真珠

1.彼女

 沈む。

 薄暗い中を、ゆっくりと、沈んで、沈んで、底に着く。そこで横たわっている。体を包んでいた膜は、いつの間にか泡となってぶくぶく水面に戻っていく。置いてけぼりだ。そのまま、一日、一週間、ひと月、ふた月、……半年。

 おれは、もう水面に上がることなんてないんだと思っていた。

 それが一生続くんだと思っていた。


     *


 携帯電話のアラームが、憂鬱なメロディーを奏でる。イギリスのインディーズロックだった気がする。動画サイトで気に入って、携帯電話に入れて、アラームにした。静かな曲なのに、妙に目が覚める。おれに似合いの目覚めだ。真っ暗な夢を見て、まどろみの中から這い出るような。

 体を起こしてため息をつき、頭を掻く。起きるのが苦手になったのはいつからだろう。前は、こんなんじゃなかった。のろのろと布団から裸の足を出して床に着けると、思ったより冷たくなくて意外な気がした。ああ、そういえば。昨日入学式だった。おれは、高校生。今は、春。実感はなかった。

 部屋を出てすぐのリビングは静かで、優二はまた寝坊しているようだった。まあ、まだ少し早いか。おれのアラームは六時に設定されていて、近所の小学校に八時に着けばいい優二にとってはまだ起きるには早い時間だ。

 かたん、と音がした。見ると父親が身支度を完璧に整えてエプロンを身に着けようとしているところだった。キッチンはリビングダイニングの奥にあって、そこに入ろうとしているのだった。長めの髪を整髪料で撫でつけ、アイロンのかかったワイシャツにスラックスを着ている。完璧だった。他人を寄せつけない完璧さ。父親はおれを見た。

「朝食、食べるだろ」

 静かな、押しつけがましさを感じる声だった。食べろ、と言われていた。お前は朝食べないで行くからと。

 そんな風に取ってつけたように親のふりをされるのはまっぴらだった。

「……いらない」

 声はかすれた。父親は一瞬黙ったが、

「そうか」

 と答えた。おれは身支度を簡単に整え、優二が部屋からあくびをしながら出てくるのを横目に、制服を着て学校に向かった。制服のネクタイは締めるのに手間取り、これ以上成長することを見越してか、スラックスもブレザーも緩い。もうこれ以上成長しなくていい。

 もうこれ以上成長しなくたっていい。必要ない。


     *


 朝、部活をする上級生の声を聞きながらパンを食べた。コンビニで買うパン。購買部のパンは種類が少なそうだった。でも、値段を考えたら昼は購買部で買ったほうがよさそうだ。おれは小遣いをもらう立場で、この高校はアルバイト禁止だった。

 早く大人になりたい。

 でも、大人になったとして、何をするんだろう?

 クラスメイトがぽつぽつ集まってきていた。それぞれ仲良くなった面々を見つけておずおずと話し始める。同じ中学の男子が勢いよくこっちに来た。名前を思い出せない。

「篠原、おはよう」

「……はよ」

 眼鏡をかけたそいつは、おれの反応の薄さに戸惑い、それ以上話しかけることをやめて新しいクラスメイトの元に向かった。そっちがいいよ、とおれは心の中でつぶやく。こっちに来たってあげるものは何もない。

 クラスには同じ中学の生徒が何人かいて、そいつらはおれを見ると気まずそうにした。どいつもこいつも、「中学のときの篠原君」越しにおれを見ている。真面目で明るい篠原君。剣道が強かった篠原君。もう、全然思い出せない。昔おれがどんな風だったか。

 本を読んだ。中学のころも本は好きだったけれど、今ほど読んでいなかった。本は、はっきり言って逃避のために読んでいる。家からの逃避。教室からの逃避。現実からの逃避。

 女子が集まって塊を作り始めた。甲高い声。知り合って間もないのにあんなに親しげな様子を演出できるのはすごい。早くもグループができていた。一番大きいのは原怜佳が中心となったグループ。派手で、強気で、やたら騒ぐ。うるさい。……うるさい。

 原怜佳の隣で笑っているのは、少し場違いな感じがする女子だ。確かに見た目は整っているし、暗いタイプではなさそうだ。でも、言葉を発することは少ないし、にこにこ笑ってばかりいる。聞き役という感じ。原怜佳のお気に入りらしく、やたらに抱き着かれたり、話しかけられたりしている。名前は何だっけ。

「歌子! 写真撮ろうよ。中学の友達に見せるから」

 原怜佳がハスキーな声を上げる。隣の女子はうなずいて笑顔を作る。皆で集まり、原怜佳が写真を撮る。

 そうだ。歌子だ。町田歌子だ。古風な名前。大事に、されていそうな。

 町田歌子の家庭は、きっと温かいと思った。彼女はどう見ても愛されている子供だった。


     *


「ごめん、篠原。この問題教えて」

 勉強熱心なクラスメイトに乞われて、授業のあと教えてやることがある。そうすると、普段周りにいないような奴らが輪を作ってどんどん膨らんで、五人も六人もおれの解説を聞く。ありがとう。そう言って奴らはすぐに去っていく。

