7.彼女の事情

 日曜日に模試を終え、大雨の中、慌てて家に帰った。折り畳み傘しか持っておらず、渚に至っては何も持っていなかった。渚に傘を貸してあげなければ、と思い、学校から近いうちに連れて行くことになった。二人できゃあきゃあ騒ぎながら小さな折り畳み傘に入って走るのは、何だか妙に楽しい。けれど玄関に駆け込んだときにはローファーは完全に濡れ、靴下もびしょびしょだった。

「あら! 友達?」

 驚いて出てきた母が、渚を見て目を丸くする。渚は礼儀正しく頭を下げた。

「すいません、突然。歌子さんが傘を貸すって言ってくれたので、お言葉に甘えて来たんです」

 母は微笑んだ。どうやら渚の様子に安心したらしい。

「いいのよ。ちょっと待ってて。タオル持ってくるから」

 奥に走っていく母を、渚はじっと見ている。それから、わたしを見てこう宣言した。

「あたし、梅雨を舐めてた。明日からは折り畳み傘を持ってくる」

 そのほうがいいよ、とわたしは返し、小走りで戻ってきた母からタオルを受け取る。二人で「うへえ」とか「うわあ」とかつぶやきながら靴下を脱ぎ、バスタオルで足を拭き、頭をハンドタオルで軽く拭う。

「歌子が親切でよかったよ。あたし、びしょ濡れでバスに乗ろうと思ってたんだから」

 濡れ鼠のようになった渚が惨めな顔でバスに揺られているのを想像したらあまりにも気の毒で、声をかけてよかったと思った。

「髪、まだ濡れてるからドライヤー貸してあげる。靴も乾かしたいよね」

 わたしは裸足になった渚を連れ、自分の部屋に案内した。渚はしげしげとわたしの本だらけの部屋を眺めて立っている。濡れたタオルを階下の脱衣所に置きに行ってから戻ると、彼女はさっきとあまり変わらない姿勢でわたしの部屋の中を眺めていた。

「そんなに珍しい?」

 ドライヤーを出し、スイッチを入れて熱の温度を確かめてから渚に渡す。受け取った渚は、ありがと、と言うと、ほどほどの熱に設定したのに一番強い温風を出すように設定し直してから髪を乾かし始めた。どうやらせっかちらしい。

「いやー、本だらけだね」

 渚は轟音に負けないように大声で感想を述べた。

「漫画もあるよ」

「漫画ねえ。あたし漫画読まないようにって親から言われてんの。そのせいか興味ない」

「漫画禁止なの?」

 びっくりしていると、彼女は髪をばさばさとかき混ぜながらドライヤーの風を当て、

「禁止だよ。馬鹿になるとかなんとか言ってたけど、単純に親も読んだことないから理解できないのもあるんだと思う」

 と言う。それからドライヤーを止め、髪をペたっと触り、今度は制服に風を当てた。でも一番強い風は熱すぎたらしく、体をびくっとさせると温度調節して弱い風にした。襟元の青いリボンがバサバサ揺れ、ドライヤーの風を下から向けると白いブラウスは風で大きく膨らんだ。

「お父さんたち、漫画読まないの? うちのお父さんかなり読むよ」

「いいね、普通のお父さん。うちの父親普通と違うからさ。母親も」

 わたしは話を聞きながら濡れた制服を脱いで部屋着を着た。スカートとリボンはこのままでも乾くし、ブラウスは母が洗ってくれるだろう。一応スカートの中で部屋着のズボンを穿いたが、上半身がキャミソール一枚になったときも、渚の前ではあまり照れがなかった。

「普通じゃないって?」

 ベッドにぽん、と座る。渚もさっきからベッドに座っている。制服は乾いたらしい。今度はさっき脱いだ靴下を乾かしている。靴下なしでバスに乗るのは確かに嫌だ。

「両親ともに医者なの。父親が脳外科、母親が眼科。勉強ばっかりして育ってて、普通の生活を知らないの」

「すごいね」

「すごいのかなあ? あたしにとっては家にいなくてお金くれるだけの人たちでしかない」

 言葉を失う。

「家に帰ってこないのは仕方ないよ。二人とも開業医じゃないのもあって自由が利かないからね。でも、たまの休みくらい娘と話をしたらいいのに、ゴルフだとかサーフィンだとかで自分たちだけで楽しんじゃうの。あたしは三村さんと家で二人きり。もう寂しいとかいう気持ちもない。期待してないんだ」

 急に、胸がざわめいた。渚が守ってあげなければならないような小さな女の子に見えた。彼女が乾いた靴下を履いて、満足気に笑ってわたしを見たときには、思わずこう言っていた。

