第18話




 結局。


 実験体として数回の電撃を浴びた後、どうにかこうにかヒナから許しをもぎ取った依舞樹。

 出力MAXでの人体への影響は、依舞樹のお陰で安全であることが証明されたらしい。


 恭祐としては、自分が逃げた事での結果なので少々複雑な心境だ。

 安易に揶揄する事も出来なかったが、本気で涙目の依舞樹と、キラキラ輝くように楽し気なヒナの攻防戦は見ていて非常に面白かった。


 その結果を揚々とパソコンに入力しているヒナを残し、恭祐は、律と依舞樹と共に寮へ向かう廊下を歩いていた。


 まだ夕方ということもあり、時折同じ学科の先輩達に擦れ違っては小さく会釈する。

 そろそろ学内闘技会が近づいていることもあり、どこの研究室も忙しそうだ。


 一方で、隣を怠そうに歩く律は、皆大変そうだねぇ、とまるで他人事のような感想を呟いている。

 そのやる気の欠片もない雰囲気には、ブレないねぇ、と苦笑するしかない。

 確か第六も闘技会に出るんだよね、と確認したくなったが、先程までの研究室内を思い返せば、このスタンスも納得も出来た。


 なぜなら、第六研究室の所属員の殆どが、協調性を捨て去ったような個人主義を貫く人たちばかりだったのだ。

 周囲に流されないどっしりとしたタイプと、自分のペースに周りを巻き込んでいけるタイプの二極。


 どうやったらそんな人間ばかりが集まるんだ、と、作業中を思い出して苦笑交じりに息を吐いた。


「いやー……ホント濃かった……。りっちゃん、濃いよ、第六。想像以上に」

「だから言ったじゃん……研究室がどれだけカオスか……」

「いや、研究室っつーか、第六だって。見学で設営に駆り出されるし、現場はグダグダだし、皆好き勝手に遊んでるし。最後あんだけ騒がしくしてたのに、他の人達、全然動じずに自分の作業に没頭してるしさぁ……。第八に見学行ったけど、別に普通だったもんよ」

「……他と比べてはいけません……」


 遠い目の律。

 そんな事は些事であると、考えることを完全に放棄した顔だ。


 君もその仲間なんだよ、と教えてあげたくなったが、どうしようかと思っているところで律の足がピタリと止まった。


 そして、気の抜けていた律の顔が……何故か徐々に引き攣っていく。


 なんだなんだ、と律の視線の方向を確認すると、廊下の向こう側から、一人の人物が近付いてきていた。……満面の笑顔で、オーバーリアクション気味に手を振って。


「いたいたぁー、一条くーん。ちょうど探してたんだよねぇー」


「嫌です」


 ヒョロっとしたフォルムで律の目の前に立ち塞がったのは、第六研究室の黒井さんだ。

 嬉しそうな顔の黒井とは正反対に、臭い物に蓋をする勢いで拒絶する律。


 恭祐は今日初めて黒井と会ったのだが、一癖も二癖もあるのは短時間でも十分に理解出来た。

 そんな人物に嬉々として探されていたなんて、それだけで何かのフラグだと疑ってしまうのは仕方ないだろう。


 あからさまに嫌そうな顔をされているにも関わらず、黒井は気にもせずに笑顔のまま律に詰め寄る。


「まだなぁんにも言ってないじゃーん」

「絶対嫌です」

「至急のお仕事が入っちゃったから回れ右ー。研究室にゴー!」

「断固拒否します。明日も設営があるんで」


「知ってるよぉー? だから依頼を待ってほしいって先方にお願いしたらさぁ、じゃあ今日の夜から明日の朝までなら空いてますよねー、って時間をずらしてくれたんだよ。助かるねぇー」


