龍となれ
器が完成した。
ノーミル暦四八三年。
その年が明けたばかりの寒い空の下に器が初めて出されたときは、産声が聴こえるようであったという。出来上がった器には艶があり、手触りも良い。それでいて、丈夫である。誰がどう見ても、東の国からもたらされるものと、遜色はなかった。窯の構造、土、燃料、温度、塗り付ける釉薬、焼く時間、そして人。あらゆる要素が混じり合い、今彼らの前に形になって現れているのだ。
「ようやく」
誰かが、言った。
それはどんどん伝わってゆき、やがてそれを見守る者全ての喜びの声になった。ザハールも、サヴェフも、ぺトロも、イリヤも、ジーンも、ベアトリーシャも、大工も、薬草採りも、猟師も、全員がその喜びを分かち合った。彼らの心は、この一つの器で繋がったのだ。
「これで、どんどん作れる。早速、取りかかるぞ」
皆、量産に勤しんだ。窯の規模からして、一度に二百個は焼ける。大小様々な形の器を作り、乾かし、熱の回りに影響の出ぬ範囲で出来るだけ詰め込み、焼いた。
「売るために、人手が要る」
サヴェフが、アガーシャにわざわざ話を通してから、更に人を増やした。街で売ると、民は飛び付いた。なにしろ、格安なのだ。街路で売るだけでなく、宿や酒場などにも売り込みに行った。すぐに、数百の器が無くなり、彼らの誰もが見たことのない量の銭や銀に変わった。
それを、自分達のみの取り分とはせず、アガーシャに全て献上し、全員へ再分配を求めた。
「それこそ、首領たる者の務め」
と言われれば、アガーシャも一人占めするわけにはゆかぬ。集団が多ければ、食わせなければならぬ。それが出来てこそ、始めて人の上に立つ者として認められる。それが出来なかった者がどうなるかは、歴史が示している通りである。
それを春まで続けた。薬草も引き続き栽培、採集を続けているが、器がもたらす利はそれとは比べ物にならぬ。どの街や村に行っても、重宝がられた。かつて商人であった者が、沢山売れるから、値をむしろ下げてみてはどうかと言い出した。その通りにしてみると、売れ行きは更に良くなった。
森から器を売りに来る者を、誰も賊とは呼ばなくなった。むしろ、好意的な眼で見てくる。気付けば、サヴェフらに同心する者は、百人を越えていた。ここまで来れば、さすがに、アガーシャも危機感を持ち始めた。
「どうなのだ、実際」
高圧的な感じはなく、窺うような声色である。
「どう、とは。アガーシャ」
サヴェフの方が、むしろ雑な応対になっている。
「器の売れ行きは、良いようだな。助かっているぞ、サヴェフ。皆も、喜んでいる」
人がサヴェフに靡いてゆくのを、面白く思わぬのだろう。実際、器を売るようになってから、売り上げは全てサヴェフを通じて納められるし、アガーシャが人前に出るのは、掟を破った者を裁くときのみになっていた。
以前なら、気に入らない者や、危険だと彼が判断した者は、何かしらの罪を着せ、殺すことも出来た。しかし、今は、サヴェフや、彼らの下に付いている者どもの眼があるのだ。もし、アガーシャが自分の利のために勝手に人を裁いたりすれば、彼らが黙ってはいないだろう。このことも、はじめからサヴェフとぺトロの間で相談していたことであった。無論、こうなった後、アガーシャがどう出るかも。
「どうだろうか、サヴェフ」
やはり、機嫌を取るような言い方である。
「俺のそばに付いて、皆を共に導かないか」
来た、とサヴェフは思った。これはぺトロの見立てであったが、アガーシャはその気の小ささと臆病さのため、サヴェフをむしろ取り込もうとしてきたのだ。側に置くことで、サヴェフを慕っている百人余りの者の前に彼が立つとき、自分がこの男を使っているのだ、と誇示出来る。
「そうだな」
