6、
人間とは現金なものだ。
あれほど複雑に怒ったり憎しみをぶつけたりしていた少女は、今、花咲くような笑顔で僕の数歩うしろを歩いている。
僕らはあの空を覆う森の中にいた。
枝にぶら下げたハンギングチェアを足がかりにして、枝をよじ登り、縄ばしごを垂らして少女を森の中へと招く。
宙ぶらりんにぶら下がる縄ばしごというものは登るのに意外とコツがいるもので、慣れていない人間だとしがみついたまま一歩も動けなくなる。少女もご多分にもれず、縄に絡まりそうになりながら悪戦苦闘していたが、不格好ながらなんとかよじ登り逆さまの木の幹にしがみついた。
「根が上で枝が下なんて、なんだか気味の悪い木登りね。……あ、こういう場合も『登る』でいいのかしら」
珍しい体験による興奮のおかげで、彼女の表情は少しだけど和らいでいた。
「なんでもいいよ。とにかく落ちないように気をつけて」
僕は言いながら森の中に道を作る。
比較的枝葉の空いているところに、背負ってきた木の板を置き付近の枝にしっかりと結びつける。それを一歩、また一歩と繰り返して急拵えで木道を敷いた。
「慣れてるね」
「まあね」
「それにこの森の中を歩くのは初めてじゃないみたい」
「まあね。はじめに。一回だけ歩いたことがある」
「ふうん」
ザートはそれ以上聞いてこなかった。
もっといろいろ、根掘り葉掘り聞きたかったのだろう。うずうずしている様子も伝わってくる。しかし僕が休むことなく木道整備をしていたことで遠慮したようだ。
僕らは木道を敷き、どうしても進めない時は「ごめん」と謝りながら枝を打ちしながら森の奥へと進んだ。
僕と彼女と、紐をくくりつけ肩からぶら下げたティーポットと、やっぱり赤い実にご執心のおしゃべりなトリ。
僕らは進む。
奥へ。そして上へ。
葉の重なりが薄くなり、無数に別れていた枝は集約されていく。
それはつまり、厚い雲のように空を覆っている繁みの上に出るということで。
次第に明るくなっていくと、お互いの顔もよく見えるようになっていって、彼女は一段登るごとに僕の様子を盗み見ていた。
「不思議な人ね」
ザートは不意打ちのように言った。
「そうかな」
「ええ。そうよ。私より背が低いのに、私よりずっとずっと大人みたい」
「背は関係ないんじゃないかな」
「そうかしら」
「そうだと思うよ」
「ねえ、どうして森を見たほうがいいなんて言うの?」
「そう思ったからさ」
「何があるの?」
「なんだろうね」
「……村を捨ててもいいと思える何か?」
「そうだといいね」
森もまた、それを願ったのだろうか。
僕らの目に強烈な光が差し込んだ。
目をつむり、手のひらで光を遮った。
僕はそこに広がっているはずの景色を知っていたので、慌てず、光に慣れるのを待ってゆっくりと目を開いた。
彼女はそうしなかったのだろう。好奇心に従ったのだろう。僕が目を開くよりも前に短い悲鳴が聞こえた。そして間髪を入れずに、彼女の声ははじけた。
「……きれい」
静かに言った。
だけどたしかに声ははじけていた。
一足遅れて僕もまぶたを開けた。
久しぶりに、ギラギラとした太陽の光が瞳に差し込んで、慣れるのを待ったはずなのに、やっぱり眩しさに負けてしまい目を細める。
ティーポットはカタカタ鳴って、おしゃべりなトリは珍しく鳥らしい鳴き声を響かせた。それは、早く目を開けと僕をまくしたてているようだった。
「きれいね」
彼女が二度目を呟いてから、ようやく僕はそこに広がる景色を眺めた。
初めて頭上に森が現れたあの日。僕は森に侵入した。そのとき目撃した風景と寸分違わぬものが、僕らの前に広がっていた。
逆さまの森。
森はどこまでも豊かだった。
どこから生えているのかわからないほどに幹はたくましくどこまでもそびえ、その間を差し込む光に導かれるように鳥がさえずり、リスや猿やなんかの小さな動物たちが枝から枝へと渡り、空に貼りついてこぼれない泉まである。その水に舌をのばすトカゲ。それを狙わんとする猛禽類の笛のような鳴き声がきこえる。おしゃべりな鳥の好物の赤い実ももちろんある。たんまりある。こんな景色の中では幹を登る蟻の列すら尊くて愛おしいもののように見えてくる。
