6.一緒にいたい
「これからは一緒に帰れるね」
と篠原に言うと、彼は微笑んだ。彼は書道部で、わたしが演劇同好会に入ったので、帰るタイミングが合うようになったのだ。どうせ彼は学校前のバス停でバスに乗ってしまうのだが、それでも嬉しい。
「まだ明るい季節だからいいけど、冬はどうする?」
篠原が眉根を寄せた。五月の夕方六時は、危険を感じない程度に明るい。校庭は運動部の生徒の声で満ちていて賑やかだ。早くも冬の夕暮れの暗さを心配している篠原は、保護者みたいに過保護だと思った。
「どうしようかな」
「送ろうか?」
篠原の言葉に、笑ってしまう。そこまでしてくれなくても、大丈夫。そう言おうと思ったけれど、彼の心配そうな顔を見ると、言えなくなってしまう。
「じゃあ、冬になったらね」
彼はほっとしたように笑う。わたしは彼を、素敵だな、と思う。
「歌子ー!」
遠くから声がして、そのほうを見ると部活中の拓人がグラウンドから大きく手を振っていた。わたしも同じように手を振る。
「今から帰るの?」
「うん」
「気をつけてな!」
「わかった」
くるりと姿勢を戻し、篠原を見る。彼は、少し不機嫌だった。そっと、訊く。
「今の、駄目だった?」
「……そんなことはないけど」
「拓人は数少ないわたしの友達だから……」
「大丈夫。心配してない」
わたしの言葉を遮るように、彼は言う。それからとってつけたように笑う。やはり、篠原は拓人を警戒しているようだ。去年、ほんの少し二人が仲良くなりそうな気がしていたものだけれど、今はそうも行かないらしい。
「あのね。拓人の彼女の片桐さん、わたしのことが嫌いみたい」
「それは、そういうものじゃないか」
篠原は、ぼそぼそと言った。だって、浅井と町田の関係って、特別な感じがするし。篠原はそう続けた。
「篠原も、同じ理由で拓人のことが嫌いなの?」
篠原は黙った。言葉を探しているようだった。それから、探すのを諦めた。わたしを見て、悲しげな子犬のようになる。
「手、繋いで帰ろ」
わたしは彼の手を取った。彼は一瞬手を引こうとしたが、わたしはぎゅっと指先を握って離さなかった。ちょうど校門を出ていて、校庭を囲むポプラの陰になっているのでわたしたちは見えないはずだ。彼はわたしの手を握り直した。大きな手。骨張っていて、温かい。
彼が乗るバス停まで、あと少し。このまま、ずっと歩いていたいと思った。
*
彼のことを考える。教室が離れていても、授業中に彼の様子を思い浮かべる。部活中も、無心に発声しているときに不意に思い出す。家にいて、家族と話しているときに彼のうまく行っていない家庭のことを考える。本を読んでいて、彼に似た登場人物を見つけると、また会えた気がする。この間、彼の話を聞いてからずっとこうだ。彼の幸せを願ってばかりいる。
本のページをめくった瞬間、携帯電話が鳴った。画面に触れると、篠原からのメッセージがあった。
「日曜日、映画に行かない?」
わたしが彼のことを考えているときに、彼はわたしのことを考えてくれていたのだ、と思って嬉しかった。
「いいよ」
「何の映画観る? 何か観たいのある?」
「うちで観ようよ。大谷さんからたくさんDVD借りたんだ。お父さんとお母さんは二人で日帰り旅行に行くんだって。わたしも誘われたけど断って、後悔してたところだったんだ」
送信したあと、しばらく返事が来なかった。余計なことをしただろうか、と心配になる。本のページをめくる。内容が頭に入ってこない。
携帯電話が鳴った。急いでアプリを開く。
「岸とか雨宮を呼ぶ?」
くすっと笑う。どうやら、篠原は二人きりでわたしと会う勇気がないらしい。
「岸君や渚は絶対興味ないと思うよ。大谷さんの趣味ってエンタメじゃないから」
また、沈黙。彼は、何をためらっているのだろう。
「じゃあ、行く」
十分くらい経って、ようやく返事が来た。わたしはにっこり笑って、時間とその日の段取りをメッセージにして送った。
*
バスに乗ってやって来た篠原は、わたしを見ると緊張の面持ちで手を上げた。わたしは彼に駆け寄り、あれこれと今日観る予定の映画の話をする。大谷さんの好きな「ノスタルジア」もよさそうだけれど、ベティ・デイヴィスの出演作品をたくさん観るのもいい。
