話会

ロム猫

第1話

 「日本に自動車メーカーは二つしかない。何と何だかわかるか?」


 貴志が一四歳の頃、父親が突然そう尋ねてきた。脈絡もない唐突な質問に戸惑っていると、最初から答えなど期待もしていないかのように間もあけず父親は答えた。

 「それはな、トヨタとその他だ」

 まるで独り言のように始まり、答える暇もなく打ち切られた会話に動揺を隠せずにいたが、当の父親はつまらなさそうに読んでいた新聞を脇に置き、そのまま何処かへ出かけてしまった。

 もしもそれを「会話」と呼ぶことができるのであれば、貴志が三十年間生きてきたなかで父親と交わした唯一の会話らしきものだった。


 「どうしたの? 難しい顔をして」

 区役所から届いた一通の封書を手に黙り込む貴志に向かって、美幸は不安そうな声でそう尋ねた。同棲を始めてから五年になる二人のもとに、年賀葉書とダイレクトメール以外に初めて送られてきた郵便物、それが区役所の福祉課による差出であることに得体の知れない不安を感じていた。宛名は小沢貴志となっている。何かの間違いではなさそうだ。

 「親父が生活保護を申請したみたいだ」

 そう、ため息をつき、その封書を投げるようにローテーブルに置いた。

 「えっ? 貴志のお父さんが?」

 全く予期していなかったのだろう。美幸は声をうわずらせて驚いていた。

 「えっ? でも、だって、貴志とお父さんって……」

 言葉は詰まらせていたが、美幸の言いたいことはよくわかっていた。なぜ、いまさら、区役所が父親の近況をわざわざ貴志に伝える必要があるのか、ということだろう。そしてそれはそのまま貴志自身の疑問でもあった。

 父親とは十数年間会ってもいなかった。連絡先も住所も消息さえも知らない状況だったし、知ろうとすら思わなかった。もっと言えば、三歳の時に両親は離婚をして、籍は母方にある。名字も違うし、父親は父親で再婚をして新たな家庭を築いたはずだ。生活保護を申請したからといって、いくら役所であっても今更父親との関係をほじくり返す道理はない。

 けれどもその封書にはそんな「普通の道理」などお見通しだと言わんばかりに、「お上の道理」が一方的に綴られていた。

 要約すれば、生活保護の申請を受けはしたが、国が金の工面をする前になぜおまえが面倒を見ないのだ。おまえらの家族間の細かな事情は知らないが法律的には親族なのだから、まずおまえが面倒を見るべきではないのか。

 そんな、乱暴な論理が丁寧に、恭しく書かれてある。

 美幸とは籍を入れていないとはいえ、五年も同棲をし、ゆくゆくは結婚を考えている相手だった。家庭の事情は話してあるとはいっても、決して多いとはいえない稼ぎが更に減る可能性を、できることなら伏せておきたかった。

 「まあ、俺たちには関係のない話だけど、このまま放って置くのも気持ち悪いから。今度の休みにちょっと地元に帰ってみるよ。気になることもあるし」

 扶養の義務については美幸に黙ったまま、さりげなく通知書をポケットにしまい込んだ。

 「心配することはないよ。こういうのは事務的に送られてくるものだから。俺たちには関係ない。さあ、メシにしようよ。腹減らない? 何か作るよ。お米、研いでおいてくれないかな」

 俺たちには関係ない。繰り返した言葉は美幸に対してというよりも、自分自身に言い聞かせているようであった。


 母親と父親の間でどんな取り決めが交わされたのかは分からない。ただ、貴志は小学校五年生になると、これから毎週、週末と休日を父親のもとで過ごすように言い渡された。結果それは中学を卒業するまで続いた。その間に課せられた仕事は、再婚した父親の家庭における家政婦のような役割だった。まだ幼い腹違いの兄妹の面倒と洗濯と掃除、洗いもの、食事の支度などをする代わりにお金を受け取る。父親の後妻は夜の仕事に、父親自身はほとんど家に寄り付かずどこかで酒を飲んでいるというなかで、わけも分からず思春期の週末を棒に振り続けることになった。

