3.あの人
夏休みが始まった。歌子は、演劇部の衣装づくりや打ち合わせ、演技の稽古などで忙しくしているようだ。おれも文化祭での書道部の展示のために何か書かなければならないから、時々学校に行っていた。学校で会う彼女は、常にジャージを着てバタバタしていた。
会えるのは日曜日くらいで、コーヒーショップで会ったときは初めて見る半袖の私服を着ていた。去年の夏まではほとんど関わっていなかったのだ。だから彼女の夏の私服を見たことがない。ひらひらした袖の白いブラウスに、ふわっとした長いスカートを合わせていた。ストローでジュースを飲んでいる彼女を見て、思わず立ち止まっていた。彼女が振り向いてにっこり笑うまで、歩くことを忘れていた。
「浴衣買ってもらった!」
歌子はうきうきした様子で報告する。おれはうなずき、彼女をじっと見つめている。
「お母さんがね、久しぶりだからちょっと奮発してあげるって言ってくれて、いいの買ってくれた。デザインが凝っててかわいいんだよ」
「へえ」
想像してみるが、浴衣の柄が思い浮かばない。そもそもおれは女子の浴衣の柄に関して全く無知だ。
「帯はこういう、ちょっとした柄が少し見える感じでー」
「あっ、待って」
思わず大きな声が出た。歌子がきょとんとする。
「何?」
「浴衣は、当日のお楽しみに取っておきたいというか……」
おれの言葉に、歌子はにこにこ笑う。何が嬉しいのだろう。
「わたしの浴衣、そんなに楽しみ?」
歌子のご機嫌な顔に、思わず顔が赤らむ。
「おまけにそんなに慌てるの、初めてじゃない?」
「そう、かな」
顔がますます熱くなっていくのを感じる。いつもこうだ。おれは彼女に翻弄され、いつもは意識しない自分の別の面を見てしまう。彼女は無邪気におれをひっくり返す。何年もそこにあった石ころをひっくり返して日の光に当てるかのように。おれは、すぐに照れる。おれは、自信がない。おれは、……歌子に翻弄されるのが好きだ。
真昼のガラス張りのコーヒーショップで、彼女はにこにこ笑っておれを見ている。この瞬間が、とんでもない奇跡に思える。
*
「花火大会、行ってくる」
優二に言うと、慌てたようにおれにまとわりついてきた。
「えーっ、誰と誰と?」
「岸と、あと歌子と他の友達」
「そうなの? おれも行きたかったなあ。兄ちゃんたちだけで行っちゃうの?」
「うん。ごめんな」
岸が雨宮に告白するというし、歌子と二人きりの時間もできそうだから、優二を連れて行くのはまずそうだ。というか、歌子と二人きりになりたかった。
「町田さんも来るのか」
食事の準備をしていた父親が、キッチンから出てきた。おれは目を合わせずに、「うん」と返す。
「きっと親御さんに送ってもらうんだろうが、それ以外のときは気を遣ってやるんだぞ」
つまり、歌子が痴漢なんかに遭わないようにしてやれと言っているのだろう。それは、わかっていた。でも、鬱陶しい。
「わかった。行ってくる」
おれは固い声で答えた。なおもついてくる優二と話しながら、靴を履く。父親面するなよ、という言葉が喉の奥に出かかっていた。言葉には、今更なんだよ、という言葉も続いていて、言い出すときりがなさそうだった。靴を履き終えて玄関から出たときは、ひどく安堵していた。
*
河川敷を中心に出店が並び、呼び込みの声が響き、食べ物の匂いが漂う。歩行者天国になった街は、賑やかだ。もう、薄い闇が空を覆っている。灯りは充分にあるし、人が見えなくなるほどの暗さじゃない。でも、いつもと違う感じに、皆が興奮していた。ピークとは比べ物にならないと思うが、人の多さが目につく。歌子はこの中を歩けるだろうか。急に不安になる。