「ここがわたしの家」
学校前のバス停からさほど歩かない場所にあるわが家に着くと、わたしは小さな門を開きながら彼を見た。彼はどこか呆然の面持ちでわたしの家のクリーム色の外壁を眺めた。花壇に咲き誇る紫色の濃淡でできたルピナスの花を見て、ほうっと息をつく。母が好きな花で、よく手入れがされていた。
玄関を開け、上がってもらう。篠原のスニーカーは大きくて、わが家の玄関のたたきでは存在感があった。誰もいない家は、何だかいつもと違う。篠原を居間に通した。ソファーに座ってもらい、ジュースとお菓子を用意していると、篠原はぽつりとつぶやいた。
「ここで育ったんだな、町田は」
しみじみと、実感を伴った感想のようだった。
「何それ」
わたしは笑いながらポップコーンを袋からガラスの皿に盛る。
「おれ、学校や外での町田しか知らないから、変に感動する」
テーブルにポップコーンの皿とジュースを置き、テレビをつけ、DVDをセットする。結局、ベティ・デイヴィスの映画を観ることにした。それから篠原の隣に座って、リモコンを操作する。
「篠原は、映画観る?」
「あんまり」
彼はいつもより大人しい。借りてきた猫のようだ。
「わたしはわりと好きだったな。演劇始めたし、これからはたくさん観ようと思ってる」
映画が始まった。カラー映画で、この間モノクロ映画で観たベティ・デイヴィスが、銀髪の老女になってわたしの目の前にいる。彼女は、わがままな姉だ。献身的な妹を、傷つけてしまう。その感情の起伏の描写や演技が美しい。
わたしと篠原は無言で映画に見入っていた。隣に彼がいることを感じながら観る映画は、いつもとは全然違う。いつもより作品に感じ入る気がした。感動が二倍にも三倍にもなるような。
映画のエンドロールはとても静かで、余韻のあるものだった。運動不足の感情を運動させたような、心地いい余韻。
「よかったね」
と言うと、篠原は、
「うん」
とうなずいた。
「この女優に町田が憧れるのもわかる気がするな。魅力的な演技とか、こういう静かな映画を盛り上げる実力とか、才能そのものって感じ」
「だよね。もっと観なきゃなあ」
テーブルに積み上げたDVDの山に手を伸ばし、わたしはじっくり吟味する。うーん、とうなりながら、ふと時計を見る。
「あ、ご飯どきだね」
はっとして、わたしは篠原に声をかけた。彼はきょとん、としてわたしを見た。
「食べてく?」
「食べていいんなら、食べる」
彼は笑った。でもね、とわたしは言う。
「ご飯はあるけどおかずがないんだ」
「おかずの材料がないの?」
「……あるけど料理できない」
篠原は声を上げて笑った。わたしは恥ずかしくなり、もう、と文句を言う。
「篠原は料理できるだろうけどさ、うち過保護で料理させなかったから、できないの。ゆで卵すらちゃんとできない」
「じゃ、おれ作るよ」
篠原は笑い止むことができないまま、そう言った。わたしはぱっと嬉しい気分になる。
「本当? うわあ、すごく楽しみ」
「簡単なものでいいなら」
篠原は立ち上がり、台所に向かう。わが家はリビングダイニングで、台所も直接続いている。彼は手を洗うとわたしに断って冷蔵庫を開き、中を点検した。長ネギとほうれん草、卵、ベーコンを取り出し、調味料の棚からも何か出して、小鍋とフライパンをわたしに出させると、慣れた手つきで料理を始めた。
「テレビ見てていいよ。おれ一人で作るから」
彼は笑ってわたしに言った。周りをうろうろしていたわたしは、その言葉にほっとしてダイニングの椅子に座った。とんとん、じゅうじゅう、と食材が切られたり焼かれたりが同時に進行する音が聞こえる。
「おれが作らなかったら、何食べるつもりだったの?」
篠原の言葉に、ぐっと詰まる。
「……一緒に出かけて、牛丼屋さんで食べようと思ってた」
彼はからからと笑った。
「栄養偏るぞ」
「いいじゃん。牛丼おいしいじゃん」
第一、一食くらい栄養の偏ったものを食べてもいいじゃないか。わたしはぶつぶつとつぶやきながら、彼が料理する様子を眺める。