「……嘘でしょ馬鹿ですか?」

「あれ? 半日あったら出来る工数だったと思うけどぉー?」

「いつ寝るんですか! 俺の稼働時間を考えてくださいよ!」

「さっき洗面スペースで寝てたじゃーん。いくちゃんが代わりに頑張ってたの知ってるよぉ?」

「…………」


 ぐぬぬ、とでも言いそうな律の表情。

 黒井の言う通り、設営作業の殆どは、副室長の萩原が律の代わりにリンクしてくれていたので、反論出来ないのだろう。


「感謝してよねー。僕がこうやって仕事を取ってきてるから、うちの研究室は予算が潤沢なんだよぉー?」

「感謝するのはアンタだ! 実際働いてるのは誰だと思ってるんですか」

「いやぁー、所属員に恵まれて僕は果報者だなぁー」

「ほんっと頭沸いてるよね。どうすれば、そんなポジティブに考えられるの!?」

「春だからかなぁー?」

「年中だろ!」


 いーやーだー、と断末魔のような叫びをあげる律を、黒井はズルズルと楽しそうに引き摺っていった。


「あははは……。りっちゃん拉致られてっちゃったねぇー……」


 温い笑顔で手を振りながら、律が攫われていくのを眺める恭祐。

 最初から、律が押し負けるだろうことは分かっていたので、さっさと諦めてどうぞ、という心境だ。


「暇そうに見えて、やっぱり忙しいんだねー。研究室怖いわー、なぁ依舞樹……依舞樹?」


 他愛ない感想を口にしながら振り返れば、依舞樹が不思議そうに自分の手をニギニギと凝視していた。

 そういえば、研究室を出てからずっと静かだったのを思い出す。もしやあの騒動で、手を怪我でもしたのだろうか、と焦ってその手を覗きこむ。


「どした、痛いの? まだ痺れてる?」

「……え……いや、そうじゃないって、それは全然大丈夫! じゃなくってさぁ、さっき……あー……なんか……うーん……何かよくわかんないんだよなぁー……」

「…………俺はもっとよくわかんないわ……」

「だよなー。……ま、いっか。俺もわかんないし、何でもねーや。とにかく大丈夫だから!」


 躊躇ったように自分の手を見つめた後、ただそれだけを答えて歩き出した依舞樹。


「……うん……ならいいんだけどね」


 何でもない、と言うわりには、その後も歩きながら、チラチラと自らの手を視界に入れている。

 手の平の感触を確かめるように動かし、そして結局小さく首を傾げることの繰り返し。


 そんな依舞樹を見て、恭祐もまた、首を傾げるのであった。





***




 翌日。


 午前中の授業が終わり、第六研究室に顔を出した恭祐達四人。


 所属員ではないので、入り口でインターホンを鳴らし、中の人間にドアロックを解除してもらってからの入室だ。

 もちろん今日も、昨日の続きの設営要員。

 滞りなく完了させよう、という気合を込めてやってきた四人だったが、室内に一歩足を踏み入れた途端に、それは甘かったと考えを改めざるを得なかった。


「……うわぁー……」


 恭祐は衝動的に、何とも言えない感嘆の声を上げてしまった。


 それもそのはず。

 昨日出て行った時のままの光景が目の前にあったのだ。

 同じ人物が同じポジションにいて、半数位はデスクの上に沈没している。


 恐らく、というか確実に、昨日からずっとエンドレスで作業していたのだろう。闘技会前はだいたいどの研究室も徹夜することがある、という話は先輩たちから聞いていた四人だったが、実際に目の前で見せつけられると如何ともしがたい。


「おお、本日もわざわざ雑用をしにやってきたのだな、暇人どもめ」


 先程ドアロックを開錠してくれたヒナが、恭祐達の元へとやってきた。

 今日もいつも通り、しっかりと制服を着つつもゴシック調なヒナ。栗色のゆるふわロングヘアと、黒の厚底ローファーがベストマッチだ。心なしか普段よりも気合が入っているような気がする。


「おー、ヒナちゃん。……おはよう?」


 おおよそ起きたてには見えないが、周囲の光景を考えると、自然と起床の挨拶が口をついた。


「愚昧な。もう昼過ぎだぞ」

「知ってますー。だってみんな寝てるんだもんよ」


 陽光の当たらないこんな場所……と言ったら失礼だが、恭祐としては、せめて一日一回は太陽の下で身体を動かしたい。そう感じるあたり、研究室ではリンク専攻の人間が少数派なのだろう。