「今日さ、うちでご飯食べない?」

 渚は目を丸くしていた。それからにっこり笑った。

「何? あたしが可哀想になった?」

「そんなんじゃないけど……、いや、あるかも」

 渚はけらけら笑った。

「正直だね。あたしは自分を可哀想だなんて思わないし、同情されるのは嫌いだけど、歌子にそう思ってもらえるのは何か嬉しい。ご両親がいいのなら、ご馳走になるよ」

 ほっとして、階下の母に伝えると、快諾してもらえた。渚はうきうきした様子で足をぱたぱたさせる。

「お母さん、すっごく優しそうだよね。あたしああいうお母さんに憧れる」

「そう?」

 母は普通の専業主婦だ。でも、人のために尽くすタイプで、優しいのは確かだ。渚に母を褒められて、嬉しい。

「お父さんはどんな人?」

「明るいよ。めちゃくちゃ。岸君に近いかも」

「岸に?」

 渚はけらけら笑った。わたしも笑う。

「でも、ちょっと過保護かな。ちょっとでも心配だと駄目だって言う」

「へえ。何かかなり想像できる」

 渚はくすくす笑う。しばらくそうしたあと、はあっとため息をついた。

「家に帰ったら三村さんのご飯が待ってるだけだから、ほんとよかった」

 冷蔵庫に、タッパーに詰めたおかずがあるだけなのだという。それはきっと寂しい。

「お父さんに会うの、楽しみ」

 渚はにっこり笑った。


     *


「じゃあ、渚は天才少女なわけか!」

 父の白い四駆車の中で、渚は話題の中心になっていた。結局遅くなってしまったので、父が渚を家に送ることになったのだ。わたしはそれについて行っているところだ。父はわたしの友達にいつも馴れ馴れしい。でも、それはきっとわたしとその子が仲良くなれるよう気を遣った結果なのだろうと今は思う。

「天才じゃないです。天才って、あたしとは違うと思うから」

 渚は上機嫌だった。食事は賑やかに済み、わたしともずっとじゃれていた。楽しんでくれたらしい。

「すごい人間にはならなくていいし、すごい人間じゃないし、地に足の着いた人間でありたいから、天才じゃなくていいです。ただ、物理学者になって結果を残したいってだけで」

「聞いたか? 歌子。お前も見習え」

「わかってるよー」

 わたしが口を尖らせると、父はにっこり笑った。

「渚は何か部活やってるのか? うちの歌子は演劇部を始めたりしてるけど」

「同好会ね」

 わたしが突っ込むと、父は「どっちだっていいだろ」と返す。渚は笑いながらこう答えた。

「帰宅部ですよ。部活はもういいかなって。中学のときは陸上部だったけど」

「陸上部!」

 わたしと父が声を揃えると、後部座席の渚は大笑いした。わたしは渚が走るのを想像した。しなやかな、動物のような走りを。きっと素敵だっただろうな、と思ってうっとりした。

「運動神経がいいんだな。歌子に見習わせたい」

「お父さんそればっかり」

「何で陸上部はもういいんだ?」

 父が訊くと、渚は一瞬黙った。わたしはどきっとした。渚の顔は曇っていた。

「ちょっと、嫌なことがあって。運動は好きだけど、しばらくいいかなと思ったんです」

 わたしと父はしんと黙った。何があったのだろう。わたしは追及したい気持ちを抑え、渚の気分を変えさせるために考えを巡らせた。

「そういうこともあるよな!」

 父が明るい声で言う。渚もほっとしたように笑う。父の勢いのある元気な声は、こういうとき救いだ。

 さっきから昔の歌謡曲がかかっている。父が好きな曲。父の車では歌謡曲に加え、ロックやポップスがシャッフル再生で流れるが、いずれも昔の、わたしが生まれる前の曲ばかりだ。そらで覚えるくらい聞いているが、友達に聞かれるのは少し恥ずかしい。けれど、沈黙を埋める音楽はどれも能天気で楽しげで、こういうときは助かる。

「色々あるよ。生きてればさ。でも、楽しいことだってたくさんあるから。というわけで、歌子をよろしく!」

「お父さん脈絡ないよ」

 父の言葉に、思わず笑ってしまう。渚も後ろで笑っている。

 ナビが目的地に着いたことを教えてくれた。同じ区内だが、ここは郊外の高級住宅街でわたしは一度も来たことがない。渚の誘導に従って門の前に車を停めた家は、とても大きかった。暗いのでよく見えないけれど、全体に広くて屋上がある。わたしと父は呆気に取られていた。

「ありがとうございました。歌子もありがと」

 渚は後部座席のドアを開けようとしながら笑った。わたしと父は手を振り、渚が門ではないほうの入口から塀の中に入るのを見届けると、車を発進させた。後ろを振り向くと、家の一部で明かりが灯った。暗い家に帰るのって、寂しいんだろうな、と想像を巡らせる。

「渚はいい子だな」

 父がふと言った。

「うん」

 さっきよりは言葉少なになり、わたしはうなずく。

「親友か?」

「まだわかんないよ」

「大事にするんだぞ」

「わかってるよ」

 わたしは笑った。渚は大切にしなければならない人だという気がした。わたしは渚が好きで、惹かれていて、憧れていた。ずっと友達でいられたら。そう思った。

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