生き物たちの歩く音。かける音。襲う音。逃げる音。
葉の匂い。花のにおい。木の匂い。赤い実はかぐわしく、青々とした匂いの中にときおり獣の体臭が混じる。
匂いが、音が満ちている。
そして何より、みずみずしく力強い唯一無二の光が、すべてのものをいっそう気高く昇華させるのだ。
僕ら以外すべてが逆さまで、だけど、逆さまというだけで今まで見てきたどんな森よりも豊かで賑やかで、そして命にあふれていた。
ザートはこの景色を見て、心から喜びを感じていた。
しかし一方で、鋭く突き刺さった刃に表情を歪めてもいた。
僕の言葉は痛いほどに彼女に届いている。
「わかったかい?」
僕の言葉に、ザートは苦しそうに首を縦に振った。しかしすぐに横にも振る。どちらの仕草もあまりに自信のない様子だった。
「わかったけど、わからない」
「それはつまり、僕の言っていることは理解したけどやっぱり納得できない、ということかい?」
「そうだけど、そうじゃない」
「これはまた、妙なことを言う」
僕は言いながら、鼻先で飛び交う蝶々に止まり木を差し出すようにそっと指を伸ばした。
彼らは互いに自分の存在をアピールするのに必死で、僕のことなんて目に入っていないようだった。
「この森を無くしてしまうのはちがう」
「それなら――」
「でも、村がなくなってしまうのもやっぱりちがう」
「だから――」
「わかる、わかるよ! 私、ひどいこと言った。みんなといたくて、村がなくなるのがイヤで、こんな森なくなっちゃえばいいと思ったの! だけどちがった。……ちがったけど、じゃあどうすればいいの?」
「どちらもなんて、都合の良い話だ」
「どちらも消えてほしくないって、そんなにいけない願いなの?」
やはり子どもだ。
答えはわかっているはずなのに、それでもあきらめきれないのだ。割り切れないのだ。「仕方ないね」という言葉はまだ少女には擦り込まれていない。
「大人になるんだ、ザート」
「どういうこと? なにを言っているか、よくわからないわ」
「大人になるっていうのはね、選択することなんだ。何かを捨てる決断をすることなんだ。そして後悔することなんだ。それを繰り返して大人になるんだよ」
ああ。同じ言葉を、誰かの声で聞いた記憶がある。誰が言ったかなんて思い出せないけれど、どんな声色で、どんな調子で言ったかを鮮明に覚えている。
「木こりはね、人食いの森でひとつの選択をしたんだ」
僕はそう言って、蝶々たちが逃げてしまった空間に両腕を差し出した。手のひらを開き空に向ける。
「魔の森を根絶やしにするか、」
言葉が形にでもなったように赤く燃える斧が現れた。僕はそれを右手で握る。
「守りの森を育てるか」
開いたままの左の手のひらに、小さな小さな緑の苗が着地した。
同じようなことがあったんだ。
木こりは「人食いの森」の中で、少女と同じように、命が育まれる豊かな森の姿を見たのだ。
その姿を見て、少女と同じように戸惑ったのだ。
しかし彼は少女とは立場が違った。
彼は街に住む人間の一員ではなかったし、自身で願ってこの場所にきたわけではなかった。
どうして「森から逃げればいいじゃないか」と言えなかったのか。
それが言えなかった木こりに与えられたのは二つの選択肢だった。
妖木が見せたのか。それともすべてを悟った何かが木こりを試したのか。
目の前に現れた斧と苗。
この斧で今すぐ森を跡形もなく消し去るか。しかしそれには多くの命の犠牲がともなう。
それとも邪の侵入を許さない聖なる森を育て人々を守るか。しかしそれには多大な労力と忍耐が必要になる。
どちらにもためらいがあるのなら、楽な選択肢を作ってそれを選べば良かったのだ。