とサヴェフは考える素振りをして、
「皆と、他の者を、もっと繋いでやった方が良いと思う。あなたの側にいることが、皆のためにもなると思う」
と受けた。アガーシャは、安堵する思いであったろう。サヴェフとぺトロは、このまま人の心を靡かせ続けてゆき、アガーシャを人が恐れるのではなく疎んじるようになれば、あるいは明らかな非違を鳴らすことが出来れば、一気に覆せると考えていた。
「早速、皆にそれを知らせてやってくれ。アガーシャ、あなたの口からだ」
アガーシャは、サヴェフに誘われるようにして言われた通りにし、サヴェフは名実共にこの森で暮らす集団の首脳の一人となった。
それから、しばらくして。とても寒い日のことである。
「もう一息だな、ぺトロ」
「ああ、夏までには」
「そうなると、一年か」
「あっと言う間だった。一年前、俺はまだグロードゥカの街で盗みをしていた。それが、こんな森と丘と沼の地で、焼き物作りとは」
「違いない。しかし、忘れるな。私たちの、真の目的を」
「忘れるものか、サヴェフ。もう少しなのだ」
「頼む」
焼き物の窯の近くには、それに携わる者が集まり、小屋をあたらしく建てて集まっている。その一つの中に吹き込む冬特有の匂いのする風を聴きながら何気ない会話をする二人のもとに、蒼白な顔のイリヤが駆け込んできた。
「なんだ、イリヤ」
「大変だ」
イリヤは、珍しく肩で息をしている。
「ぐ、軍が」
「軍?」
サヴェフとぺトロは、顔を見合わせた。
「グロードゥカ軍か」
以前にも、討伐軍が差し向けられたことがある。
「ち、ちがう」
「では、軍とは」
「お、おうけ」
「なに?」
「王家の軍だ」
とすれば、丞相ニコの直属の軍である。それが、なぜ今。
「こっちに向かってるって話だ」
「サヴェフ」
ザハールは、焼き物を売る者から街の噂などを収集し、管理しているサヴェフの顔を見たが、サヴェフは、ただ黙ってかぶりを振るのみである。前王の治世になりやや収束の兆しを見せてはいたが、このナシーヤはいつもどこかで戦いが絶えない。特に前王が死んでからは、ザハールとぺトロ、イリヤの三人が出会ったグロードゥカの戦いのような小競り合いが頻発するようになっている。しかし、王家の軍は、よほど大規模な内乱の鎮圧か、外敵の撃退もしくは外国への侵攻の際にしか用いられない。近年では、北方の国が侵攻して来たのを王家の軍を中心とした軍が迎撃し、更に完膚無きまでに叩きのめしてニコの名を世に轟かせ、丞相の地位に登らせたクラスノヤルスクの戦いというものがこれより三年前にあったきり、出動していない。
それが、今、こちらに向かってきている。
この森を目指しているのかどうかは、分からない。しかし、他に王家の軍が出るほどの戦いもなければ、外敵の侵入もないのだ。森の中の居住区ではすでにその報せを受けた者どもがそこここで塊になって不安そうな顔をし、口々に何かを言い合いながらアガーシャからの指示を待っていた。
「騒ぐな」
まず、サヴェフはそう彼らに言った。その声はよく透り、龍が乾いた冬の天を鳴らすようだった。外に出ていた者は静まり、屋内に居た者はぱらぱらと外に出、何事かと窺った。
「このようなとき、騒いではならぬ。まず、落ち着くことだ。隣に居る者と、顔を見合わせろ」
皆、言われた通りにした。
「その者の肩に、手を」
このときこの場にいたのは、百人ほど。彼らは、吸い込まれるように、サヴェフに従った。
「空いた片方の手を、別の者の肩に」
手が、次々と人の肩に渡ってゆき、やがてそれは百人を繋ぐ輪になった。
「どうだ、我らは、これで一つ」