「何か、無料の家庭教師みたいな?」

 岸がそのあとにおれの前の席にどっかり座ってにたりと笑う。

「家じゃない」

 おれが面倒くさくなりながら言うと、岸は前のめりになって訊く。

「ね、お前のクラス、かわいい子多いね。誰か好きな子できた?」

 おれはため息をついて「そんなのいない」と答える。岸はずっとこうだ。剣道部の面々は変わってしまったおれに構い続けている。剣道を辞めたというよりは、卒業したからこの機に何もしないという選択肢を選んだだけだ。岸たちから剣道をまたやったらどうか、などと押しつけられることはないが、少し鬱陶しい。

 岸は高校でも剣道部に入ったようだ。おれも、誘われた。岸ではなく、教頭にだ。誰に聞いたのか、おれが中学でやっていたことを知っていて、「入るんだろう」と半ば決まったことのように言われた。当然、断った。「どうしてだ」と少し驚いたように訊く教頭には、曖昧に誤魔化した返事をして逃げた。嫌いだから、嫌だから、したくないから入らない、と言えなかった。そうではなかった。でも、どうして剣道部に入りたくないのかわからなかった。

 死んだように生きていた。それとも、死んでいるのに生きているふりをしているのか。

 ただ学校に通った。意味は見いだせなかった。


     *


「兄ちゃん剣道やらないのかよ」

 優二が恨みがましい声を出す。おれは曖昧に笑い、夕食を作る。やたらと料理の腕が上がった。今日は焼いた鯖と味噌汁、根菜の煮物だ。料理本を見たりネットを見たりして、コツは大分掴んだと思う。

「剣道具腐っちゃうよ」

 声変わりしていない優二の声は、子供そのものの声だ。

「腐らないよ」

 おれが答えると、優二は「カビが生える」と言う。そうかもしれない。手入れをせずに押し入れの中で放ったらかしにしているから。

「岸君に差をつけられちゃうよ」

 それは優二が焦ることだろうか。おれは笑って里芋の煮物を菜箸で刺して柔らかくなったのを確かめる。ご飯をよそっていると、玄関で音がした。父親だ。

 手を洗い、疲れた様子の父親はネクタイを緩めながらリュックを背中から下ろし、優二に話しかけた。

「学校はどうだった?」

「楽しかった!」

「そうか」

 父親はしゃがんで優二の目線に合わせて微笑んでいる。優二は素直だから、扱いやすいと思う。父親面するのにはぴったりだ。おれは、元々が父親に懐いていない上に思春期で、要するに扱いづらい。

 家族ごっこには巻き込まれないでいようと思っている。


     *


 また、夢を見た。人に謝る夢だ。ごめん、ごめん、と何度も繰り返している。立っていたのに、段々くずおれて、うずくまって、それでも謝っている。部屋は、白い。

 憂鬱なアラームで目覚めると、耳まで水が垂れていた。拭って気づく。涙だ。

 泣いていたのか。そう気づいて恥ずかしくなる。誰も見ていないのに。

 支度を始める。学校に行っても本を読んで時間を潰すだけだけれど。


     *


 しのはらってさー、昔からあんななの? いや、前は明るかったよ。何で今はあんな風なの? あー……。

 ホームルーム前の教室で聞こえた声に、視線を送る。にらみつけられたと思ったらしい。会話は終わった。本に戻る。読む本は、どんどん現代から離れていく。平成から昭和末期へ。中期へ、初期へ、大正へ。今は定番の夏目漱石の「門」をしばらく読んでいる。

「篠原君、おはよう」

 声が降ってきた。顔を上げると、町田歌子がこちらを見下ろしていた。にこにこ笑っている。どうしておれに挨拶なんかしたのかわからない。

「……おはよう」

 町田歌子はうなずき、自分の席に向かった。それを見て、気づく。

 何だ。通り道だからか。

 まだ入学式のときのまま、出席番号順に並んでいるので、ま行の町田歌子はさ行のおれの列を横切らないわけにはいかないのだ。

 何だ。

 腑に落ちたけれど、何故か気持ちが高揚していた。篠原君、おはよう。その一言で、少しだけ浮いた気がした。底から一センチ浮いた。それくらいなものだけれど。

 町田歌子のほうに振り向いた。彼女は自分の席に荷物を置いてから原怜佳の席に行き、その他の女子と固まっていた。彼女はおれに気づいた。見ていたことに気づかれて動揺した。彼女は微笑んだ。

 そのとき、わけのわからない感動が、おれの中で吹き荒れていた。


     *


「歌子」

 と呼ぶと、彼女は笑った。

「何?」

「花火大会、行こうな」

 彼女はにこにこ笑った。彼女の笑顔を見ると、いつも茫然とする。

「よかったな、篠原!」

 岸がガハハと言わんばかりの笑顔で言う。本当に、よかった。

 あの瞬間から半年経ち、更に半年、それからしばらく経った今、おれは歌子とつき合い、恋人同士と言える状態にいる。夢のようだ。本当に夢なのかもしれない。

 彼女はおれを信頼してくれ、おれは彼女を大切にできている。この状態が続くのは、本当に奇跡としか思えない。

 いつかつまずいてしまう気がする。でも、そんなことは気にしてはいけない。浮上する途中であること。それも意識してはいけない。今、彼女を見なければいけない。

「総一郎」

 歌子が恥ずかしそうにおれを見て笑う。それにまた感動する。

「浴衣、何色がいいかなあ。何色が好き?」

「何色だっていいよ」

 おれは笑っている。笑っているのはここ一年ほどよくあることだ。それに驚く。

「歌子の好きな色の浴衣で来ればいいよ」

 そうだ。何だっていい。

 そこにいるのが君であれば何だっていい。

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