5.まだ、始まったばかり

「部活始めたんだ」

 と言うと、両親は目を丸くした。夕飯は好物の天ぷらで、わたしはお腹いっぱい食べたあとだった。

「何の部活?」

 母が訊いた。半分になった海老天をお皿に置いてまで訊くほど驚いたらしい。

「あ、部活じゃないか。同好会。演劇同好会」

「演劇だって?」

 父が持っていた箸をパチンとテーブルに置いた。わたしは思わぬ両親の反応にびっくりしていた。中学時代に友達のつき合いで文化系の部活を短期間やったことはあるが、わたしが演劇同好会を始めたことは、かなりの驚きだったらしい。

「大変じゃない? 声出したり、演技したりするんでしょう?」

 母は早くも心配そうだ。わたしは安心させるために、

「まだ始まったばかりの小さな同好会だし、そんなに大掛かりなことはしないよ。声出しだってちゃんとする」

 と笑って見せた。両親が顔を見合わせる。父が更に訊く。

「怖い先輩とか、いないだろうな」

「大丈夫。わたしたちが一番上の学年」

「先生は?」

「顧問は国語科の中村先生。すごくいい先生だよ」

 母は眉根を寄せ、父は腕を組んでうーんとうなった。

「初めてちゃんとやってみたいと思ったんだ。明日から練習が始まるんだよ。楽しみ」

 わたしはまだ温かいほうじ茶をごくりと飲み、両親をそれぞれ見た。二人とも、心配そうだった。わたしのことだから、いじめられたり、仲間外れにされたり、めげたり、無気力になったりすると思っているのだろう。でも、今度こそはそんなことはなさそうだった。何より、わたしは演技というものをしてみたかったのだ。

「歌子ちゃん……」

「よし、頑張れよ」

 母が悲しい声音で何かを言おうとしたとき、父が大きな声でそう言った。わたしは笑顔になる。父ならそう言ってくれると思っていた。

「歌子も、たまには頑張るということを楽しんでもいいはずだ。やりたいんだったら、頑張りなさい」

 父はにかっと笑った。母はまだ心配そうだったが、父に同意することにしたらしい。わたしはにっこり笑ってうなずいた。


     *


「演劇?」

 岸君が大きな目を真ん丸にし、額にしわができるほど眉を上げた。篠原はぱちくりとまばたきをしている。渚もその場にいて、「ああ、結局入ったんだね」と笑った。

「そう、演劇。今日の内容は発声練習と、筋トレと、寸劇だって」

「筋トレ! 寸劇!」

 イメージに合わないと言わんばかりに、岸君が素っ頓狂な声を上げた。心外だ。ここは篠原たちの二組の教室だ。三人が固まって話をしていたので、そこに混ざって昨日のことを報告したのだった。

「わたし、映画見せられてね、それが演劇の世界の舞台裏をテーマにした作品でね、女優役の女優のベティ・デイヴィスっていう人がすっごく天才的な演技でね、ハマっちゃったの」

「女優やるの?」

 篠原が真顔で訊いた。わたしは何故か、照れた。

「わかんない。まだメンバーは四人しかいないし、演技する機会も場所もないと思うから、しないかもよ」

「え、文化祭があるじゃん」

 渚が口を挟む。わたしははっとした。

「文化祭って、二年生のクラス対抗の出し物が中心みたいになってるけど、そのあと部活動主催の出し物とかも体育館でやるじゃん。ギター弾ける子はギター弾いて、歌える子は歌って、踊れる子は踊って。演劇同好会も何かちょっとした劇とかやるんじゃない?」

 どきどきし始めた。まだ部活動をちゃんとやってもいないのに。

「二年の出し物も、結構クオリティーの高い劇とかやってるときあるし、そっちに出るのもいいんじゃない?」

 それは少し勇気のいることだったが、面白そうだとは思った。でも、今は放課後の演劇同好会の練習のことで頭がいっぱいだった。大声を出す。表現をする。どれもあまりしたことのないことだったが、楽しみだった。