「不摂生な奴らだと嘲笑っておけ。……ときに、依舞樹は今日も元気のようだな……」

「……筐体用静電スプリングの被験者はやらないよ?」

「…………ちっ」

「…………だ、誰か、アース線! アース線頂戴っ!」


 物言いたげなヒナの視線から何かを感じたのだろう、自力で静電気対策しておくしかないっ、と息巻いている依舞樹。

 アース線が何かもよくわかっていない恭祐からすると、あのビリビリは自力でどうにか出来るものなのか、と驚愕だ。


 焦る依舞樹から完全に興味を無くしたらしいヒナは、雑に明後日の方を顎しゃくる。


「アース線なら、そこのケーブルドラムに巻かれてるぞ。ちなみにこれを参考にするとよい」

「コレ……? ……って、これアースバンドじゃん! ヒナちゃん既につけてるし!」

「当たり前だろ、ここをどこだと思ってるんだ。天下のATRA学園第六研究室だぞ」


 ヒナが依舞樹に見せたのは、一本のケーブルが伸びたリストバンドだ。薄いレースの手袋の上に巻かれているそれは、恭祐がよく知るスポーツで使うようなリストバンドではなく、どちらかというとラバー素材の腕時計のような見た目だ。


 後で聞いたところによると、そのアースバンドを付けることで、静電気のバチッとくる電撃が防げるらしい。

 帯電する可能性があるような作業場所では、一般的に利用されているアイテムなのだとか。


「じゃあそれ貸しといてよっ! 昨日のうちにっ! ってかそれがあるなら、痛い思いしなくたって、数値的なデータ取れるじゃん!」

「さっきから当たり前のことばかり喚くな。体感的な感想を聞いてみたかっただけだ」

「だけ!? それだけなの!? それだけの為に!?」


 驚愕の中で打ちひしがれている依舞樹。

 と、そこに追い打ちのように、やり取りを聞いていた御子柴が、冷静に鋭い指摘をポツリと呟いた。


「……そんな主観的なデータ、要らないだろうに……」

「安心しろ、Tipsとして付箋に残しておく程度だ」

「なら良いか」

「良くないでしょっ!? ひどすぎるぅぅー」


 こんな感じで適当に会話しながら室内を進んでいく。


 途中、デスクの下などの予想もしなかった場所で人が寝ているから恐ろしい。

 踏まないように気を付けながら、研究室という名の魔窟を歩く。


「なぁんか……ヒナちゃん、今日はいつもより楽しそうだね」

「わかるか?」

「うん、すっげぇルンルンしてるの、足取りでわかる」


 先導するヒナは、浮足立っているかのように軽い歩みだ。

 普段のマイペース過ぎる雰囲気とは違い、まるで子供の様に純粋な期待感が漂っている。……ような気がする。


「そうなのだ。ヒナは今、とても楽しい。いや、楽しみにしている、かな」

「へぇー、何を?」

「……それは内緒だ。今に、分かる」


 それはもう本当に楽しそうに言うものだから、恭祐もつられて笑顔になってしまった。

 いや、楽しそうに、とはいえども、無表情で平坦な話し方はいつも通りなのだ。しかし、その中の小さな起伏が感じ取れるまでに仲良くなれた、ということなのだろう。


 どんな面白いイベントがあるのか気になって仕方なかったが、今に分かる、と言われてはワクワクしながら待つしかない。


「萩原、連れてきたぞ」


 昨日と同じ場所には、既に副室長の萩原がタブレット端末を片手に、何かの準備を始めていた。

 スラリとした立ち姿ときびきびした動作は、とても徹夜組とは思えない。

 黒髪の艶やかなショートカットを翻して振り向くと、挨拶もそこそこに恭祐達一年生の人数を数え始めた。


「牧、澤田、吉野、御子柴……4人だな。……あと一人、足りないようだが?」


 冷静な声でクレームを入れる萩原。


 あと一人、というと、それは勿論一人しかいないわなぁ……と恭祐自身も探していた人物を脳裏に思い描く。


 昨日の帰りに、ここの黒井に連れて行かれてから会っていない。

 まぁ今日は必修講義が無いので、そもそも会う機会は無かったのだ。だからこそ研究室にいるのだろうと思っていたのだが、さっと周囲を見渡しても目ぼしい人影は見つからない。