「森から逃げればいいじゃないか」
だけど木こりはその一言を言えなかった。
言う前に選択を迫られたのだ。
「大人になりなよ」と。
「痛みを受け入れるんだ」と。
街の人たちは彼に選択を迫った。
自分たちの中ですでに決まっていた答えを押しつけるようにして、彼に選択を迫った。
少女とは立場が違った。
そうして僕は選んだのだ。
正しいことじゃなくて、自分にとって楽な方を。
自分にとって一番楽な「街の人たちに従う」という第三の選択肢を作りそれを選んだ。
多くの命を見ないフリした。
街の人たちが願うのだから仕方ない、と。
その結果がこれだ。
森が豊かだったということは、少なからず、そして知らぬうちにそばに住む街の人間たちも何かしらの恩恵を受けていたはずだ。
それを、街の人間は妖木を倒すだけでは飽き足らず、森ごと消した。自分たちの安心のためだけに、あらためて森を見ることもなく。結果、大地は荒れ街にも影響が出て結局人の住めない場所となった。
住民たちの言葉に従うだけだった僕にも天罰は下った。
木を切れぬようにと非力な少年の姿に変えられ、その姿から抜け出せなくなった。そして生活の場も奪われた。西の森はある朝ごっそり取り上げられ、それに代わるように、毎年、まるで季節のうちのひとつのようにそらを森が覆う日々が訪れるようになった。
「でも、」
と彼女は言った。
いろんなことを聞いて、選択を迫られ、人生の中で一番混乱しているかもしれないのに、なんとか平静を保とうとしながら、彼女は言った。
僕の話を聞いて彼女は三つの選択肢を持った。
命を無視してそらの森を切るか。
そらの森に怯えながら、人々が去って行くのに怯えながら聖なる森を育て続けるか。
そして、どちらも選ばずに村を捨て、新しい場所で村人と幸せに暮らすか。
僕ならば三つ目を選ぶ。今ならそれを伝えることもできる。
だけど彼女は言った。
「でも、やっぱり私はどれも捨てられないわ」
そう言って彼女は手を伸ばす。
「なにを……」
彼女は僕が持っていた斧も苗も取り上げて、両腕に抱え込んだ。
「本当に困ったら『ごめんなさい』って言いながら必要なだけ切って、村の人たちが去って行かないように説得しながら、それで守りの森を育てるっていうのはダメかなあ」
少女はいとも簡単に、僕が選べなかった答えを出した。
「すべてを手に入れるには、それだけの苦労があるんだよ」
「苦労なんてへっちゃらよ」
「わかっていないよ。本当に大変なんだよ? 人生を棒に振るかもしれない。そんなことをするくらいなら……」
「大丈夫! 村のために、この森に住むみんなのために、私なんだってするわ!」
新たな目標を手に入れて使命感に燃える彼女にはもう何を言っても意味がない。そして極めつけは―
「それに、あなたとだったらできそうな気がするし」
彼女があまりにあっけらかんと言ったので、僕はしばらく反応することができなかった。
「ちょっと待って。僕は手伝うなんて」
「だーめ。もう決めたの。よろしくね、木こりさん」
そう言って、少女ははじめて笑顔を見せた。
とっても無邪気な顔だった。
「本当に、君は欲張りでわがままだ」
「あら。いけないこと?」
「悪いこととは言わないけれど、もっと大人になってほしいとは思う」
「まだまだ子どもよ? あ、思い出したわ! そういえば、わがままは子どものトッケンなんですって!」
「誰がそんなことを言ったのさ」
「父さまよ」
彼女の嬉しそうな顔を見たら、どんな風に育てられてきたかがよくわかる。
「でも、それは優しく見守ってくれる大人がいるからこそなんだって。だから見守ってくれる人たちに感謝するんだよって言ってたわ」
そう言ってザートは僕の手をとった。
「ありがとう。木こりさん」
イヤな予感がする。
「そして、あらためて、末永くよろしくね」
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