「町田、大丈夫か?」

 篠原は心配そうだ。わたしはうなずいた。

「心配なら見に来てもいいよ。視聴覚室でやるんだ」

 部室らしい部室のない演劇同好会は、音響設備が整った視聴覚室で活動をするようだった。


     *


 大谷さんに言われた通り、グレーのいつものジャージを着て、川野さんと三人で視聴覚室に向かった。大谷さんはわたしが同好会に入ったことが嬉しくて仕方がないらしく、わたしをひたすらおだてている。

「町田さん、かわいいもんね。舞台では映えると思う。お顔小さいし、足も長いし、スレンダーだし、男子にももてるし……」

「褒めすぎだよー」

 わたしは大谷さんのはしゃぎように、一歩身を引いていた。こういう褒め言葉はいつ悪口に転じるかわからないから、話半分に聞くのが一番だ。川野さんは無言で大谷さんの隣を歩いていた。彼女は、教室ではいつも一人だった。たまに大谷さんが絡むくらいだ。

「何より戯曲とか文学とか、ちゃんと読んでるのが強みだよねー」

「最近読み始めただけだよ。戯曲だって鏡花のを二つ読んだだけだし」

「またまたー。町田さんが埋もれてたのは信じられないよ。昨日気づいたけど、声も可愛くて、張りがあるしね」

「……よく言うよね。一昨日まで町田さんは大人しくて演劇には向いてないと思うって言ってたくせに」

 川野さんがぼそっとつぶやき、大谷さんは凍りついた。わたしは、ため息をつきたいのを抑えていた。ここでも、人間関係は複雑に絡み合っているらしい。おまけに、わたしがしばらく勧誘されなかった理由まで暴露され、わたしと大谷さんは、話す勇気すらなくなってしまった。

 別に、いいのだけれど。わたしが軽んじられるのは、いつものことだ。

 視聴覚室に着くと、一年の真島さんが待っていた。彼女はマッシュルームヘアに近いショートボブで、表情にとぼしく、体も小さい。どういういきさつでこの同好会に入ったのか、気になった。

 皆で部屋の机と椅子を半分後ろに寄せ、そのあとは所在なくそこにいた。先生はまだのようだ。

「……とりあえず、腹筋しよっか」

 大谷さんが、おずおずといった様子でそう言った。わたしたちは筋トレよりもすることがないほうが苦痛だと言わんばかりにその案に飛びついた。他の二人が床に寝転び、足を上げて腹筋運動を始めた。わたしは大谷さんに教わって、昔とは違うのだという腰を痛めない腹筋運動の方法を教えてもらった。

 いち、に、さん、し……と声を上げながら、背中を丸める運動をする。運動を全くしないわたしには、これすら大変だった。驚いたことに、川野さんのペースは速い。軽々と五十回をこなしてしまい、先に休憩に入っていた。水筒のお茶をごくりと飲んでいる様を見て、今日は大きな水筒にしてよかったと思う。それくらい、喉が渇く。

 体幹を鍛える運動、というものを何通りか済ませた。わたしは早くも疲れていて、もう帰りたいと思っていた。

「遅れてごめんなさい。もうやってる?」

 中村先生の慌てた声が聞こえ、わたしたちは先生のほうを見た。先生も、ジャージだ。初めて見る先生の格好に、ああ、これは授業とは違うのだ、という実感が湧く。

「偉いわね。自分たちでやってたの」

 いいえ、沈黙に耐えられなかっただけです、とは誰も言わなかった。大谷さんはぱっと立ち上がり、先生に駆け寄る。

「遅いですよー、先生。発声練習はまだですけど、筋トレは皆で済ませました」

「町田さんも? いきなりはきつかったでしょう」

 先生の言葉に、わたしは声もなくぐったりと笑った。確かに、思ったよりもきつかった。

「町田さんの体力が回復するまで、皆で自己紹介をしましょう」

 先生は優しく微笑んだ。わたしは先生のいたわりに、感謝する。

「名前と学年と、同好会に入った理由やきっかけ。皆互いをまだ知らないし、仲間意識を生むきっかけになると思うの」

 大谷さんと川野さんが顔を見合わせる。真島さんは一人、考えている。わたしは、タオルで汗を拭いてぼんやりしていた。理由やきっかけか。わたしは、この間の映画だ。ベティ・デイヴィスに憧れて……。