じゃっ、じゃっ、といい音がし始めた。慌てて見に行くと、フライパンでご飯を材料と共に炒めているらしく、彼の手つきは鮮やかだ。
「炒飯?」
「うん。おれの得意料理」
「へえ。それは何?」
火にかけられた小鍋を指さすと、彼は「中華スープ」と答えた。へえ、と感心すると、彼は機嫌よく笑った。
できた料理を、器に盛っていく。いい匂いだ。中華スープは卵とほうれん草が入っていて、胡麻が浮き、見た目もきれい。いただきます、と手を合わせて食べ始めると、とてもおいしかった。母が作るのとは味つけが違う。それがかえって心地いい。
「おいしい」
と言うと彼は「よかった」と安堵するように笑った。
「篠原は、いつもご飯係なの?」
「いや。何でも係。家族で分担して何でもやってる」
「優二君は?」
「あいつはあんまりやってないな。料理はやってない。洗濯と掃除くらい」
「偉いね」
「まあ、そうかな」
「篠原の料理を食べられる家族は、幸せだねえ」
「それは言いすぎ」
篠原はけらけら笑った。それから少し暗い顔になる。
「おれ、父親と話さないし。食卓は、父親と弟のものだから」
「……寂しいね」
「そう、かな。まあ、気まずいから朝は父親が料理するのに任せて、朝食を学校で取るんだ」
「そうなんだ」
しばらく考えて、用心深く訊く。
「……篠原は、家族と仲良くしたい?」
篠原は驚いたようにわたしを見る。どきどきしながら待っていると、彼は考える顔をした。
「まあ、そうなのかも。雰囲気のいい家族が、羨ましいかもしれない。でも、父親と仲良く話す自分が想像できない」
篠原は最後にきっぱりと言った。わたしは彼と彼の父親の関係の難しさを思った。きっと、簡単に乗り越えることのできないものがそこにあるのだ。
ごちそうさま、と手を合わせ、二人で皿を洗った。皿洗いくらいならわたしもできる。そのあと、また映画を観た。
「ノスタルジア」を観た。不思議な映画で、心地よく観られるのに段々眠くなる、美しい映画だった。ソファーに彼と二人で座り、わたしはこくりこくりと船を漕いでいた。おかしな夢を見た。わたしは篠原と映画の世界を歩いていた。「ノスタルジア」の世界、ベティ・デイヴィスの映画の世界を歩き、「ローマの休日」で篠原とバイクでローマの街を走り抜けたりもした。ああ、これは夢だ、と気づいたときには映画は終わっていて、わたしは篠原の腕に寄りかかっていた。体を起こすと、篠原はわたしをじっと見つめた。
「ごめん、寝てた」
よだれが出そうになっていたので慌てて口を閉じた。篠原はわたしのために体を動かさずにいてくれたらしく、ふう、と息をついていた。
「キスしていい?」
篠原が突然訊いた。真顔だった。
「え」
「許可取ろうと思って待ってた」
「いい、けど」
彼はわたしの肩を掴み、顔を寄せてきた。どきどきする。至近距離で彼の顔を見るのは、未だに慣れない。鼻が触れた。唇が触れた。押しつけられた唇は、かさついていた。目を閉じ、精一杯応じる。唇は、更に二度わたしの唇に触れた。それから、彼は体を離した。
「いつだって町田のことを思ってる」
篠原は、わたしの目を見て言った。
「幸せであってほしいと思う」
でも、と篠原は続ける。
「欲望だらけのおれは、町田にとって有害な人間だって気がする」
いいよ、と言いそうになった。篠原だったら何だっていいよ。何されたっていいし、何だってしてあげたい。でも、彼にとってその言葉が毒なのだとわかった。彼は、ただ、許可がほしかったのだ。
「一緒にいて、いいかな」
彼は言った。そんなこと、許可を求めなくたっていいのに。でも、彼は真剣だった。永遠に一緒だよ、とかずっと好きだよ、とかのリアリティーのない言葉ではなくて、今とこれからしばらくのことで許可がほしいのだった。彼の自信のなさがうかがえた。彼のそういうところが、いじましかった。
「いいよ。わたしだって一緒にいたいから」
彼はほっとしたように体から力を抜いた。わたしは彼の両手を取った。
「わたしのこと、振らないでね」
「そんなこと、あるわけない」
あるとしたら逆だ、と言わんばかりに彼は笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます