8.スポットライト

 蝉が鳴いている。教室のエアコンは、涼しいなどとは到底言えず、わたしたちは熱のこもった体を持て余しながら集まっている。七月が始まろうとしていた。わたしは今、気力に満ちていた。あれもしたい、これもしたい、と思い、渚を想い、篠原を想う。思いやれる人がいるのは幸せなことだと思う。わたしは二人のことを思うと、いつだって一生懸命になれた。

 今日は二組の教室で、篠原たちと四人で昼食を取っている。篠原は楽しそうに岸君と話していた。それを見て、嬉しくなる。彼がいい気分だとこちらも幸せな気分になる。ふと、篠原がわたしを見た。どきっとしながら微笑んで見せる。彼は照れたように笑い、「あのさ」と言う。

「さっき雨宮も交えて三人で話してたんだけどさ」

 わたしはきょとんとして岸君と渚、篠原を見渡す。三人ともにこにこ笑っている。

「夏休み、花火大会に行かないか」

「えっ」

「うちの区であるだろ、わりと大規模な花火大会。まあ混むけど、穴場を知ってるんだ。そこでゆっくり見られると思うんだけど……。どう?」

「行く!」

 信じられない気持ちだった。テレビでは見たことがあるけれど、隣の区だし、一緒に行く友達もいないから、一生行くことがない気がしていたのだ。まさか、篠原たちと行けるなんて。

「浴衣用意して着ていこうね。あたしも楽しみ」

 渚も笑っている。浴衣を着て夏のイベントに出るのは、久しぶりだ。わくわくする。母に頼んで浴衣を新調しなくては。

「おれらも浴衣着ていく?」

 岸君が、明らかにふざけた様子で篠原に訊く。篠原は機嫌よくその冗談に笑い、

「お前だけ着てくれば? 誰も喜ばないけど」

 と返す。ひょっとして、わたしや渚の浴衣姿は、篠原や岸君を喜ばせるのだろうか。なら、より一層気合いを入れて浴衣を選ばなければ。

「花火大会は、いつあるの?」

「八月二日。日曜日だよ。そして篠原の誕生日!」

 わたしの質問に、岸君が教えてくれた。すごいタイミングだ。ますます行くのが楽しみになる。

「そうなの?」

 渚は興味なさげに笑って訊く。篠原はうなずく。

「やっと十七歳だよ。道は長い」

「道は長いって、何で? 百歳とか目指してるの?」

 渚はからかうように訊いた。篠原は頬杖を突いたまま、

「早く大人になりたい」

 とぼやくように言った。すると、渚も同調したようにうなずいた。岸君もだ。早く大人になりたいなんて思ったことのないわたしは、同調できないせいで寂しくなってしまった。

「岸は五月生まれだったよね。あたしは二月生まれだからしばらく十六歳。時間の流れが遅いよ」

 渚はため息をついた。三人とも、憂鬱な気分を共有している。何だか羨ましい。わたしより一歩先を行っているみたいで。思わず言葉が出てきた。

「わたし、このままでも充分だと思ってるんだ。充分幸せ。充分楽しい」

「それは町田さんの今の環境がいいからだよ。友達できたし、家族仲もいいし、大人になりたいなんて思わなくていいから」

 岸君が反論する。岸君の家庭環境はそんなに悪くなさそうだし、友達だって持ち前の明るさでたくさんいるようなのに、どうして早く大人になりたいのだろう、と思って訊いてみた。すると思いがけない言葉が返ってきた。

「おれは自分用の部屋がほしいだけ。居間で寝るの、しんどい」

 どうやら岸君の家はそれほど裕福ではないらしく、個室があるのは年頃の妹と夜勤で寝る時間がずれている母親だけらしい。岸君の両親は離婚していて、母親だけで家計を支えているからそうなってしまうのだろう。それでも、その環境で勉強して成績上位をキープしている岸君はすごいと思う。

「そういえば、歌子の誕生日って九月だったよな。何かほしいもの、ある?」

 何気ない篠原の言葉に、三人で黙り込んだ。わたしは一人、どきどきしている。篠原はきょとんとしてわたしと岸君たちを見る。

「何か変なこと言った?」

「篠原、気づいてない?」

 渚がにんまり笑いながら篠原に訊く。篠原はなおもわかっていない。

「あのさ」

 わたしは思わず声を出した。声ははにかんでいた。篠原は不思議そうにこちらを見る。

「わたしも篠原のこと下の名前で呼びたいと思ってて――、総一郎って呼んでいいかな」

 途端に篠原の顔が真っ赤になった。やっと自分のしたことに気づいたらしい。

「いい、けど」

 恥ずかしそうにテーブルの上のパンの空袋を見つめる。岸君と渚はにやにや笑っている。

「あとプレゼントは本がいい! 篠原が面白いと思う本を見繕ってよ」

「わかった」

 篠原はまだ顔を隠している。いい加減、表情を見たい。――と思ったら、彼は顔を上げ、真剣な表情で唇を尖らせた。何かを言おうとしている。

「歌子」

「何?」

 わたしはどきどきしながら聞き返す。篠原はまた段々頬を紅潮させる。

「花火大会、行こうな」

 篠原は笑った。わたしはうなずき、岸君と渚はにっこり笑ってわたしたちを見守っていた。


     *


 七月に入ったばかりのある日、演劇同好会の活動場所である視聴覚室には見知らぬ一年生の男子が立っていて、新入部員として紹介された。ひょろっとした体型のその子は、石田卓君といって吹奏楽部との掛け持ちで入ることになったようだった。

「新入部員? 同好会なら会員とかじゃないの?」

 川野さんが面倒くさそうに口を挟む。彼女はいつも面倒くさそうなわりには活動をサボったことがない。

「ところが! そうじゃないんだよねー」

 大谷さんが得意げな顔で中村先生を見た。先生はにっこり笑ってこう言った。

「大谷さんの情熱と、皆さんのたゆまぬ努力で、演劇同好会は演劇部に昇格しました!」

 えーっ、という声が上がった。驚きが主な反応だ。川野さんすら呆然としている。中村先生は続けた。

「部員数が五人に達したこと、ちゃんと顧問を決めて活動をしっかり続けたことが部活として承認される理由よ。よかったわね」

「先生。部活になったとして、どう違ってくるんですか?」

 真島さんが手を上げた。先生は微笑み、

「予算が出ます」

 と言った。わたしは目を丸くする。

「だから何か劇をするにしても、衣装代や道具代を出してもらえます。よかったわね。皆の前で演劇を発表できるわよ」

 どきどきしてきた。同好会に入ったときのあの気持ちが蘇ってきた。人前で、演技をする。今まではわたしたちだけで寸劇や台詞読みをしていただけだけれど、これからは違うのだ。

「で、もう一つ発表があります。大谷さん」

 先生は大谷さんを呼び出した。大谷さんはわくわくした様子でわたしたちの注目を浴びて立っている。

「九月頭の文化祭で、二十分程度の劇をやることに決まりました!」

 わたしたちはどよめいた。ただ一人の男子である石田君だけが飄々と聞いている。

「演目は『海神別荘』です」

 どきっとする。わたしが前に読んで、演劇同好会に入るきっかけになった本。

「さすがに人数も足りないし二十分じゃフルにできないから、短くシンプルにまとめて、小道具とかナレーションとかで工夫して成り立たせようと思ってます。脚本はわたしがやります!」

 大谷さんは嬉しそうに笑った。映画監督になりたいなら脚本もやりたいことの一つだろう。彼女の脚本がどんなものなのか、とても気になる。

「『海神別荘』には美女、海神の公子がメインに出てきます。美女が生贄として海神に捧げられ、海神の王子様――公子と結ばれるというストーリーです。公子は真島さんにしてもらおうと思ってます」

 真島さんががたっと音を立てて腰を浮かせた。わたしも驚いていた。だって、公子は男性だ。男性の部員はすでにいる。石田君は平然とした顔で座っている。

「真島さんは熱心だし、石田君は裏方に限って協力してくれる約束で入った部員です。公子役、頑張ってね」

 真島さんは大谷さんの言葉に、強張った笑みを返した。

「で、美女は町田さん」

「えっ」

 あっさりと言い渡された役柄に、仰天する。大谷さんは力強く頷いて続ける。

「町田さんも熱心だし、何より美女役という役柄にこの中で一番ぴったりだという結論に至りました。まだ誰もちゃんと演技をしたことのない状態だけど、町田さんは光るものがあります。前に言った通り、スタイルもいいしね。豪華な美女の衣装が似合うと思うし」

 わたしの手は震えていた。まさか、いきなり主役になるなんて。心臓の鼓動が止まらない。大谷さんは続ける。

「ナレーションは川野さん」

「何で?」

 川野さんは敵意を剥き出しにして大谷さんを見た。大谷さんはあっさり返す。

「声がいいから」

 川野さんは面食らった顔になった。

「あなたの一番いいところは、はっきりとした声だよ。自覚して」

 大谷さんは少し笑った。川野さんはうつむいた。

「その他衣装作り、小道具大道具照明音声色々ありますが、まあ気合いを入れて頑張りましょう」

 大谷さんはにかっと笑った。わたしたちは沈黙している。わたしは胸がざわざわしていた。できるだろうか。主役だなんて。クラス対抗の出し物は演劇もある。それと比べられてしまうかもしれない。

「町田さんはやれると思うよ。頑張ろうね」

 いつの間にか、大谷さんが目の前に来ていた。わたしはうなずいた。もう、やるしかないのだ。

 スポットライトが、わたしを照らしていた。

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