公営駐車場に着くと、岸と雨宮がいた。岸は案の定緊張していた。何も知らない雨宮は、そんな岸の言葉にも楽しそうに応じている。
「雨宮、どうやって来たの?」
「バス」
驚いた。今日のバスはひどい混みようだっただろうに。彼女は黄色い浴衣を着ていた。青いバラがあしらわれている。きっと、目を引くだろう。雨宮が美人なのは、おれも認める。
「歌子、まだかな。さっきから待ってるんだけど」
雨宮はきょろきょろ辺りを見渡す。すると、駐車場の入口から白い大きな車が入ってきた。おれたちに近い位置で停まると、助手席から歌子が飛び出してきた。
「ごめんごめん! 着つけに手間取っちゃった」
彼女は髪の一部を編み上げて、黄色と白と青が組み合わさった髪飾りをつけていた。浴衣は青。大きなドットが髪飾りと同じ色合いで重なり合っている。帯は黄色。裏側の模様が凝っているのか、ねじられた帯からそれが見て取れた。
「気をつけてな!」
彼女を見つめていると、車の中から男性の声が聞こえた。きっと、歌子の父親だ。慌てて覗こうとするが、車は発進してしまった。満車なので、混む前にと急いで帰ったのだろう。
「総一郎、どう?」
彼女はわざわざおれの前に来て、くるりと回って見せた。おれはまごついて何も答えられなかった。かわいい、と言ってあげればいいのだろう。でも、岸たちの手前、どうしても言えなかった。
「歌子めちゃくちゃかわいいよ。浴衣、いいやつでしょ。特に帯」
雨宮が入ってきた。おれはタイミングを見失ってしまった。歌子は嬉しそうに答える。
「お母さんが頑張ってくれた」
来年以降も着なくちゃ、と彼女はうきうきしている。
「さあ、行こうか。穴場に案内するって言ってたよな」
岸が張り切って歩き出した。おれたちは、駐車場を出て、出店の並ぶ道を進んでいった。
歌子は当たり前のようにおれの隣を歩く。機嫌がいい。持っているのは浴衣のセットとしては大きすぎるトートバッグだ。それを振り回すように大きく手を振って歩く。
岸と雨宮は二人で歩いている。時折二人で笑う。おれも、あれくらい陽気になれたらいいのに、と思う。
「あ」
歌子が声を出した。彼女を見下ろすと、こちらを見上げて目をキラキラさせていた。どうしたんだろう、とこちらも明るい気分になる。
「この間、総一郎のお父さんに会った!」
途端に、体が強張るのを感じた。立ち止まりそうになりながら、歩く。
「そう」
「お父さん、S大学の先生なんだってね! さすが総一郎のお父さん。それに、結構楽しい人だった」
出かける前に、歌子のことを話したのを思い出す。父親は歌子の苗字を知っていた。
「そう」
歌子はおれの反応が鈍いことに気づいた。そしてしばらく下駄の足元を見つめ、また前を向いた。
*
岸の言う穴場は、小さな神社だ。狛犬に古びた社。一人で来るには怖いだろうが、大勢ならむしろちょっとした肝試し気分で楽しい場所だ。
「ジュース、買ってくる」
おれは、予定通り岸と雨宮を二人きりにすることにした。岸はもう、緊張のあまりわけのわからないことを話しだしているので、そろそろそうしたほうがいいだろう。
「歌子も来るよな」
おれが呼ぶと、歌子は嬉しそうに駆け寄ってきた。雨宮に手を振り、歩き出す。
出店はどれも同じに見えた。派手で、明るくて、やかましい。子供向けのお面の店、綿菓子の店、たこ焼きの店、イカ焼きの店、フランクフルトの店と毎年代り映えのしない出店は、少しずつ現代風になっていっていると、岸から聞いたことがある。例えばお面が流行りのキャラクターになっているとかそういうことだと思うが、おれにはわからない。
