4.おれ
茶色の包み紙を開いた。中に入っていたのは藍色の布のペンケースで、小さなメッセージカードが添えられていた。歌子の細かい字で書かれた文面を、何度も読んだ。
「誕生日おめでとう。総一郎が幸せでありますように。大好き!」
幸せでありますように――。あのときもそんなことを言っていた。でも、おれは歌子を振り払った。心の奥の踏み込まれたくない部分に、足を踏み入れられた気がした。誰も踏もうとしなかった、おれが踏み込ませなかった場所に、足跡がつけられていた。不快感と、動揺があった。歌子であっても、それは何だか怖かった。
ペンケースを袋に戻し、机の引き出しに放り込んだ。それからまたベッドに戻り、本を手に取った。本は、昨日まで面白かった。出かける直前まで読んでいたのだ。けれど、全く面白くなくなっていた。おれの気分が原因なのは確かだった。
起き上がり、支度をした。部屋を出ると、父親が洗濯物を優二と一緒にソファーで畳んでいた。今日の洗濯当番は父親と優二だった。掃除当番はおれで、朝に済ませていた。朝食は、二人が起きる前に三人分作って一人で食べた。昼食は、父親が仕事の関係で出かけたので、おれと優二で落ち着いて食べることができた。
「総一郎。出かけるのか」
父親が訊いた。おれはうなずいた。
「学校に行ってくる。文化祭のクラスの出し物とか、書道部での展示物とか、あるから」
父親は、そうか、とうなずいた。
「洗濯物、お前の分はドアの前に置いておくよ」
「うん」
おれはやっぱり、目を合わせることができなかった。
「兄ちゃん、行ってらっしゃい」
優二が手を振った。おれはようやく、笑った。
*
文庫本をめくり、自分に向いた文章を探す。漢詩に決まりそうだった。ケイ先輩は、和歌にするらしい。
「こう、きれいな紙に書き散らしたみたいな、かっこいい感じにしたいんだ」
崩し字の得意なケイ先輩には向いているだろう。額田王の和歌を集めて大きな紙に書きたいのだという。
「ソウは、びっしり書くのが向いてると思う。孟浩然のこれか、杜甫のこれがいいと思うんだけど」
本を持ってきて見せてくれる。どちらかというと、杜甫が気に入った。ケイ先輩は、漢詩に詳しい。当然だけれど。
結局、杜甫の七言古詩に決まった。勇ましい戦馬の詩だ。書体は、隷書だ。あまり慣れていないので、しばらく練習しないといけない。
本を見つめていると、ケイ先輩が「あれ」と声を上げた。机の上のおれの荷物を見ている。
「ペンケース変えた?」
「……はい」
「おしゃれだね、君にしては」
ケイ先輩は笑った。おれも、曖昧に笑った。ペンケースは、歌子にもらったものに替えていた。しまっておくなんて、できなかった。
*
書道部の部室を出て、ついでのように教室に寄る。文化祭の準備が、ここでもされていた。うちのクラスは女子が中心になって劇をするらしく、男子はほとんど裏方だ。おれは大道具係を任せられていたが、参加の仕方はいい加減なものだった。岸はおれと同じ大道具係だ。劇に駆り出されそうになったが、話し合いが続いたあと、男子は一人も出さなくていいことになり、少しがっかりしていた。
岸はぼんやりしていた。段ボールの箱と大きなカッターナイフを持ったまま、動かない。危ないので、声をかける。びくりと肩を揺らし、おれを見る。
「大丈夫か?」
岸はかすかに笑い、「大丈夫じゃないよ」とかすれた声で言った。いつもの調子を出そうとしたのにできなかった、という感じだった。
「大丈夫じゃないけど、何となくわかってきたよ」
「何が?」
岸は考えながらこう言った。
「おれが雨宮のためにできること」
振られたのに、まだ何かしたいと思っているようだ。それだけ好きなんだろう。
雨宮は、どこにいるのか、今日は来ていないのか、いなかった。
「それよりお前のほうが大丈夫かよ」
「何が?」
目を逸らして訊くと、岸はこう言った。
「町田、元気ないよ」
