契約

 深夜0時近く、ストーブのスイッチを切った。不快な灯油の臭いが一瞬して、すぐに音はやんだ。それから、部屋中あらゆる電化製品の電源を落とす。大きな窓から差し込む微かな街灯の灯りがかろうじて机の上を照らすだけの、静かな闇に包まれる。大きく息を吸い込んで、吐く。さっきストーブを消したばかりだというのに、かすかに足元はもう冷えてきた。思いつめるように瞼を何度か伏せてから、指が、下着の中の赤くぬめる秘部に触れる。紅はこれまで自慰の経験がなく、風呂以外でそこに触れるのは初めてであった。ゆっくりと陰核の上を滑り、膣口に到達する。たっぷりと経血を指に纏わりつかせ、寝間着に着かないよう慎重に手を抜いて、白い紙の上にのせた。月経の血を用いて魔法陣を描く、なんて悪魔をよびだすみたいだ。それにしてもなんて悪趣味な。生臭い鉄の臭いに鼻孔を犯されながら、円を描き、ひとつひとつ文字を記し、また指を膣に潜り込ませる。冷えた指が、ぬるぬるした暖かい粘膜に包まれる感覚も、冷たい異物に反応して穴が収縮するのも、不思議な感覚だった。二十分もかかってようやく魔法陣を書き上げて、除菌ティッシュで指と机を綺麗にぬぐい、紙を持って窓を開けた。鬼が出るか蛇が出るか、とても題名にあった恋愛の天使なんてものは、こんな儀式ではこないだろう。張り詰めた寒さと切り裂かれそうな風に顔をしかめながら、紅は最後までためらいながら、紙を夜空に向かって放り投げた。風にさらわれた紙は舞い上がり、浮いたまま落ちてはこなかった。薄く雲がかかった月あかりを遮るように、魔法陣が赤い光を放ち始めた。目を細めながら見ていると、赤い光は球体になり、大きさと眩しさを増していく。そして光が収束した時、そこには確かに天使がいた。宙に浮く人型の生き物。あたりには糸で釣れそうな場所なんてない。霞む月を背後に、羽のシルエットが見える。それは音もなく窓に近づき、紅に話しかけてきた。甘い、でも抑揚のない無機質な声。

「こんばんは。ああ、どうか大きな声はださないで。」

紅は固まったまま動かないでいると、それは窮屈そうに身を屈めながら窓から入ってきて、部屋に降り立った。紅からは見上げるほどに長身で、羽も相まって、目の前に立たれるとひどく圧迫感がある。平らな胸と、華奢で長い手足と細い腰を、黒い得体のしれない素材で包んでおり、体形からも声からも性別はわからない。顔はといえば、目元を黒いベールで覆ってしまっていて、とおった鼻筋と、薄く微笑む唇だけが見える。わずかに手や顔の下半分から見える皮膚は、恐ろしいほど真っ白で、いやに滑らかだ。人の形を模した、人でない生き物。ひどく不気味な印象を受けたが、背中に生える羽を見る限り、きっと天使なのだろう。それの頭の先からつま先までを何度も何度もみながら、紅は恐怖を押し殺して、それに話しかける。

「あなたが恋の天使なの?」

必死に気丈にふるまってはいるが、声はちいさく震えていた。ええ、そうですよ、と愛想よく答えて、それは揚々と自己紹介を始める。

「私は恋の天使イフ。あなたの召喚に応えて参上しました。」

イフは、とても優雅な動きで一礼した。ひと舐め、紅の赤い舌がその唇を舐める。緊張のせいか、乾ききっていた。

「それで、あなたがなにをしてくれるっていうの?」

プライドの高さが、得体の知れない生き物への媚を許さない。必死に胸を張り、つんとすまし、こちらの上位を保とうとする。少女の悲しき虚勢は、触れれば壊れるガラス細工のようだったが、天使はむざむざそれを壊すようなことはしなかった。

「私があなたの恋を叶えてさしあげましょう。」

「じゃあ、高峯先輩と付き合いたいのよ。彼にふさわしいのは私だわ。できる?」

畳み掛けるように紅が言う。イフは少し呆れたように笑った。

「この世界では無理ですね。」

紅の顔色がかわる。眉間にしわがより、口元が引きつった。

「でも、どこかにはあなたとタカミネ先輩が付き合っている世界があるかもしれません。」

随分と回りくどくお喋りをするそれに、痺れを切らして声を荒らげる。

「だから、何が言いたいの?じゃあ私が高峯先輩と付き合っている世界に連れて行ってよ!」

「あら、話が早い。そうです、私は『もし』の世界に連れて行って」

「もし、高峯先輩が私の彼氏だったら!」

高い声がイフの説明を遮った。さぁできるでしょと矢継ぎ早に言葉を紡ごうとする口は、白い手に抑えられた。ぎり、と顎を掴むイフの手に力が入り、紅の瞳に怯えがまじる。あまりに冷たく、生気を感じない指に、容赦なく込められる力。

「お話は最後まで聞きましょうね。私は他の人間には干渉できないのですよ。だから、あなたに自分で考えていただかないと。」

どんな自分なら先輩と付き合えるか。私に足りないもの、何が足りない?家柄か、お金か、歳か、それとも……

「ただし、三つまでですよ。よく考えてくださいね。」

そう言うと、イフは紅を解放した。荒く呼吸をする。頬に食い込んだ指の感覚が残っていて、ぞっとした。改めて、この生き物への恐怖を感じる。甘い声で人の言葉を操り、願いを叶えてくれるというが、なにを考えているかわからない人ならざるもの。しかしこれはまたとないチャンスであることもたしかだった。嘘みたいなことばっかりだが、天使の能力は本当のようだ。恋を叶えるには絶好の機会。しばらく黙りこくったまま、床とイフを交互に見ていたが、とうとう口を開いた。

「三つ叶えたあとの代償は?」

慎ましくとじられていたイフの唇が弧を描く。

「あなたの死後の魂は私のものです。でも、寿命はまっとうできますよ。」

「それならいいわ。契約しましょ。」

紅があやしく笑った。自信と企みを秘めたような笑み。イフはそれを意に介さず、小指を差し出し、紅の小指を絡めとった。絡みつく白い小指は、それ自体がひとつの生き物のようでぎゅっと締め付けてくる。あとは軽く上下に揺すって、それで終わった。

「もうおわり?血でもとるのかと思った。」

召喚時にいただいてますから、とイフが紅の下腹部を指さして含み笑うと、滲むように羞恥を感じ、紅の頬に赤みが指した。

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ME まっしゅ @KinokoLove0803

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