「ジュース、絶対高いよね」
歌子が隣を歩きながらおれを見る。
「まあ、必要経費じゃない? その辺の自販機で買ってもいいけど、雰囲気出ないしな」
おれの言葉に、彼女は納得したようにうなずく。それから、ずっと大事に持っていたトートバッグから、何かを取り出す。
「じゃーん」
「何?」
リボンのついたクラフト紙の袋。地味なラッピングだったので、まさか自分への誕生日プレゼントとは思わなかった。彼女はおれに渡し、「誕生日おめでとう」と笑う。一瞬、震えるくらい嬉しかった。
「これ、何?」
「ペンケース。何か、総一郎が使ってるアルミのペンケースが年季入ってるから」
彼女はおれのことをよく見てくれているのだ。口が思い切り笑う形になっているのに気づいて止めようとしたが、歌子が嬉しそうにしてくれているのでそのまま笑い合った。
誕生日だ。十七歳の。
ジュースの店に行ったら、異様に混んでいるので並びながら歌子と話した。楽しい話だった。彼女の家についての話は、好きな話題だった。母親が植物を育てている。父親がビールを飲みながら歌子に構う。歌子は家族と話すのが好き。……幸せな家庭。
いざジュースを選ぶときになると、値段が五百円もするので驚いた。やけくそになって、二人で変な容器を選んだ。雨宮には鳥の、岸には牛の、おれたちはお揃いの犬の容器を。
笑いながら元来た道を戻る。彼女が誰かにぶつかりそうになると、少し腕を引っ張ってあげたりする。彼女はおれの身長の高さをありがたがる。
神社に着くと、二人はまだ楽しそうに話していた。どうやら告白はまだしていないらしい。岸に牛を、雨宮に鳥を渡すと、二人はけらけら笑った。四人で笑い、氷だらけのジュースを飲む。花火はまだ始まらない。
「何時に始まるんだっけ?」
岸が訊くと、雨宮が携帯電話を見て「八時」と答えた。まだ七時四十五分だ。岸はおれをちらりと見る。
「あのさ、篠原。ちょっと町田とどこか行ってきてくれない?」
雨宮に話があるんだ。岸はそう言った。雨宮は察した顔になった。歌子は岸と雨宮を交互に見る。おれはうなずいた。
「行こう、歌子」
おれが呼ぶと、彼女はついてきた。
もう十五分近くうろうろしていた。そろそろ、戻ったほうがいいだろう。おれは歌子と話しながら歩いた。もうすぐ神社に着く。入り込んだ道に人気はなかった。彼女と二人きりでなくなるのが惜しかった。彼女もそう思ってくれている気がした。手を繋いだ。彼女も握り返した。
気づけば塀に彼女を押しつけて、キスをしていた。
彼女は目を閉じ、それを受けていた。長いキス。
花火が上がった。破裂音が響き、光が彼女を彩った。目を開けた彼女は、空を見上げた。
「わあ」
夢を見るような目で、彼女は花火を見た。おれはその視線を遮って、もう一度彼女に口づけた。彼女はおれの首に手を回した。
深いキスをしたわけじゃない。でも、ひどく幸せで、刹那的な感じがした。
黙ったまま、歩き出す。手は繋いだままだ。歌子の下駄の、からころという音だけが響く。
「総一郎」
「何?」
声が響く。響いていると思うのは、おれの感覚だけのことなのかもしれない。
「わたし、総一郎が好きだなあ」
彼女の照れたような顔に、胸がぎゅっとなった。
「歌子」
「何?」
「浴衣、すごくかわいいよ」
歌子はそれを聞いて、恥ずかしそうに笑った。
「花火、きれいだね」
「うん」
彼女の言葉に、おれはうなずく。
「お父さん、言ってたよ」
突然の言葉に、体が凍ったようになる。何で、今?