 父親の家庭での五年間で言葉を交わすことはほとんどなかった。というより、父親と顔を合わす機会そのものがあまりなかった。父親は不動産会社を経営し、後妻のために店舗を一軒構えて、後妻は酔客を相手に商売をしていた。夫婦仲は決して良好とは言えず、目の前でつかみ合いの喧嘩をすることもままあった。喧嘩の後は決まって父親は家を出、残った後妻は貴志に辛くあたるのが常であった。そしてそれを見ていた腹違いの兄妹も幼いながらに馬鹿にして、面倒を見る貴志の言うことを全く聞かないという有り様だった。貴志は家族の和を乱す闖入者として白眼視され続け、それを助けるわけでもなくただ黙殺をし続ける父親にひどく失望をしていた。

 それでも何とか父親のもとに通い続けることができたのは、件の金を貰えるという事実が彼を支えていたからだ。自分の我慢が微力ながらに家計を助けている。そう考えると強いられた理不尽も飲み込むことができるのだった。貴志が、あの金はいわゆる養育費であって、彼の労働いかんに関係なく与えられる性質のものであることを知るのはずっと後のことだった。


 休日を迎え、重い心うちのまま実家に帰省をする。例の通知文について母親にことの事情と父親の居所を問うつもりでいた。案の定と言うべきか、ろくな話を聞かされなかった。

 「あんたには黙ってたけどね、あの人は本当に駄目な人間なのよ」

 クズと言ってもいい、母親は吐き捨てるように語った。

 いわく、父親は博打性の高い信用取引に手を染め、負けが込むと生活費ばかりか会社の金まで注ぎ込み始め、やがて己の裁量を遥かに超えた取引に失敗をし、全てを失ったばかりか多額の負債をも抱えてしまったらしい。貴志が中学を卒業した頃のことだ。

 「家も車も何もかも差押えられてさ。あんたの養育費も払えなくなったばっかりか、あたしに金を貸してくれって泣きついてきてね。あたしだけじゃなくて、あんたのおじいちゃんのところまで金を借りに行ったんだから、開いた口が塞がんないよ。羽振りの良い暮らしをしてさ、向こうのガキにはいい思いをさせてさ、あの馬鹿女には店だって持たせてさ、それでも人間ああなったらおしまいだよ。それっきりあたしも連絡を取ってもないけどね」

 そう語る母親も、生活費の多くを貴志の仕送りによって賄っている。

 「あんた、あの人に関わるんじゃないよ。ろくなことにはならないからね。そんな通知書なんて放っておけばいいのよ。あんた、あの人に何もしてもらってないでしょ? 扶養の義務だか何だか知らないけどさ、そんなことは馬鹿女のガキにやらせておけばいいのよ。綺麗ごとだけじゃね、人間腹は膨れないってことよ。わかった?」

 結局、父親の居所は母親も知らず、日を改めて区役所に赴き問い合わせることにした。

「関わるとろくなことにはならない」

 居所を知った時、母親の言葉がどこか予言めいて思い出された。


 「電話をした、小沢貴志と申します。こちらでお世話になっている伊藤正雄の息子にあたります」

 「息子にあたります」という表現が不自然に感じられはしたが、貴志にはどうしても「息子です」と言い切ることができなかった。

 父親はI総合病院という地元では有名な病院に入院していた。有名である理由は、市内で唯一閉鎖病棟を有する病院であるからだ。たまに聞いた噂話で「誰々さん、I病院に入院したんだって」というのは、つまるところ重度の精神病を患ったということを表している。その病院にいま、父親がいる。

 「小沢様ですね。お待ちしておりました」

 受付の女性は丁寧に言葉を返したあと、申し訳なさそうな表情をつくり話を続けた。

 「それで、申し上げにくいんですが、電話でもお話ししたとおり……」

 「うかがっております。大変ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。入院費の滞納分は今日全額お支払いするよう、用意して参りましたので。本当に不義理なことをいたしまして……何と申し上げたらいいのか……」

 平身低頭に謝罪をすると、受付は慌てて制した。

 「いえいえ、事情はお伺いしておりますし、常識的に考えても小沢様にこんなことを申し上げるのもどうかと思いますが……あなたの弟さんにあたる方でしたっけ? 秀夫様がお父様をここに連れて来られたきり、来院しないばかりか、その、督促にも応じて頂けない状況でして……」