胸が痛んだ。でも、許そうという気にならなかった。けれど、そもそも、おれが許すとか許さないとかいう話なのだろうか。彼女はそんなに悪いことをしたのだろうか。
「さっき会ってさ、目が腫れてた。あれ、泣いてたんだよ、昨日」
歌子が泣きそうだった、あのときを思い出す。
「おれと歩いてたときは泣いてなかった。我慢してたんだと思う。なあ、篠原……」
「簡単にできないんだよ」
おれは、ぽつりと言った。
「他人を、自分の中に入れるなんてこと、今は簡単にできないんだ」
岸は黙った。それからまた手元を見て、作業を始めた。
「何かさ」岸が小さな声で言う。「難しいね、色々」
おれは、うなずかずに黙っていた。難しくしているのは、おれ自身だった。
*
蝉が鳴いている。夏真っ盛りの暑苦しい蝉だ。うるさい。おまけに、暑い。
廊下を歩いていて、歌子に会った。胸が騒いだ。どうしよう。声をかけて、あれは何でもなかったんだと言うべきだろうか。ごめん、許して、おれが悪かった。そう言えばいいのか。
歌子は本当に目が腫れていて、痛々しいくらいだった。おれを見て、悲しそうに、でも期待したように目を真っ直ぐに向けてくる。
気づけば身を翻していた。歌子が「あ」とつぶやくのが聞こえた。痛かった。体中が。大事なものを、自分で引き剥がしている気分だった。泣きそうになった。
足元にひれ伏して、許しを請いたい。ごめん、おれが悪いんだ。単に、おれが駄目で。おれが、不完全な人間だから――。でも、プライドがそうさせない。おれの中に踏み込んだ歌子を、許すことができない。
「歌子、行こう」
後ろから、雨宮の声がした。おれを非難する声だった。歌子は無言で、雨宮とどこかに行ったようだ。ほっとして、次に罪悪感で崩れ落ちそうになった。おれの、大切なもの。引き剥がしてはいけないもの。
本当に、おれは最低だ。
*
運動部は入っていないし、学校での夏期講習には参加していない。だから、部活の朝練の時間帯である早朝も、そのあとの夏期講習の時間も、おれは学校にいない。けれど、今日は部活の時間に学校にいた。正直、夏休みだけでも学校から逃れたかった。歌子に会って、傷つけてしまうから。なのに第二体育館にいた。もうすぐ部活終わりだ。おれは、金森教頭を待っていた。呼び出されたのだ。第二体育館は、剣道部の活動場所だ。
掛け声、摺り足、竹刀を振る音、腕や脚や、全身の筋肉が働く感覚――。剣道部が出す音は体育館の外まではっきりと聞こえてきて、様々なことを思い出せる。胸に痛みが起こる。母親が熱心にさせていた剣道。大会でおれを応援に来た、母親。最期が近いころには、帽子を被って、化粧っ気のない青ざめた顔で――。
部活が終わり、剣道部ががやがやと出てくる。岸がいた。佐々木に、内村、和田、山田。中学のときの剣道の仲間も。おれに構い続けてくれた、信じてくれた、友人たち。
「あれ、篠原!」
和田が声を上げた。おれは手を上げて挨拶をした。
「何でここにいるの?」
内村が訊く。金森教頭に呼び出されたことを言うと、彼らはめいめいに腕を組んだり顔に手をやったりして考え込んだ。
「金森先生、お前にご執心だからなあ。無理矢理入部届とか出させなきゃいいけど」
佐々木がうなった。
「先生も強引だからな。こうと決めたら絶対に諦めないから……」
山田がため息をつく。
「でも、ここに来たってことは、お前も嫌な気分じゃないんだろ?」
岸が、言った。他の四人は、しんとなった。岸は、おれの目を見ていた。おれに、踏み込もうとしていた。おれは、頑なになりそうになった。でも、とっさのことでできなかった。
「……わからない」
「なら、金森教頭にはっきり言えよ。自分のしたいこと」
岸ははっきりした声でおれに言った。おれが怒ることはなかった。岸が言うことはもっともだと思った。ずっと誤魔化し続けてきたのだ。はっきり言わないと。
でも、何を?
