4.誰かの背中を押すということ

 教室でぼんやりしていた。篠原のことを考えていた。これまでの彼について、今の彼について。どうするのが一番彼のためになるのか、わたしはどうすればいいのか。手元の文庫本は開きっぱなしで、十分ほどページがめくられていない。読もうとしても頭に入ってこない。

「何読んでんの」

 背後から聞こえた声に、びっくりしておかしな声が出た。渚だった。彼女はわたしの文庫本を覗き込むと、「うへえ」とつぶやいた。机を寄せながら、「難しい本読んでるね」と言う。そういえば、もう昼休みだ。お弁当を教室の後ろの棚に取りに行き、同時に包みを開いた。渚のお弁当はこの間と似たり寄ったりだったが、ゆで卵が入っていることですっきりと明るく見えていた。

「あたし、本読むのは好きだけど、そこまでマニアックなのは読まないな」

 わたしが読んでいるのは泉鏡花の「海神別荘」だった。難しくはないけれど、パッと見て現代語ではないのは確かなので、渚がそう思うのは仕方がない。

「渚は何読むの?」

 わたしは上目遣いに訊く。同時に卵焼きを頬張った。渚は少し考え、

「ティーン向けのシリーズとか、読むかな。吸血鬼もので、人間の女の子と吸血鬼の男の子が色々あるやつ」

「あ、映画化したやつ!」

「伯父に読めって言われて、しぶしぶ読んでたらハマっちゃったパターンね」

 渚は苦笑した。わたしは少し不思議に思って訊いてみた。

「伯父さん、『トワイライト』好きなの?」

 ぶはっと渚が笑った。何がおかしいかわからないまま、わたしはプチトマトを頬張る。歯を立てると果汁が弾け、今日のプチトマトはすっぱかった。

「違う違う、英語の勉強に読めって言われて今そこそこ流行ってるらしい本を押しつけられただけ。伯父はそういうタイプじゃないよ」

「英語?」

 わたしが訊くと、渚は言いにくそうにこう続けた。

「『トワイライト』は英語版が元で、その英語版を読んでるの」

「えっ、すごーい!」

 外国の本を外国語で読める生徒など、この学校に何人いるだろう。英語を学んでいても、そこまでのレベルの生徒は滅多にいない。わたしは心から感心した。

 渚は戸惑っていた。わたしから何か別の反応が出ると思っていたらしかった。

「……何かさ」

「うん」

「歌子はすごいよね」

「何が?」

「洋書読んでますって学校で言ったら、嫌味ったらしいとか、かっこつけてるとか言われるんだけど、歌子にはそういうところがない」

「だって、すごいよ。わたしはできないもん」

 わたしはほうれん草のソテーを食べながら言う。渚は、自分のゆで卵を箸で突き刺して、それを口に運ぶ手前で止めた。

「……学校中の皆が歌子みたいだったらいいのに」

 それからぱくっと半分にカットされたゆで卵を口に入れた。わたしは、大きな声で褒められたような気になってどぎまぎした。何気ない一言が誰かを救うことはある。渚にとって、わたしの言葉がその一つだったらしい。彼女は、今まで溜まっていた思いを吐き出すように、続けた。

「学校の試験でね、数学が満点だったとするでしょ。そのときは『おおー』って教室で言われる程度なの。でも、次の化学で満点を取ると、皆が半笑いになるの。天才は違うね、って言われるわけ。先生も、数学オリンピックとか、物理オリンピックに出ないかって言うわけ。伯父さんも、――さっき言ってた伯父さん、アメリカに住んでてね――お前は他の連中とは違うんだから早くこっちに来て勉強したらいいって言うの。でも、あたしなんて本当に平凡な才能で、SNSなんかで海外の子たちと繋がってみると、あたしなんて本当に普通なの。あたしよりすごい人たちがいて、あたしがまだわからないような難解な物理学の問題を、あたしより若いのに解いちゃったりするわけ。なのに学校では遠巻きにされて、特別だって言われる。……何か、疲れる」