 するとヒナが、悪そうな顔で奥のスペースを指差した。


「律なら、そこで寝ている」


 それは数台の教習機が安置された奥。

 何枚ものディスプレイが上下に分かれて設置され、ノートPCも数台を稼働させて何本ものケーブルがぐちゃぐちゃに這っている。


 その先のデスクで、律が突っ伏していた。


 見るからに作業の途中で力尽きたような態勢だ。

 デスクトップPCとノートPCの双方のキーボードに手を乗せ、タイピング中のような恰好のまま、おでこを机にくっつけて寝ている。

 省電力モードになっていないディスプレイは、未だリアルタイムで何かのログが流れているみたいなのだが、あれは大丈夫なのだろうか。


「あらあら。あのような態勢で寝ては、疲れも取れませんでしょうに……」

「おい依舞樹、律の足を持て。このままリンクスペースに突っ込んでやろう。飛び起きるぞ」


 優しい奈央の言葉とは正反対に、悪魔のような思い付きをするヒナ。

 そうか、こうやって第六の惨状が生まれていくのか、と思わず諦観してしまう。


 ヒナに言われるがまま、依舞樹がそーっと寝ている律の足元へ近づいていく。

 重たい上半身の方をヒナが運ぼうとしているが、それは無謀じゃないだろうか。


「ん……なに……?」


 案の定、依舞樹が少し足を持ち上げたとたんに、律が覚醒を始めた。


「……ちっ、起きやがったか」

「ん? ヒナ? ……依舞樹は、何してんの」


 眠気漂う不機嫌そうな顔で隣に立つヒナを認識した後、足元でしゃがみ込んでいる依舞樹を見つけて、変態でも見るように顔を引き攣らせた律。


 そりゃあそうだろう。

 起きて突然、友人が足元にしゃがみ込んでいれば誰だって驚く。


「……いえ、足を持てと言われまして……」

「は? 足……? って、うわぁぁああああああ! 何この数値!?」


 足がどうした、と怪訝そうに呟いた律がゆっくりと身体を起こし、目の前のディスプレイを視界に入れた瞬間――それはもう、全力のテンションで悲鳴を上げた。


「ぎぃやぁぁあ! パラメータが大惨事だ! 一番ダメなステップでスタックオーバーフローしてる! なんでぇ!?」

「……律はかれこれ数時間、キーボードの上に手を乗っけたまま沈没していたな……」

「教えてよっ! それ致命的だよ!? どっからどう見てもデバッグ実行してるじゃん!」


「すやすや寝ていたのでな。ヒナ愛用の毛布も、頑張って作った『おが屑新聞紙』も拒絶された後では、ヒナも声を掛け辛かったのだ……」

「絶対に嘘でしょ!? せめて停止させて! 頼むから止めてあげて! オーバーロードでモーター死んでるんだけど!?」


「万一、発煙・発火しても大丈夫なように、筐体の上にはバケツを仕込んでおいた」

「そんな手間暇かける前に、もっと楽な解決策があったでしょうよ!?」

「人はすぐ楽な方に逃げたがる。そんな風に堕落してはいけないのだ。この失敗を糧に、大いなる壁を乗り越えるがいい」


「平坦な道にわざわざ壁を作って、しかもトラップまで仕掛けるような非道に言われたくないわっ!」


 何が大変なのかわからないが、律からすると非常事態らしい。

 わたわたと教習機を覗き込み、言葉にならない落胆の叫びを上げている。


 そんな律を後目に、ヒナがこちらを向いて親指を立てた。


「ぐーっ」


 ……い、いやいやいやいや。絶対にグッジョブじゃないでしょ、これ。


 ニヤリと笑ったヒナの背後には、得体の知れない黒いものが滲み出ている。

 ……というか、もしかしてコレを楽しみにルンルンしていたのだろうか。

 もしそうなら、恭祐自身も何が起こるのか楽しみにしていただけに、非常に複雑な心境だ。ワクワクしててごめんね、りっちゃん、と心の中だけで呟く。


 絶望に打ちひしがれている律の背中を、さすってあげるべきか、否か。


 ヒナが律の座っていた椅子を奪い、楽しそうにクルクル回り始めたのを見て、全員が何とも言えない光景から視線を外すしかなかった……。






『おい、そろそろ準備を始めるぞ』


 第一研究室・城ヶ崎室長からの通信音声が、第六研究室内のスピーカーに流れた。