じゃあな、と五人は他の剣道部員と共に校舎に向かった。おれは一人、第二体育館の前にいた。蝉の声が直接聞こえてくる。日差しは、朝とはいえ強い。汗がだらだら流れてくる。ようやく決意し、体育館の中に入った。
「おお、篠原」
金森教頭は、白い髪を乱していた。口ひげは相変わらず、整然としている。紺色の稽古着を着た教頭の身長は、おれの肩ほどしかない。なのに、大きく見えた。
体育館は、汗の匂いがした。そのせいか、熱気を感じた。涼しいはずなのに。ここで練習していた岸たちの熱気が、そうさせているのか。
「今度、大会があるんだ。部員一同練習に励んでてな」
教頭は痩せた体を伸ばし、姿勢よく立っていた。手には、竹刀。突然、差し出される。
「握ってみろ」
「え」
「さあ」
おれは、竹刀を受け取った。両手で。とても軽かった。記憶よりもずっと。それから、しっかりと持ち手を握った。白い布で包まれたこの部分は、おれの竹刀と一緒で、年季が入って汚れていた。
「振ってみろ」
動揺した。抗議しようとしたが、できなかった。「どうして竹刀を振るくらいのことを嫌がるんだ?」と言われても、答えられないからだ。
渋々、構えた。足に力を入れ、腰を据える。段々気持ちが入って来るのに気づいた。顔つきが変わるのも、わかった。
勢いよく、竹刀を振った。二度、三度。心が無になっていく。色々な雑念が、消えていく。
終わったときには、息が上がっていた。教頭は、うん、とうなずいた。
「やはり筋がいいな」
おれは無言で教頭を見ていた。
「剣道は好きだろう?」
やはり、黙った。
「お前は、向いてるよ」
うつむく。そこに、一枚の紙が差し出された。
「入部届だ。今出してもいいし、永遠に出さなくてもいい」
お前次第だよ、と教頭は言った。おれは、その紙をずっと見つめていた。
*
押し入れから、剣道具を一式出した。防具や剣道着は、もう体に合わないものもあるだろう。でも、ひどく懐かしく、机に頬杖をついていつまでも見つめた。
剣道を今更するとして、家事や、家族への相談はどうすればいいのか。ずっと母親に相談していた。剣道は金がかかるから。家事は、分担している。でも、働いている父親や学校に通うおれが何とかこなしてきたのだ。そう簡単に、時間と体力を使う部活をできるようになるとは、思えない。
「総一郎」
ドアの音と、父親の声。おれはびくっと体を起こした。父親は、洗濯物を持っていた。畳み終わったので、持ってきたのだろう。
「剣道、やるのか」
父親は、ベッドの前に置いた剣道具を見ていた。おれは、カッとなって立ち上がった。
「勝手に入ってくるなよ!」
思わず荒い声が出た。父親は、おれをじっと見た。
「ノックはした」
「いいから出てけよ」
「剣道やるなら……」
「やらねえよ!」
父親を、部屋から押し出そうとした。けれど、動こうとしない。
「何なんだよ」
声が荒々しくなっていく。隠していた、抑えていた自分。
「何なんだよ。歌子に変なこと言ったり、剣道のことでまで何か言ってさあ。あんた何のつもりだよ」
「おれは」
「急に父親ぶりやがって。母さんがいたころは、父親らしいことなんて一度もしなかったくせに。遅いんだよ!」
溢れてくる。止まらない。懸命にせき止めようとしているのに。怒りが、止まらない。誰が悪いのか、わかっているのに。
「今更、遅いんだよ。もう遅いんだよ!」
母親の顔を思い出す。笑っているときの顔。おれが反抗して無視しても、わざと陽気に振舞ったときの顔。そうだ。遅い。何もかも、遅いんだ。
「……おれは、駄目な父親かもしれない。母さんにも、お前にも、充分な人間じゃなかったかもしれない」
ハッとする。父親は、口を真一文字にして、涙をこらえている。
「でも、おれは、お前幸せになってほしいと、ずっと思っていたし、今も思ってるよ」
真剣な顔をしていた。鼻をすすり、身を翻す。そして、部屋を出ていった。
おれは、茫然としていた。ベッドにどすんと座る。床をじっと見つめる。
携帯電話がバイブレーションで鳴った。見ると、歌子からだった。慌ててメッセージを開くと、絵文字も顔文字もない文章に、ただこう書いてあった。
「わたしたち、別れちゃうの?」
そうじゃないんだ。そうじゃなくて……。おれは、頭を抱えた。もう、どうすればいいのか、わからなかった。
*
夕方に部屋を出て、料理をした。優二はまとわりついてこなかった。多分、さっきの父親とのやり取りを聞かれていた。風呂掃除してくる、とおれから逃げた。
今日は、オムライスだった。優二の好きな。具がたくさん入ったスープをつけて、テーブルに並べる。三人分。
父親が帰ってきた。散歩に出ていたのだろう。「オムライスか」とつぶやき、そのあとは黙った。