 わたしは、うなずいて聞いていた。彼女の悩みはわからなかった。わたしは彼女のように、才能について悩むことなんてなかった。才能があるかどうかすら考えたことがなかったし、特別扱いされることなんてなかったからだ。でも、彼女に惹きつけられ、どうにか彼女を迷いや悩みから引き離してあげたい、という気になっていた。わたしは、こう言った。

「渚は、自分の才能を試したことはないの?」

 彼女は、戸惑いながら「あんまり」と答えた。

「わたしは、試すべきだと思うことがないくらい突出したものがないけどさ、渚はあるんじゃん。何かやってみたら?」

「先生が、物理オリンピックの日本版みたいなのを個人資格で試してみたら、とは言ってる。伯父さんも、そういうので実績を残したら、向こうの大学に入りやすくなる、とは言ってるけど」

「やってみたら?」

「……うん」

 渚は微笑んだ。わたしはほっとして、お弁当を片づけた。もう空っぽだった。

「あたし、将来は物理学者になりたいんだ。天才がひしめくその世界でやってく自信がなくなってたんだけど、……歌子のお陰でちょっとは試そうって気になった。ありがとう」

 渚はそう言い、自分のお弁当をつついた。

 彼女のことは、まだよく知らない。わたしの言動も、不用意なものかもしれない。わたしのこの一押しが、彼女の将来を変えるのかもしれない。でも、彼女はわたしに敬意を抱かせた。真剣に自分の生き方を考えている姿は、素直にすごいと思った。だから、こんな地方都市ではなく、都会の一流校に通っていたら抱かなかったであろう苦悩を抱いているのはもったいないと思ったのだ。わたしくらいは励まさなきゃ。その一心だった。

 わたしも、彼女のように生きられたらいいのだけど。その憧れも、その原動力だったかもしれない。


     *


 次の日も、わたしと渚は教室でお弁当を食べていた。渚はあれから先生に言い、物理オリンピックの日本予選に当たる大会に申し込むことにしたらしい。

「才能を試すっていうのは、どきどきするもんだね」

 それにしてはリラックスした表情で、渚はご飯を頬張った。

「歌子は、何か目指してる道とかないの?」

「ないな」

 わたしは断言した。わたしは、ただ生きているだけだ。将来何をしたいか、目指すものは何か、何も思い浮かばない。

「わたしは、何もない人間だから」

「そうかな。人間的魅力が溢れてるよ」

 渚はそう言ってくれるが、そう思ってくれるのは彼女くらいなものだ。わたしくらい地味で特徴のない人間はいないと思う。現に、わたしは自分の話をするのが苦手だ。何も話すような特別なことがないからだ。

