2.あいつ
歌子が演劇部の作品発表で、主役に抜擢されたらしい。部活終わりに慌てた様子で報告に来た彼女は、何だか泣きそうだった。
「どうしよ、総一郎。わたしにできると思う?」
彼女は両手をこぶしにしていた。よほど怖くなったのだろう。おれは、笑って見せた。
「大丈夫だと思うよ。かなり練習しただろ。全力で頑張れば大丈夫だよ」
「そうかなあ」
不安そうに口元に手をやり、眉根を寄せる彼女は、抱きしめてあげたいくらいか弱いような気になる。でも、ここで抱きしめるような関係ではまだなくて、ここは学校で、要は思うだけに留めておくべき考えだ。
「人前で何かするって初めてなんだろ。一回くらいやってみていいんじゃないか」
「うーん、実は一回ある」
彼女は秘密めかしておれを上目遣いに見る。
「何やったの?」
「小学校の学芸会で、雀の役をした」
「雀?」
「『舌切り雀』のね」
いたずらっぽく、笑う。おれは、それを見て何だか得をしたような気分になる。
「主役級じゃん。すごいな」
おれの言葉に、彼女はころころと笑う。
「小学校二年生のときだよ。主役はおじいさんだし。おじいさんは拓人だったんだ」
顔が凍りつくのがわかった。拓人。浅井拓人。歌子の幼馴染み。
「……へえ」
「拓人、演技が大袈裟で、評判悪くて、それ聞いて『もう絶対やらない!』って言ってたんだよ」
「そうなんだ」
おれの反応の鈍さに、彼女がさっと視線をおれの目に向け、やってしまった、という顔をする。
いいんだよ、と言ってあげたかった。浅井のことなんて、好きなだけ言ってくれていいんだよと。でも、できなかった。浅井は、歌子の生活の一部。わかっている。でも、歌子の幼馴染みで、歌子のことを色々知っていて、ついこの間まで――半年以上前だろうとついこの間だ――歌子のことが好きだった。あいつに恋人ができようと、信用なんてできなかった。何年もかけて好きでいた女の子を、そう簡単に諦めることなんてできるのだろうか?
「わたし、浴衣買ってもらうんだ。今度お母さんと一緒にデパートに行くんだよ」
歌子が話題を変えた。申し訳なかったけれど、ありがたかった。
「そう。どんな浴衣にするつもりだったっけ?」
彼女はくすくすと笑った。
「内緒」
視線を逸らしてもう一回おれを見た彼女は、とてもかわいかった。
*
期末試験も終わり、結果が出て、いつものように勉強熱心な奴らがおれの周りにやってきて、ひとしきり騒いで、帰っていった。
「あんたも大変だね。あたし、ああいうの、無理」
雨宮が顔をしかめておれの隣の席に座った。
「いつものことだから、平気だよ」
おれはかすかに笑った。中学の剣道部の仲間と歌子に加え、雨宮にも笑いかける余裕が出てきた。笑うくらい、前は何てことなかったのに、気持ちの余裕がよほどないと、出てこない。
「あたし古典が異様に苦手でさ、今回もふつーな成績で終わっちゃった。こんなんで留学なんてできるのかね」
知ったことではない、が、一応友人なので友人らしい答えを言ってみせる。
「英語は得意だろ。それに工科大学目指してるから理系科目はちゃんとやって毎日進歩してるんだろ。何か大会に出るっていうし。完璧じゃん」
雨宮はじろりとおれをにらんだ。
「何か、いい加減な返事。まあ、歌子以外はどうでもいいよね。あたしも正直、歌子以外はどうでもいい」
雨宮の歌子に対する友情は、注ぐ対象が狭い分、濃厚だ。歌子も友達は少ない、というかほとんどいないに等しいが、彼女も雨宮を大事にしている。歌子に友達ができて、親友になった。それだけでも、何だか助けられた気がする。
彼女が孤独でいるのは、心が痛む。去年、それをはっきりと感じた。助けたとは思わないが、おれのしたことで彼女が苦痛を感じなくなったのは、とても嬉しいことだ。
「歌子どうしてるかな。ちょっと見てくる」
雨宮は突然立ち上がり、速足で歩き出した。おれは席に着いたまま、頬杖を突く。
「篠原、雨宮何て言ってた?」
岸が雨宮のいた椅子にどすんと座り――こいつは最近またでかくなった――必死の形相で訊く。おれは、頬杖を突いたまま「何が?」と訊き返す。
「だから、雨宮はおれのことを話してはいないかと……」
「何も。歌子の話しかしなかった」
「またか」
岸は悄然と首を垂れた。こいつは雨宮のことが好きだ。おれが歌子を好きだったのと同じくらい昔から、雨宮のことが好きなのだそうだ。でも、雨宮にはそんな気配はない。岸のことをただの友人とみているだけという気がしている。
「あのさあ、篠原」
岸が珍しく真剣なトーンになった。おれはきょとんとして岸を見た。岸は唇を噛み、言いにくいことを勇気を出して言おうとする顔になっていた。