 「重ねて、申し訳ありません。今後、費用に関しては私が責任を持ちますので。誠に申し訳ありませんでした」

 貴志は再び恭しく頭を下げた。知らなかったとはいえ、労働の対価を支払わないという最低の行為が放置されていたことに怒りを覚えた。

 平謝りに謝ったあと、受付で会計を済ませナースの案内のもと父親の居る病室へと向かった。

 「お父様が一度脳卒中で倒れられたことはご存知で?」

 病室に向かう途中、ナースは簡単に現状を説明した。いいえ、と答えると、振り向きもせず歩きながら話を続ける。

 「後遺症で半身不随になっています。ろれつも回らないので言葉が少し聴き取りにくいかもしれません」

 そうですか、とだけ返した。説明は続く。

 「それと認知症を患っていらっしゃいます。正常な反応と痴呆状態を不定期に繰り返しているといった状況です。いまが小沢様のことを認識できる状態かどうかは正直分かりません」

 ナースは返事を待たずに続けた。

 「状況によってはこちらの判断で面会を中断させていただくこともあります。また、正常な状態であっても面会時間は20分程度になることをご了承ください」

 わかりました、そう答えた。自分でも素っ気ないと感じてはいたが、他の答え方がわからなかった。正直にいえば自分の気持ち自体、どうあるべきか、そこが定かでなかった。心配していると言えば違う気がするし、ここに来た以上は他人ごとというわけにもいかない。

 ナースが他の細かな約束事を説明している間も、どこかうわの空で返事を返していた。自分はなぜここに来たのであろう、放っておけば放っておけたかも知れない不穏な世界に、なぜ自ら足を踏み入れてしまったのであろう、そんなことばかりを考えていた。「関わるとろくなことにならない」母親の予言は早速「滞納分の支払い」というかたちで的中した。それでもなお、ナースの言葉を聞きながら一歩一歩いま父親に近付いている。

 貴志はその理由があの通知書の最後に書かれた一文にあると考えていた。きっと知りたかったのだ、あの一文の意味を。突然送られてきた区役所からの通知書。乱暴とも取れる一方的な主張。それでも面会に突き動かしたのは他でもない、締めくくりに書かれたあの一文だった。


--伊藤正雄さんは、あなたの父親です--


 ナースは鉄格子付きの重そうな扉を解錠し、開けて部屋に入って行く。後に続くとこぢんまりとした部屋にベッドが四つ置かれてある。一般的に見る相部屋の病室のように、カーテンによる仕切りはなく、それぞれのベッドをそれぞれに老人が、まるで胎児のようにうずくまって寝ているのが見えた。監視用だろうか、天井の隅に二台カメラが据えてある。並べて寝かされている新生児を見て、どれが自分の子であるかわからない親のように、この老人たちのどれが自分の父親なのか全く分からなかった。正確な年齢に覚えはないが、父親はせいぜい六十半ばくらいなはずだ。けれども、ここに寝ている老人たちはどう見ても八十を超えているようにしか見えない。言い過ぎれば、ご遺体といわれても納得がいくように見えた。


 「正雄さーん。息子さんが来てくれましたよー!」

 奥から二番目の老人にナースが声をかける。老人は聞こえてないようにピクリとも動かない。あれが父親なのだろう。声を掛けようと近づきその姿を見て愕然とした。

 貴志の記憶に残る父親の肖像、その面影がまったくといっていいほど探せなかった。身体は貴志の知る頃から比べ半分ほどに縮まり、痩せこけしわだらけだ。まるで体毛を毟られたニホンザルのようにみすぼらしく、弱々しい。伸び放題に伸びた鼻毛と眉毛には白毛がまざり、虚ろな瞳はたまに動くことでかろうじて生きていることを主張しているようにみえた。