 真島さんが先生に指され、立ち上がる。彼女は思っているよりも大きな声で話し始めた。

「真島ほのか、一年生です。ええと、きっかけは大谷先輩に声をかけられたからです。大谷先輩、中学の時に美術部の先輩で、お世話になったので……あの。わたし、無表情とか、暗いとか怖いとか言われること多いんです。自己表現ができるようになったらいいなと思って入りました」

 大谷さんが大袈裟に拍手する。わたしは、真島さんを見た目で判断したことを後悔していた。彼女は自分を変えたいと思っているのに、見たままに彼女の人間性を判断してしまった。彼女はきっといい子だ。

 次に指されたのは川野さんだ。川野さんはだるそうに立ち上がり、こう言った。

「川野美登里、二年です。……夏子に、大谷さんに声をかけられて、逃げられなかっただけです。どうせ部活辞めたし、暇だからいいかなって。だから、大した理由はないです」

 一応、といった感じで拍手がされた。大谷さんは気まずそうに川野さんを見ている。川野さんは、どさっと腰を下ろした。

 次は、大谷さんだ。大谷さんは勢いよく立ち上がり、大きな声でこう言った。

「大谷夏子。二年です! 夢は、映画監督です!」

 わたしは目を丸くした。川野さんと真島さんは当たり前のように聞いていて、どうやら大谷さんの夢は周知の事実のようだった。中村先生がにこにこ笑って聞いている。

「皆、旧ソ連の映画って観たことあるかな。『ざくろの色』とか、『ノスタルジア』とか。『ノスタルジア』で有名なアンドレイ・タルコフスキー監督は知ってる? 幻想的で、芸術的で、美しい、深層心理に潜り込むような、うっとりするような作品を作る人なんだけど。わたしの夢は、そういう人の心をえぐるような美しい映画を作ること。だから、映画同好会とか、そういうのを考えてたんだけど、わたしは気づいたの。俳優だって映画には必要だって。わたしは人が演じる映画もすごく好きで、人生を描いた作品にすごく感動するの。だから、演劇同好会を作りました。演劇をやって、俳優というものを知りたい、研究したい。それに共感してくれた中村先生は大学時代演劇をしていたとのことで、顧問になっていただきました。皆が色んな思いでこの同好会に入ったのは知ってるけど、皆で、卒業までの短い期間、ぐわーっと一団になってみたいと思ってます。よろしくお願いします!」

 思わず大きな拍手が出て、川野さんたちがわたしを見た。恥ずかしくなって、拍手を小さくした。何だか、すごい熱に中てられてしまった。体中がぽかぽかする。

「じゃあ、町田さん」

 中村先生が、わたしを指した。わたしはどきどきしながら立ち上がる。まとまりのない言葉が段々形になって、口からとつとつと溢れてきた。

「町田歌子、二年生です。あの、わたしも大谷さんに誘われて入りました。昨日の映画を観て、本当に、本当に何の経験もないんですけど、……演技をしてみたいと思いました。よろしくお願いします」

 拍手が起きた。皆が手を叩いていた。何てことのない、彼女たちにとってはいつもと同じ拍手だ。なのに、ひどく誇らしかった。中村先生が笑っていた。大谷さんは少し手を上げて拍手してくれていた。

「クラスでの自己紹介よりはよかったよね」

 と川野さんが皮肉交じりに言った。でも、その言葉に否定よりも肯定が多く含まれていることに気づいて、嬉しかった。

「さあ、発声練習に入るわよ。町田さん、演技をしたいなら頑張ってね」

 先生はにっこり笑った。わたしたちは、はい、と声を合わせて応じた。まだ揃っていない、小さな声だけれど、何となくまとまりができた気がした。

 初めての発声練習は、気持ちがよかった。腹式呼吸で声を出す練習だとか、早口言葉だとか、今までやったことのない大きな声を出すということは、体中が喜びに溢れるような気持ちにさせてくれた。

 川野さんはやる気はなさそうだった。でも、真面目にやっていた。

 真島さんは、一生懸命大きな声を出していた。

 大谷さんは、誰よりもやる気満々だった。声だって、誰よりも大きい。

 わたしの声は、まだ安定していない。思ったような声が出ない。でも、とても満足だった。

 何となく、やっていけそうな気がした。わたしは、今までとは違う自分に近づいているような、そんな気がしていた。

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