 まるでその声が目覚ましかの様に、もぞもぞと起きはじめる第六所属員の面々。

 既に起きているメンバーも軽く身支度をして、空いたスペースに集まり始めた。


 恭祐も、教習機に未練タラタラな律を引っ張りその輪に加わる。


 あらかたメンバーが集まったのを確認した萩原が、代表して闘技場に繋がる大型のシャッターを開いた。

 そこにはノートPCを小脇に抱えた城ヶ崎が、一人で立っていた。


「あれぇー、今日は城ヶ崎君だけぇー?」


 とりあえずの挨拶を交わしていたところで、ひょっこりと現れたのは黒井だ。

 起きたてなのか寝ていないのか、昨日よりも三割増しで間延びした口調をしている。


「第一の作業分は完了していますので。あとは監督役が一人いれば十分でしょう」


 そっかぁー、わざわざご足労すまないねぇ、と言う黒井に、城ヶ崎はやれやれ顔だ。

 どうしようもない人だということが分かりきっているのだろうか。

 ……いや、流石にたかが一年生の自分が、そんな事を考えるのは失礼か……。


「では残っているレイアウト案の2ページ目、3ページ目をさっさと済ませよう。いいですね、黒井さん」

「はいはぁーい」


 黒井のテキトーな返事と共に、テキトーな分担で作業が始まった。ちなみに、ここでのテキトーは、適しているという意味での適当ではなく、いい加減というニュアンスの方。


 城ヶ崎の威圧感による発破で、昨日よりスムーズに準備が進んでいく。


 さぁ、そろそろ椅子運び班はリンクするぞー――というところで、研究室の呼び出しベルが鳴った。


「あ、俺出ます」


 率先して応答に走る律。

 確実に、リンクしたくないから逃げたとわかる、あからさま過ぎる行動だ。


 律がインターホンで開錠をすると、スライド扉がさっと開いた。


 そこに立っていたのは、くすんだ色のつなぎを着た、第四研究室の青木。

 小柄で愛嬌のある笑みは、律を視界に入れた瞬間に消え失せた。


「…………」

「……えっと。何か御用です……よね?」


 冷気渦巻く青木に、気圧された様に引き気味で声を掛ける律。


「……納品リストが間違ってたみたい。コレ、そっちのオーダー? ちゃんと確認しといて……――って、あぁぁああっ、萩原先輩っ! お疲れ様ですっ!」

「あ、ホントだ、たぶん教習機の――」


「今日も設営ですか? 椅子運び!? 萩原先輩が、ですか!?」

「――関節部分のパーツだと――」


「うわ、その人数だと結構時間かかりますね。闘技会も近いんで筐体の調整もしないといけませんもんねっ!」

「――思うんだけど…………えーっと……注文書、確認してくる……」


「僕にお手伝い出来ることがあれば、いつでも言ってくださいねっ!」


 ここまであからさまだと、逆に微笑ましい。

 萩原を見つけた途端、尻尾をぶんぶん振りながら目を輝かせている青木。そこまでファンだったのか、と驚きだ。

 対する萩原は、そんな反応に慣れているのか、いたって普通に受け答えをしている。――独り言になってしまった律を放置で。


 トボトボと、手渡されたパーツを手に、デスクへと向かう律。


 そして、型番を確認しようとしたらしい、

 ――その時。


 スタンバイ状態になっていた一台の教習機の眼窩が、キュルリと動いた。


 普段なら雑音で聞こえない程度の、ほんの小さなモーター音に、全員が振り向き、そして――。



「りっちゃん!」

「一条!?」


 教習機の固定用パーツが引き千切られる、破裂音。

 人体の限界を超えた加速度で、一直線に律へと向かう、リンカーのいない無人の教習機。


 律の目が見開かれる。


 回避不可能な間合い。



 誰もが、最悪を想定した。



 しかし。



「――ひ、な」



 音は聞こえなかったが、恭祐には、律の唇がそう動いたように見えた。



 ふわりと割り込む、栗色の、柔らかな髪。



 炯炯とした双眸が見えた――気がした。




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