 「外には出られませんが、多目的室までは車椅子で行けます。そちらでお話しされてはいかがですか?」

 お願いします、と言うとナースは父親を起こし、手際良く車椅子に座らせ、多目的室まで案内をした。

 「それでは、時間になりましたらまたお声掛けしますので、ゆっくりお話してくださいね」

 そう残し、ナースは足早に多目的室を出ていった。

 多目的室には他の患者も数名いて、思ったよりはずっと賑わっていた。見れば脇には購買もある。相変わらず窓と出入り口には鉄格子が施され、ここが閉鎖病棟であることを否応なしに思い出させた。

 「お久しぶりです。貴志です。覚えてますか?」

 少しためらったあと、車椅子の背中越しに声を掛けると、あー、とだけ返事が返ってきた。そもそも覚えてないのか、声が意味を成すものとして届いていないのか判然としない。

 「ヒデやしおりは元気にしてる?」

 再び貴志がそう問いかけると、また、あー、とだけ返ってくる。すると、今度は父親のほうから何かを話かけてきた。

「アイフ」

「えっ?なんて?」

「アイフたへたい」

「アイスクリームが食べたいの?」

「あー」

 欲望だけは上手に伝えるんだな、半ば呆れながら、購買でアイスクリームを父親に買い与えた。

 自分はなぜここに来たのだろう。別に感動的な再会を期待していたわけではない。そうなるには余りにも足りなすぎる。共に過ごした時間。交わされたことば。お互いの思い出。

 そもそも、ろくに話すこともできず、完膚なきまで面影が損なわれた老人を「父親」ですと差し出すなら、そこら辺で老人を拾っておいて「お父さん」と呼ぶほうがずっとましではないか。

 貴志はこころの内に黒い塊のようなものが少しずつ広がっていくのを感じた。それが、自分を覚えていないことへの失望なのか憎しみなのかは判らない。ただ、この老人を傷つけたい。明確にそう思った。

 「入院費、滞納してるんだってな。どうした、ヒデやしおりは払ってくれねえのか、あんなに可愛いがってたじゃねえか、俺の目の前でな」

 貴志は語気を強めて話し始めた。また、あー、とだけ返ってくる。

 「まるで姥捨山だな。あの女はどうした? 金がなくなって逃げられたか。ほら、あの女だよ。気に入らないことがあると理由もなく俺を殴ってくれたあの女だよ。ははっ。あんたは飲んだくれてたから知らねえか」

 話し始めると自制が効かなくなっていた。

 「あんたらのおかげで料理がうまくなったことだけは感謝してるよ。ただ、いまだにコメだけは炊けねえんだ。ご飯が固いだ柔らかいだで殴られたことを思い出すからな。

 俺も大人になったからわかるよ。あのときなんで俺が毎週あんたのところへ行かなければならなかったか。多分こうだろう。おふくろは新しい男ができて週末はそいつと過ごしたかった。ちょろちょろ出入りしてたからなんとなくそう思ってたよ。

 あんたはあんたで週末の夜、飲みに出かけるのにガキのお守りが必要だった。女でも囲ってやがったか? あの女も、胸糞が悪いと思いながらも家事をやらせておけば少しは楽になるし、俺をいびることで優越感に浸れるしな、どうだ、そんなところなんだろう?」

 少しずつ激しくなる口調を止めることができなかった。父親は変わらず、あー、とだけ返してくる。

 「なあ、親父よ、教えてくれ。俺がどんな気持ちでいたかおまえにわかるか? 友達が遊んでいるときに、あの女のおりものが着いたくそ汚ねえ下着を手洗いさせられてたんだぜ? 俺がどんな思いでいたのかおまえにわかるか? 友達の誘いを断り続け、友達から誘いもされなくなった時、俺がどんな思いでいたのか、おまえにはわかるというのか? くそくだらねえ、おまえら大人たちの都合のために、俺が犠牲にしなければならなかったものがどれだけたくさんあったか、おまえらは考えてもみなかったというのか?」

 「滞納分、俺が払ってやったよ。そのアイスも俺が買ってやったんだぜ。覚えてもいないあんたの息子が金を払ってやったんだ。美幸は……彼女は、実家に帰って行ったよ。あんたのこと、正直に話したんだ。勝手に金をおろすわけにはいかねえからな。なんで、そこまでしてあげないといけないの? いったいいつまで続くの? ってな。喧嘩になったよ。そりゃそうだ。母親だけでなく、父親にも金をたかられるんだからな、愛想つかされてもおかしくねえわな」