「この間ね、コンビニの近くのバス停で会って。お父さん、総一郎に朝ご飯食べてほしいって言ってた」
「……そう」
「わたしもね、思うんだ。総一郎の家族がうまく行ったらなあって。幸せになってほしいなって」
「あのさ、それ歌子の意見?」
おれの冷え切った声に、歌子は茫然と立ち止まった。
「そういうのは、いい」
おれの心は凍ってしまった。
「そういうのは、いらない」
歌子は泣きそうな顔になった。でも、おれの心は乱されなかった。
彼女には、そういうことを求めてはいなかった。
*
戻ると、神社の中はしんと静まり返っていた。その代わり、花火はどん、どん、とやかましい。おれは多分、怒ったような無表情だ。少し後ろを歩く歌子は、きっと泣きそうに顔を歪めている。鳥居をくぐると、二人は社の段に座って、黙っていた。岸は放心していた。雨宮は、暗い顔をしていた。思っていた通り、岸は雨宮に振られていた。
「……帰る」
後ろで、歌子が言った。暗い、小さな声だった。
「じゃあ、駐車場まで送る」
おれは、固い声のまま返す。彼女は首を振った。
「いい」
「そういうわけにもいかないだろ」
「あ、篠原。おれが送るよ」
岸が青ざめた顔で立ち上がって、こちらに来た。
「篠原は雨宮を送って」
それが、一番かもしれない。おれはうなずいた。歌子にも異存はなさそうだった。
歌子と岸が、神社の外に歩いていく。おれは、五分くらいしてから雨宮と歩き出した。
「歌子と喧嘩したの?」
雨宮は低い声で訊いた。おれは、無視した。
「あんたのそういうところ、嫌い」
「……うるさい」
「何話したの? 父親のこと? 歌子はちゃんと覚悟して言ったんだよ。あんたに嫌われるかもって思いながら」
おれは無言を貫いた。
「歌子はあんたの中に入っていきたいんだよ。あんたに鉄壁に守られてるばかりじゃなくてさ」
「雨宮には関係ない」
雨宮は、ため息をついた。
「ホント、嫌いだよ」
*
家に帰ると、父親が夕食を用意して待っていた。ダイニングのテーブルに着くと、父親も向かいの席に座る。
「どうだ。楽しかったか」
「うん」
嘘をついた。本当のことなんて、知られたくなかった。そのまま無言で簡単なメニューを平らげた。父親は、不器用だ。味噌汁の人参に、皮が混じっている。それを何も言わずに飲み込む。
「花火、見えたか」
「うん」
しんと沈黙が続いた。いつものように。父親と心が通じ合うことは、ないだろう。おれは心を閉ざしている。父親は、どうだろう。ただ、何を考えているのかわからない。
子供のころから父親は家にいなかった。研究に全精力を傾け、家にはその一パーセントも注いでこなかった。家に帰ると母親の作った食事を無言で食べ、無言で風呂に入り、寝た。だから父親とはそういうものだと思っていた。家に魂を置かない人だと。
父親の研究室に行ったことがある。小学校中学年のころだ。白い棚が並んだ研究室には顕微鏡や様々な道具がたくさんあり、父親は学生や助手に指示を与え、時には冗談を飛ばしていた。顕微鏡を覗く父親は、この世ではないどこかを見ているように見えた。その世界に、家族はいない。
中学のとき、授業で池の水をシャーレに載せたものを顕微鏡で覗いた。ミドリムシが泳いでいた。父親が愛するのは、このような異形の単細胞生物なのだ。そう思うと、ますます違う世界の人間に思えた。
父親は、この世とは、おれとは、関わりのない人間なのだ。
「この間、町田さんに会った」
カッとなった。
「いい子だな」
黙って立ち上がり、部屋に入った。布団に潜り込む。
……総一郎と優二に、大事な話があるの……。子宮に癌が、ステージⅢで、お母さんちゃんと治療を受けて元気になるから……。……お父さんと仲良くしてね。お父さんは不器用な人で……お母さんは……ごめんね。
頭の中で色々な記憶が混ざっていった。何度も繰り返した記憶だった。もう、時系列なんてめちゃくちゃだ。ただ、確かなことは。
「わかってるよ、駄目なのはおれだってことは」
そして、耳を塞いだ。
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