「おれ、花火大会で雨宮に告白しようと思ってる」
「え」
「勝ち目はほぼほぼないと思うけど、もう限界」
おれは一瞬「やめたほうが」と言おうとしたが、最後まで聞いて何も言えなくなった。気持ちを打ち明けずにずっと秘めたままでいても、爆発しそうに大きく膨らんでいくのは、経験がある。
「だから、花火大会の日、二人きりにしてほしいんだ」
「わかった」
おれは邪険にせず、いい加減な反応もせず、ただそう答えた。それが、ここまでおれを見捨てずにいてくれた岸への返事だと思った。
岸はおれを見捨てなかった。おれが変わっても、おれの友人でいてくれた。だから、感謝しているのだ。
岸は、にっと笑うと、
「ありがとな、篠原」
と言った。
*
金森教頭は、夏休みに入ろうとする最近になって、やけにしつこい。
「お、篠原。今回も学年一位だったそうだな。結構結構」
寡黙なのに、機関車の煙を出すときのような勢いのいい話し方をするこの教頭を、おれは苦手としている。剣道部の顧問で、剣道五段。おれが剣道をしたいのだと決めつけて、やたらに絡んでくる。
「勉強もいいが、剣道もいいぞ。書道部で頑張ってるそうだな。文武両道でやってみないか」
「……はあ、また今度」
煮え切らないおれの返事のせいで、こんなにもしつこく押しつけてくるのだろうか。ならばはっきりと断ればいいのに、できない。家の剣道具は、押し入れの奥深くに入れ、自分の目から隠しているのに。
確かに、剣道は好きだった。でも、今はわからない。歌子に話した気持ちは本当だ。筋力や剣道の感覚が衰えていくのにも焦りはある。それも本当だ。でも、剣道に向き合う気持ちがあるかというと、曖昧模糊としている。
廊下で会っただけなのに、もう五分も引き留められている。
「岸はすごいぞ。今年から副主将だ。篠原は中学の時主将だったよな。岸のサポート役として、やってみるのもいいと思うけどな」
「……家事をしなきゃいけないんです」
「わかってるよ。でも家族で分担するんだろう? 君は若いし、できないこともないと思うんだが」
「母が、いないので、まだ対応しきれていないんです。剣道は、母が熱心に、やらせたもので……」
そこまで言うと、教頭は口をつぐんでまじまじとおれを見上げた。ここまで言わせてしまったことに、やりすぎたという気持ちを抱いたのだろう。おれ自身、感情が高ぶって口走ってしまったことに、後悔していた。
「すまなかった。ちょっとしつこかったな。でも、篠原。お前は剣道をやるべきだと思うよ」
教頭は、おれの腕をぽん、と叩いて通り過ぎていった。しばらく頭の中が熱かったが、すぐに落ち着いた。
いつか、剣道をする日が来るかもしれない。でも、今ではないのだ。
*
昇降口で、靴紐を結ぶ。帰ろうとしていた。歌子は一緒に帰ると言っていたけれど、演劇部の会議が紛糾しているらしく、なかなか視聴覚室から出てこないので、靴だけでも履いておこうと思ったのだ。
顔を上げると、昇降口に入ってきた浅井と、その恋人がいた。
「おっ、篠原! お疲れー」
浅井は、気軽な調子でおれに声をかけた。こいつは、結構平気でおれに話しかけてくる。根が明るいのだろう。部活終わりらしい浅井は、汗の匂いをさせていた。
「お疲れ」
あまり顔を見ずに、答えた。
「歌子まだ? 演劇部が長引いてるのかなあ」
「何か、会議とか言ってた」
「ふーん」
浅井はうなずき、顔を上げておれに恋人を紹介した。
「篠原、静香のこと知ってる?」
「……うん。歌子から聞いた。つき合ってるんだろ?」
浅井はにこにこ笑った。片桐は、警戒気味におれを見る。
「……拓人君、この人……」
「あー、歌子の彼氏! 知らなかった?」
片桐は、驚いた顔になる。そんなに意外だろうか。歌子がおれを選んだのが。――浅井じゃなく。
「ふうん。町田さんにも彼氏いるんだね」
拓人君、話してくれないから知らなかった。片桐はそう続けた。
「そうだよ。ああ、じゃあおれら教室行くから、じゃあな、篠原」
歌子によろしく言っといて。浅井は、おれに手を振って歩いて行った。恋人を連れて。昇降口は、突然しんと静まり返る。
あいつが、嫌いだ。如才がなくて、明るくて、歌子のことを多く知っていて、近所に住んでいて、はっきりと恋愛感情を表し続けられたあいつが。
本当に、あいつの気持ちはあの恋人に向いているのだろうか? 歌子のことを諦めたのだろうか? おれに対して、何の感情もないというのだろうか?
信じられなかった。おれは、はっきり言って浅井に嫉妬していた。
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