 不意に、渚が顔を上げた。わたしではない誰かを見ていた。振り向くと、篠原が立っていた。心がぱっと華やぐ。

「どうしたの? 篠原」

「いや、……どうしてるかなと思って」

 篠原は顔を掻いた。「会いたい」と思ってくれたのだ。嬉しくてたまらない。

「座りなよ。三人でおしゃべりしよう」

「いいよ。弁当の邪魔だろ」

「座ればいいじゃん。別に邪魔じゃないよ」

 渚が隣にあった椅子をわたしの隣に押しやった。篠原はゆっくりと座る。篠原は渚を見ていた。何か訊きたそうに、口を開く。

「篠原、歌子っていい子だね」

 先に渚が話し始めた。篠原はうなずき、「おれもそう思う」と続けた。わたしは照れ笑いをし、二人の様子を見る。無表情だ。二人とも、用心深く互いを見ている。

「あたし、歌子のことがすでに大好き。まだちょっとしか話したことないけどね」

 渚の言葉に、篠原はうなずいた。何だかぎこちない会話だ。

「歌子は、何もない人間じゃないよね。本人がそう言ってたんだけどさ」

「町田は、偉大だと思う」

 篠原の言葉に、渚は目を丸くする。それからお弁当に戻る。わたしは、この間のことを思い出して少し赤くなる。篠原が不意にこう言い出した。

「雨宮はさ、この間の自己紹介で言ってたけど、タイムマシンはやりすぎだと思う」

「え」

 渚が固まった。

「あれじゃあ教室中が引くよ。実在しないと思ってるんだからさ。特殊相対性理論の研究してます、くらいでよかったんじゃないか」

「あんた、わかってたの?」

 渚が素っ頓狂な声を上げた。篠原はぴくりとも表情を動かさずにうなずいた。

「え、じゃあ何で話しかけてくれなかったの? あたし、わかってくれる人を探してああいうことを……」

「やり方があからさまで、こっちも引くというか。おれ、雨宮自身にはあまり興味なかったし」

「言ってくれるね」

 そう言いながらも、渚は嬉しそうだ。わたしはぽかんと二人を見ていた。渚はわたしに笑いかけた。

「仲間、早くも見つかったよ」

 それから、渚と篠原は難しい物理や化学の話を始めた。どうやら篠原は渚のように大学レベルの勉強を本気でやっているわけではなかったようだが、彼の成績を鑑みれば当然と思えるくらいの知識を持っていた。わたしが頬杖を突いて聞いていると、二人ははっと気づいてわたしに謝った。わたしは自分のことを話すよりも人の話を聞いているほうが楽しいたちなので平気だったけれど、二人は気にしたようだ。

 渚と篠原は友達になった。渚はとても嬉しそうにしていた。それだけで、わたしはほっとした。

「次、移動教室だぞー」

 岸君がやって来て、篠原に声をかけた。次の瞬間、岸君は、渚を見てどぎまぎしていた。渚は美人なので、当然だろう。渚は機嫌よく彼に微笑みかけ、彼は余計におろおろした。

「あたしも行かなきゃ。ね、三人で行かない?」

 渚は立ち上がり、二人に声をかけた。二人が了承すると、渚はわたしを見下ろし、嬉しそうに笑った。

「何だか、あたしの高校生活が歌子のお陰で上向いてきた気がする。……何か、すごい」

 わたしは微笑んだ。わたしだって、そう思ってくれる人が増えるというのは喜ばしいと思う。

「じゃあね。また」

「またね」

 わたしと渚は手を振り合った。篠原は、目を細めてわたしに笑いかけた。多分、わたしに友達ができたことを喜んでくれているのだ。

 それにしても、と思う。わたしは、何て特徴のない人間なんだろう。渚や篠原のように突出した人間にならなくても、何かがほしい。一生かけても、そんなものは見つからない気がするけど。


     *


 渚は篠原や岸君に満足したようだった。三人で話したあれこれを、わたしに報告する。わたしはうなずき、時折笑う。笑うのは主に、岸君の話だ。話の中の岸君は、わたしといるときよりも冗談を飛ばしているような気がする。

 放課後の教室には、数人の生徒が残っていた。そんな中、渚のハスキーな声は目立っていた。

「でね、岸があたしに――」

「雨宮さん」

 誰かの声がして、わたしたちの会話は中断した。声のほうを見ると、大谷さんだった。パワフルな笑みを浮かべ、手を合わせ、渚をじっと見ている。

「邪魔してごめんね。雨宮さん、最近教室によく来るじゃない? 気になっちゃって。あのー、美人だから」

 渚は大谷さんを胡散臭そうに眺めた。おかっぱ頭で大きなフレームの眼鏡をかけた大谷さんは、エネルギーに満ちた表情でジェスチャー交じりに渚に話しかけていた。

「わたし、演劇同好会始めたの」

「そうなんだ」

「メンバーは、今のところ一年の女の子と、わたしと、二年の川野さん。三人しかいないわけ」

「へえ」

「顧問は国語科の中村先生。副顧問は音楽の幾野先生」

 わたしの肩がぴくっと跳ねた。中村先生がやっている同好会か。少し、気になった。

「雨宮さん、入ってくれないかなあ? もちろん俳優をやってもらいたいんだけど」

 大谷さんの向こうで、彼女の友達が「あちゃあ」と言っているのが聞こえた。なりふり構わず誰にでも声をかけ、とうとう学校で遠巻きにされている渚に声をかけた大谷さんに呆れているようだった。

