチノは、自らの主君の美しい横顔を見た。それは、この世の誰よりも高潔で、清廉なものであった。

「国は、乱れている。賊を許すことは出来ぬ」

 あまりに愚直、とザンチノは内心思ったが、言葉にはしない。

「だが、賊よりも、もっとの悪い鼠がいる。俺は、その方が許せぬ」

 星を見上げるニコの眼に、脇の篝が映り込んでいる。

「その鼠は、乱れを生み、その乱れの中に巣を作り、笑っているのだ」

 どうだ、ザンチノ、とニコは子供のような表情を向けた。

「その鼠の鼻をひとつ、あかしてやらぬか」

「どのようにして」

「この戦いは、鼠狩りの始まりになるのだ」

 とニコは謎掛けのようなことを言い、笑った。

「王都へ、伝言を。宰相に、俺の要求を伝えるのだ」

 その内容を聞いて、ザンチノは飛び上がるほど驚いたが、やるのだ、とニコが強く押し切るので、言う通りにした。

「あの賊は、ただの賊ではない」

 このとき、既に、ニコはヴィールヒに合っている。その人を見、これは、と思う何かを感じた。そして、彼が使う――後代のパトリアエにおいても、雨の軍と呼ばれる諜報機関のようなものがあったが、このような機関の使用を好むのは国民性であろうか――が、森の賊の中に、ヴィールヒと親しく、はじめ共に捕らえられたはずのユジノヤルスク出身のサヴェフが居ることを探り当てている。それだけでは何を示す根拠にもならぬが、ニコは、確実に何かを嗅ぎ取っていた。それを利用しようとしている者がいる、とも確信している。だから、その裏を掻き、先手を取る。そういうつもりである。

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