サヴェフの周りには、ザハール、イリヤ、ぺトロ、ベアトリーシャ、ジーンが居る。サヴェフが、ザハールとイリヤの肩に手をやった。ザハールはぺトロの肩に、ペトロはイリヤの肩に、イリヤはベアトリーシャの肩に、ベアトリーシャはジーンの肩に。それが、百人の輪の中に、入ってゆく。
「恐れることはないのだ。今、お前達の肩に手をやっている者が、お前達を守る。自分の手を肩に置いている者を、守るのだ。それだけでよい」
風。
強い風である。
百人の耳もとで、それぞれ異なる囁きを残し、吹き去った。
「お前達のことを知る者を、その眼に映る者を守るのだ」
それを、サヴェフが言葉にした。
ウラガーン史記では、このときのことを異様な光景として描いている。
百人が、隣の者の肩にそれぞれ手を置き、何か恍惚とした感覚の中、森の木を揺らす風を聴きながら、アガーシャの前に立ったという。当然、アガーシャは王家の軍の侵攻の報せを受け、狼狽していた。
「サ、サヴェフ」
アガーシャは、このあたらしい幕僚の一人を頼りにしている。
「なんだ、その奇妙な形は」
アガーシャは、王家の軍のことだけでも大変なことであるのに、互いの肩に手をやった百人の職人や器を売る者を従えたサヴェフをも警戒しなければならなかった。
「アガーシャ。王家の軍とは、間違いのないことなのだな」
サヴェフが、念を押す。
「間違いない。王家の旗が上がっていた」
「見たのか、それを」
「俺の手の者が、見た」
サヴェフは、愚か者め、と吐き捨てたい思いであった。アガーシャ自らが敵の来襲を自陣の中、自軍に向けて喧伝して回っていたということになる。そのようなことをして兵を動揺させて良いことなど、一つもないのだ。
「アガーシャ」
百人の中から、ザハールが進み出た。この異様に強い気を持つ男の前では、アガーシャは自分がこの森の木を渡る栗鼠か何かのように思えるから、好きになれない。
「戦いは、初めてではなかろう」
その言葉に、アガーシャに対する侮蔑と皮肉が滲んだ。アガーシャは、当然、それを跳ね返すように強気な口調になった。
「当たり前だ。お前達のような新入りとは違うのだ。俺は幾度となく、軍の襲撃を退けてきたのだぞ」
五百にも上る人々は、皆不安そうな顔をしてアガーシャを見ている。
「ならば、何を慌てることがあるのだ」
ザハールが、アガーシャに近づいてゆく。
「王家の軍だからだ」
「王家の軍─—」
ザハールは、その言葉を口の中で噛むようにして呟いた。
「それと、戦うのか否か」
ひとしきり噛み砕いたあと、そのようにして吐き出した。
「た、たたかう、だと」
アガーシャは、腹が据わっていない。
「戦うわけには—─」
二人のやり取りを、五百人が見守っている。
「では、どうするのだ」
アガーシャは、答えを求めるように左右の者を見た。日頃、彫像のようにしてアガーシャの後ろに立ち、守っている者どもだ。彼らは、アガーシャに見られ、戸惑っている様子であった。
「どうするつもりなのだ、アガーシャ。俺たちは、どうするのだ」
ザハールは、なおも迫る。
「こうしている間にも、王家の軍はこちらに迫ってくる」
「使者を」
アガーシャは、乾ききった口から黄色い歯をちらちらと覗かせ、そう言った。
「使者?」
「王家の軍に、使者を。我々が戦う意思のないことを示し、何かの間違いであると─—」
「その使者には、誰が立つ」
「サヴェフがいいだろう」
サヴェフの顔が、少し動いた。金色の眉を燃えるように吊り上げ、アガーシャを見つめている。
「それで、どうする」
「それで—─」
「自らが金を渡している軍に、サヴェフとここに居る者全ての首と引き換えに、己一人、命乞いをするか」
アガーシャの顔色が変わった。五百人の者からも、どういうことだ、とあちこちで声が上がった。