 あー、とだけ、また父親は言った。いったい誰に話しかけているのか、わからなくなっていた。父親かもしれない。母親かもしれない。自分自身かもしれない。あるいは、あの頃の自分に対して話しかけているのかもしれない。

 「何とか言ったらどうなんだ! あー、ばかりじゃなくてよお! おまえはいったいなんなんだ? やっと普通に暮らせると思ってたのに! 普通! 凡庸! 当たり前! そんなものを手に入れるために俺がどれだけ努力をしてきたことか! 俺はいったい……」

 「小沢さん、もうその位にしておきましょうか」

 貴志の剣幕を誰かがナースに伝えたのだろう、二十分にはまだ早いタイミングでナースが面会の終わりを告げに来た。

 「お気持ちはわかりますが、もうそろそろ……」

 ナースは貴志の変わりように驚いている様子だった。

 「すみません、感情的になってしまって……もうひとつだけ……お願いします」

 そう言い、父親に最後の質問を投げ掛けた。

 「親父、日本に自動車メーカーは二つしかない。何と何だかわかるか?」

 今度は、あー、とさえ返ってこなかった。貴志は最初から答えなど期待もしてなかったかのようにため息をついて、車椅子を押し始める。

 「とよらと、ほのら、ら」

 不意に父親の口から答えが返ってきた。


 訃報を知ったのは意外な形だった。

初めての面会をした翌月の休日、入院費の支払いと面会の申し出のために病院に電話をすると、受付はひどく驚いた様子だった。

 「ご連絡、行ってなかったんですか? 伊藤様は先週肺炎の為、お亡くなりになりましたよ。秀夫様にはちゃんとご連絡させていただいたのに……」

 「そうでしたか、いろいろとご迷惑をおかけしました」

 受付は何かを言っていたようだったがそのまま電話を切った。誰かが情報を止めたのであろう。母親か。秀夫か。身体の力が抜けていくのを感じた。

 突然予定が無くなった休日をどう過ごせばいいかわからなかった。美幸に電話をしようとも考えたが、最後の番号を押すところで、やはりやめておこうと思った。

 ろくなことにはならない。確かにそうだった。けれども不思議と貴志は後悔を感じていなかった。

 酒が飲みたくなってコンビニへビールを買いに行く。家に帰る気になれず、近くの公園で飲むことにした。ベンチに腰掛けてビールを開ける。昼前の広場を親子がキャッチボールをしているのが目に入った。小学校低学年くらいだろうか。男の子とそのお父さんがボールを投げ合っている。楽しげに声をあげて、たまにボールを逸らせて。

 あの時、確かに父親は「トヨタとその他」と答えたはずだ。貴志はそう考えていた。全て届いていたのだろうか。全て理解したうえで、あー、と話を聞いていたのだろうか。そもそも、子供の頃の会話を覚えていたということなのか。自分はなぜあんなに激しく言葉を投げつけたのだろう。憎むことで繋がりたかったというのか。父親は父親でずっと悔いていたのだろうか。許されないことで許しを請うていたのだろうか。

 男の子が勢いよくボールを投げている。まるで自分の力を誇示するかのように、認めて欲しいかのように、力いっぱい彼のお父さんに向かって投げ込んでいる。その暴投気味のボールを、おーい、と笑いながらお父さんは受けとめている。貴志はビールを飲み干しそして考えていた。

 あの日、父親は言葉をうまく投げられなかったのかもしれない。子供だった自分もうまく受けられなかった。父親は、自分が受けられず逸らしてしまったボールを探し続けていたのだろう。気がつけば投げ返す相手を見失い、ずっと後悔を抱えていたのだ。

 貴志は再び携帯電話を手にした。美幸と話をしようと考えていた。思いは混乱し、うまく伝えられるような気がしなかった。けれども、まだ、繋がっている。例え触れれば切れてしまいそうな、細い糸であったとしても、繋がってさえいればまた、辿ることもできるのだ。

 

 


 

 

 


 

 

















 

 





 













 

 

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