第2話 家庭教師
三角形ABEと三角形DCGの合同を証明しなさい。
私はそのようなことを書かれた文章を見て、自分がこんな問題を昔は解いていたのかと、軽い感慨が湧いた。
大きな角形の図の下には、長い文章問題が書き連ねられていた。
その文章問題のさらに下に、黒いシャープペンシルで
私は手に持った解答書を横目にして、プリントに書かれたその文章を採点していた。
シャープペンシルによって並べられた文章は、とてもよくできた解答だった。
けれど、最後の方に必要な文章が欠けており、それは完璧とは言えないものだった。マイナス2点、といったところだろうか。
もしも今、なんの助けもなしにこの問題を解けるかと尋ねられたのならば、私は間違いなく不可能だと答える。
私がこういう問題を解いていたのは、すでに6年ほど前のことだった。
おそらく、私と同じ文系の大学生に質問したとしても、多くの人間が似たような不可の返答をするだろう。
三角形の合同証明は、もしかすると私の人生観には活きていないかもしれない。
しかし、私はあくまでも家庭教師で、これを教えるのは仕事にすぎなかった。私はセピア色のような色あいの解答書を利用して、彼の文に赤を加える。
私が「終わったよ」と声をかけようとする直前に、隣からとさりという小さな物音が聞こえた。
私は少しおどろいてそちらへ視線を向けると、すぐ目の前には少年の小さな寝顔があった。
テーブルの上で腕を枕にして、顔をこちらへ横たえながら静かな寝息を立てている。先程までは開かれていた大きな目が、今は一転して横に閉じられていた。
私は反射的に彼に声をかけて起こしてしまいそうになったが、その安らかな眠りを妨げるのには、少しだけ躊躇してしまった。
机の上に置かれたデジタル時計に目を向けると、このバイトが終わる5分前を表示している。
今更問題の解説をするのは難しいだろう。私はそう心の中で言い訳をして、付箋に宿題の範囲を残しておいた。
彼、すなわち来栖成実という少年は、ナルコレプシーという睡眠障害を患っているらしい。らしい、というのは、これは彼の母親から聞いた話だからである。
ナルコレプシーというのは日中、強い眠気の発作が起こる睡眠障害のことだそうだ。ふとしたときに襲われる睡魔は、時にトラブルの種になってしまうこともある。彼の母親は、そのことについて気を払っているのか、予備校に通わせるのではなく、私のような一対一の家庭教師を依頼しているようだ。
実際に、彼は時々私の授業中に眠りに落ちてしまう。
彼はナルコレプシーの軽減のための薬を飲んでいるようだが、それでも薬が切れかかる時には、やはり発作が起こってしまうらしい。
私は文字を書き込んだ付箋を机に貼りつけると、彼の寝顔へと視線を戻した。
改めて見つめると、彼の眠る姿は、あまりにも無防備であった。
彼の部屋という密室の空間で、ここには私と彼の二人しかいない。授業が終わるのにも、少しだけ時間があった。誰もこの時間を阻害するものはなかった。
その状況が、私にいつもとは違う感情を芽生えさせていた。
彼の寝顔に、私は変な好奇心が湧いて、彼の顔へと手を伸ばした。
私は自分の指を彼の頬へとよわく押し当てた。
少年の頬は、あまりにもやわらかかった。それは私の指を全く拒絶することなく、力を吸収するように優しくへこんだ。
そのままゆっくり指を下へ滑らせると、その小さなへこみも、一緒になって動いてしまう。
まだ、大したことはしていないにもかかわらず、私の胸の中はどきどきと波打っていた。
彼の頬は、何か魔性の魅力を秘めているようだった。
私はそれを、自らの指によって犯しているような、まるで罪の意識さえ感じていた。けれど、同時に私の中に、背徳感からくる小さな興奮が湧き上がってくる。
私の心境の変化を、まるで読み取ったかのように彼の唇が少しだけ動いた。
その変化に、私はどきりと強く脈を打った。
私は何をやっているのだろうか。今の私は明らかにおかしい。
もしかすると、私は一瞬の心の隙間を突かれて、少年に魅了されてしまっていたのではないか。そんな馬鹿な考えさえ思いついた。
私は思わずため息をついた。
デジタル時計を見ると、終わりの時間を表示している。
みたび彼の顔へと視線を移すと、彼はやはり眠っているようにしか見えなかった。
誰にも見られていないのに、私はどうしようもないほど恥ずかしかった。
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