 渚は一瞬考え、「ごめん」と言った。大谷さんはしょんぼりしていた。

「あたし、演劇とかそういうのわかんない。演劇って、文学とかそういうのがわかってなきゃいけないんでしょ? あたしには縁遠いかなって」

「そっかあ」

 大谷さんは肩を落として戻ろうとした。渚はこう続けた。

「歌子ならいいんじゃない?」

「えっ」

 わたしと大谷さんが同時に声を上げた。渚はわたしの目の前にある文庫本を手に取り、大谷さんに見せた。

「歌子、こういう日本の文学? みたいなのよく読んでるし」

「ちょっとちょっと、渚」

 わたしが慌てていると、大谷さんがまじまじとわたしの本を見つめていた。

「『海神別荘』、読んでるの? 鏡花の戯曲……」

「読んでるけど、わたしは……」

「やってみよっか、町田さん」

 大谷さんが大きな声を出した。わたしはびっくりして彼女を見る。彼女はわたしの手を取り、温かい手でぎゅっと握って大袈裟なくらいに笑顔になった。

「演劇同好会、入ろう!」

「……え」

 大谷さんはわたしを渚の前から連れ去り、教室を出てから渡り廊下を渡り、勢いよく視聴覚室に連れ込んだ。そこではぼんやりとした表情の川野さんというクラスメイトが椅子に座っていて、気の弱そうな一年生の女の子が離れた場所にいた。大谷さんは、わたしを彼女たちに紹介した。

「今日から仲間になった、町田歌子さんでーす」

「ちょっと、大谷さん。わたしまだ決めたわけじゃ」

 川野さんと一年生の女の子は、興味なさげにわたしを見た。川野さんは教室でもこんな調子だ。多分、彼女も大谷さんに無理矢理同好会に入れられたのだろう。ツインテールの髪と短いスカートは見覚えがあって、川野美登里さんは一年生のときには明るい子だったと思う。一年生の子は、真島さんと言って、ショートカットヘアの大人しそうな子だった。

「そんなこと言わないでさ、今日の上映は特別なんだから観てほしいな」

「上映?」

 見ると、スクリーンが引き下ろされていた。何が上映されるのだろうと思って見ていると、扉から中村先生が入ってきた。満面の笑みだ。

「今日上映するのは昔の映画よ。白黒だけど、往年の女優ベティ・デイヴィスの有名な作品で、彼女の演技は素晴らしいからようく見てね」

 先生は、わたしに目を留めた。あら、と言うと、大谷さんは「町田さんも観たいそうです」と言った。わたしが文句を言うよりも先に、中村先生は察したらしい。

「嫌だと思ったら逃げることね」

 と困ったように笑った。それから、「今日の作品を観るだけでも観てね」と大谷さんと同じことを言った。

 パチン、と部屋の灯りが消された。元々カーテンを閉めてあった視聴覚室は、かなり暗くなった。先生が機械をいじる気配がし、スクリーンには真っ白な光が照射された。しばらくして、音楽と白黒の映像が流れ、わたしたちは映画を観始めた。タイトルは、「イヴの総て」。

 それは、わたしの運命を変える映画だった。


     *


 気づけば映画は終わり、わたしは演劇同好会に入っていた。今日のように映画を上映するのは特別で、普段は筋トレや発声練習などを中心にやっているらしかった。わたしは明日からの活動内容をふわふわと聞き、映画の内容、ベティ・デイヴィスの哀調溢れる演技を思い出していた。頭から消えなかった。彼女の表情の一つが、わたしの視界いっぱいに映し出されているような感覚だった。あの表情。演劇同好会に入ったら、わたしもあんな演技をできるようになるだろうか。そんなおこがましいことまで考えた。

 ベティ・デイヴィスという女優は天才だった。わたしを遠くかなたまで引っ張り出し、過去のぼんやりと何にも興味を抱かずにいた時間は何だったのだろう、と思わせるような、魅力を持っていた。

 演劇をやろう。単純にもわたしはそう思っていた。

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