「このアガーシャは、軍と取引をしていた。お前達が集めた金を使い、自らの保身のため、軍に金を渡し、ここを見逃してもらっていた。それが、お前達のためではなく、自分一人のためであったことは、今証明された」
ザハールは、五百人に向かって、イリヤから受け取った証文を高々と掲げた。
「皆のため、軍に
「は、
「嵌めた?」
ペトロが進み出た。
「人聞きが悪いな。あんたが、勝手に軍と通じ、勝手に金を渡し、勝手にしたことじゃないか。サヴェフも、俺も、言ったろう?これで、皆の安寧が保証されたな、と。しかし、軍は攻めて来た。アガーシャ。あんたは、その程度の男なのさ。それを、俺たちのせいにしないでくれ」
「お、お前ら」
「さあ、言ってみろ。何のために軍に通じ、金を渡していた。何故、それを誰にも話さず、己だけの秘密としていた」
アガーシャは、答えられない。冬だというのに額から汗を流し、暫く黙った後、視線をザハールから外した。外したまま、わっと天を仰いだ。
涙の剣。久々に、泣いた。
腰を低く沈め、踏み込んだままの姿勢で、ザハールはその声を聴いている。
「精霊の声、龍の怒りにより、これを誅する」
血振り。
五百人が、崩れ行くアガーシャを見て声を上げる。サヴェフが再び、前に出て声を張り上げた。
「皆、聴け。王家の軍と、話す余地などない。あれは、俺たち全てを殺しに来るのだ」
何故だ、という声が、誰かから上がった。それに、サヴェフは答えた。
「俺達が、国にとって許されざるものであるからだ」
許されざるもの。その言葉が、一人一人に染み渡ってゆく。その通りだった。彼らは国の中で生きる術を持たず、奪い、ときに殺し、生きてきた。
「それは、この世を覆いつくさんばかりに溢れている、戦いのためである」
サヴェフは、そう断言する。
「戦いが、俺たちを、許されざる者にした。我が友も—─」
とヴィールヒのことを引き合いに出し、
「─—謂れなくして罪を着せられ、捕らえられ、今やその生死も定かではない。それは、俺たちが許されざるものであるからか」
否、とサヴェフは言う。
「違う。許されざるものは、彼らの方なのだ。考えろ。国は、我々に何を与えた。思い出せ。お前達は、国から何を得た」
金色の眉が、やはり燃えている。
「奪われるばかりではなかったか。身内を、誇りを、そして生きることを」
剣を勢いよく抜いた。
誰も斬らぬ。ただ、天に翳した。
風が一度それを覗き込むようにして吹き、ザハールの吐く白い息を巻いて去ってゆく。
「彼らこそが、許されざるものなのだ。許し合えぬなら、己の生を示すため、互いに戦うのみ。悲しいことではあるが、それより他にない」
五百人に二つずつある目が、不思議な光を帯びてゆく。それは星に似ていた。
「許してはならぬ。正しき道を、示さなければならぬ」
剣を、一気に振り下ろした。
「戦う。そうすることで、戦いを、無くそう。この国の不正を、腐敗を許すな。アガーシャにはなるな。ただ一握りの者が自らのことのみを考え—─」
と無惨な姿で転がるアガーシャを見下ろし、
「─—他の者を虐げ、喰らうような世など、壊してしまえ。息を吐け。その白いものが、昇ってゆく様を見よ。この晴れた天に、雲を呼べ。風を、そして雨を呼べ。何もかもを洗い流す、
戦闘の経験など無いに等しい。しかし、五百人が声を上げると、地を、森の木を揺らさんばかりの轟きになった。
今、ここに、彼らは立った。
ザハールの言葉通り、五百人が吐いた熱い息が天に舞い昇ってゆく。
雨が降るには、まだ時を要する。
だが、彼らはこのとき、一匹の龍になったのだ。
ナシーヤ歴四百八十三年。
この年は、史記において重要な年である。
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