優二が風呂掃除から戻り、「風呂のスイッチ入れたよ」と言う。オムライスだと気づくと、少し気分のいい顔をした。
三人でダイニングのテーブルに座った。去年までは、母親がテーブルとくっつけられたカウンターの向こうに立っていて、自分も座ればいいのに料理を次々持ってきたものだ。今は、そういうこともない。無言だったが、優二が「いただきます」を言い、おれと父親も声を揃えた。
「総一郎は、料理がうまいな」
父親が、ぽつりと言った。おれは、何も言わずに聞いている。
「こんなに上手になるとは思わなかった。おれは、未だに駄目だ」
「……父さんの味噌汁、おいしいと思うよ」
おれは、そっと応えた。おれは今まで、食卓を囲んだときはほとんど無口だった。少し、勇気が要った。父親は驚いたように顔を上げた。優二も、おれをじっと横から見ている。
「さっきはごめん」
やっと、謝ることができた。父親は、おれを見つめて箸を止めている。
「ずっと溜めてた気持ちが、溢れて、止まらなかった。失礼で、ひどいことを言ったと思う。ごめん。許してほしい」
「いいよ。お前の本音なんだろ?」
父親は、うなずいた。何でもないことであるかのように。
「やっと本音を聞けたんだから、いいことだよ。それにな、総一郎」
父親は、おれを見た。目が合っていた。あまりじっくりと顔を見たことのなかった父親。眼鏡の奥の目は、鏡のおれにそっくりだった。
「遅すぎるってことはないんだ。母さんは、お前にがっかりさせられたり、悲しんだりしてないんだから」
息が止まった。母親の話をされるとは、思っていなかった。
「ただ、お前に感謝してたよ。総一郎がいてくれてよかった。それだけでわたしの人生に価値があるって」
涙が溢れ出した。唇が震える。
「総一郎と優二がいるだけで、母さんは満足だったんだよ」
「じゃあ、母さんはおれのこと、すごく大事だったんだね」
優二が言った。泣き顔を隠しながら、おれは後悔した。優二に対して、おれは何もしてやれなかった。明るく元気な優二だって、辛かったに違いないのに。
「そうだよ。優二も、総一郎も、母さんにとっては大事な存在なんだ」
そう言う父親も、泣いていた。父親は、多分一番後悔していた。仕事漬けで、家庭のことは母親に任せていた時期のことを。だから今、おれたちにこんなにしてくれているのだ。
「さあ、オムライスが冷める」
父親は、鼻をすすってスプーンを持った。
「早く食べよう」
おれたちは、少し冷めた料理を食べ始めた。その間、おしゃべりをした。母さんのこと。父さんは、懐かしそうに話した。おれたちが寝静まったあと、二人でビールやワインを飲みながら話したことを知ったのは、喜びだった。
母さんの話をしたのは、久しぶりだった。歌子に話したときだって、全部は話せなかったのだ。ひどく懐かしく、母さんが亡くなったのだとやっと受け入れ始めた自分に気づいた。多分、最近まで受け入れられていなかった。
食事を終えても、おれたちは母さんの話をした。母さんがいない時間を埋めるように。寝るころには、おれたちはすっきりした顔をしていた。
「おやすみ」
父さんが言った。
「おやすみ」
おれと優二は答えた。
*
教頭のところに行き、入部届を出した。教頭は嬉しそうにうなずいた。おれは、少し笑って「よろしくお願いします」と言った。教頭は「お前の笑顔を初めて見た」と目を丸くした。
職員室から戻るとき、歌子に会った。彼女はおれを見て悲しそうにした。心が揺らいだ。彼女は身を翻し、階段を登ろうとした。
「待って」
おれの声に、歌子は振り向いた。恐る恐る、という様子で、何かを怖がっていた。
「ごめん、歌子」
おれは、頭を下げた。顔を上げると、歌子は目を見開いておれを見下ろしていた。
「おれ、頑固すぎた。歌子のこと、大事なのに突き放した。おれに幸せになってほしいなんて、おれのことをどうでもいいと思ってる人間の言うことじゃないのに。……父親と話した。多分、これからはうまく行くと思う。歌子のお陰だよ。歌子はおれに必要なんだ。だから……許してほしい」
「許してくれるの?」
「許すも何も、おれが全部悪い」
「彼女でいていい?」
彼女は訊くたびに一段ずつ階段を下りてきていた。少しずつ、近づく。おれは答えた。
「もちろん」
最後には一段飛ばしに降りてきて、おれの目の前にやって来た。ほっとしたように、微笑んでいる。
ああ、宝石だ。そう思った。この子はおれの宝石だ。手放しちゃいけない。大切にしなきゃいけない。
たとえ、天変地異が起こっても、だ。
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