第3話 幼馴染

 テストからの解放。なぜその事実は、こうも人の心を自由にするのだろう。

 今日は三学期最後のテスト、つまりは学年末テストの最終日だった。

 あたしの足取りはいつもより1.5倍増しかというぐらいに軽やかで、気を抜くとスキップさえしてしまいそうだった。


 まあ、あたしの今回のテストはうわつくほどよかったわけじゃないだろうけど、この際点数はどうでもいい。

 テスト後に待っているのは短縮授業。そして付け加えれば、今日の終了時間も早かった。

 今の時間はちょうど1時ぐらいで、4時ぐらいに帰っていた今までのことを考えると、それは雲泥の差にさえ思えてしまう。


 ああ、開放的。

 そんなことが頭中に回っている状態で、目の前に見えていた十字路を曲がる。

 と。

 その時に見えてきた背中に、あたしは思わず足を止めた。


 げ。

 その後ろ姿が見えた瞬間に、脊髄反射的にそれが誰かわかってしまった。理解してから足を止めるまで、この間約1秒。


 しかし、あたしはすぐに歩みを再開させる。

 自然に自然に。そう考えていたけれど、その歩き方が自然かどうかは、自分自身ではわからなかった。


 その時点で、あたしの中に宿っていた解放感はすでに霧散していた。

 脳を支配していたのはあの背中、あいつへの意識。

 それだけで、あたしがあいつのことを強く気にしているのが嫌でもわかる。


 あたしはその背中を追うようにして、歩みを進めていた。というより、目的地がほぼ同じなのでそうせざるを得ない。そう自分に言い聞かせていた。

 なぜ十字路で違うところから来たのかと思ったけど、出た門が違ったのだろう。ここはまだ、比較的学校の近くなのだ。


 端的に言えば、あいつ――来栖成実は、あたしの幼馴染だった。

 交流があったのは、ちょうど小学校を卒業するぐらいのころまで。今は中学の2年なので、ほぼ2年ぐらい交流がない。


 交流がなくなったのは、大体はあたしが原因だった。

 といっても、理由は成実の方にあったと言ってもいい。


 ちょうど小学校高学年は、男子の体格や顔つきがかなり変わる時期だ。多くの男子は身長が伸びていたし、それに伴って体つきも大きくなったり、顔つきも少し精悍になっていた。

 けれど、成実の成長のベクトルはかなり違っていた。

 あいつは元々女々しい顔付きや雰囲気で、そこがちょっと遊び甲斐があった奴だった。

 けれど、その時期ぐらいから、あいつの顔はどこか『美しさ』さえ帯びて、時々それが別世界の人間のようにさえ見てしまうことがあった。


 そして、あたしとあいつの間に強い断絶が起こったのは、ちょうど中学1年の入学式の日ことだった。

 式が終わってから小学時代の友達のクラスを確認している時に、ふとあいつの顔を見かけてしまった。


 成実は春休みの間にさらに成長して、美しくなっていた。

 成実の顔を見た瞬間に、なぜだかあたしはそれがあいつではないように思えてしまった。

 どう見てもそれは成実だったのだけれど、あいつの成長について、あたしは理解するのを拒絶していた。


 気が付いた時には、あたしは成実に見つからないよう柱に隠れていた。

 あれ以来、あたしは成実と話すことができないでいる。


 そして今に至る。

 あたしは成実の背中を追っていた。小学校低学年ぐらいまで、あいつが追いかけてくるぐらいだったのに、今ではまるであたしがストーカーみたいじゃないか。


 あたしはあいつの顔を見るたび隠れてこそこそあの顔を見ていた。2年間で、実に100回近くそんなことをしている。

 一度植え付けられた強烈な印象というものは簡単には拭い去れないものらしく、未だにあたしはあれが成実だと頭が理解していない気がする。


 とはいっても、あたしはここ2年間の成実のことを何も知らないわけではない。

 母を通じて、保護者同士の雑談の内容がよく垂れ流されてくる。

 最初は耳を疑ったが、あいつは突発的に起こる、何かの睡眠障害を持っているらしい。

 発症したのは中学生になってからのようだ。

 確かに、授業中の廊下であいつが歩いているのを見かけることがあった。クラスが違うので正しいことはわからないが、それは保健室へ行っていたのだろうと想像できた。


 今もあいつは薬を服用しているらしいが、ちょうどそれは昼頃に効き目が弱くなってしまうとのことだ。


 そんなことを思い出していると、前を歩いているあいつの背中が、少しよろけたように見えた。

 あたしは反射的に飛び出していた。辞書ぐらいのサイズだったあいつの背中が、すぐに大きくなる。

 頭に手を当てながら崩れ落ちそうになっていた成実の体を、あたしは反射的に支えた。

「あっ、あの、えっと……」

 あたしは何か声をかけようと思ったけれど、咄嗟のことで何も浮かばなかった。

 微睡む意識の中で、自分が支えられていることに気づいたのか、成実はあたしに視線を向ける。

「あれ……」

 そのあと、かすかな声で成実はあたしの名前を呼んだ。

「久し……ぶり……」

 あまりにも場違いな挨拶をしてから、成実は眠りに落ちていた。


 あたしは一瞬、心も体も硬直してしまっていた。

 けれど、成実の言葉を反芻して、思わずがっくりと頭を下げた。


 こいつ……頭の中は何も変わっていないのかもしれない。


 元々女々しいやつではあったけれど、それと同時に成実は能天気な部分もあった。こいつは今でも、何も考えていなくて、その分だけ純真無垢なのかもしれない。

 あたしは少しだけムカついていた。それが自分に対してなのか、成実に対してなのかは判別がつかなかった。


 あたしは自分の背中に成実の体を持ってきて、おんぶの状態で持ち上げた。

 成実の昔とは違う美しい顔が隣にあったが、今ではそれが成実だと認識できていた。


 あたしは成実の体を背負って、ふと思う。

 普通、あたしは背負われるほうじゃないのだろうか。

 けれど、成実の体は明らかにあたしより軽かった。それが何よりも、ムカついていることだったかもしれない。

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少年論 多摩川多摩 @Tama

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