3.願わずにはいられない

「お好み焼き屋、行かないか」

 篠原が珍しくそんなことを言うので、わたしはきょとんとした。いつものハンバーガーショップやコーヒーショップでもなく、お好み焼き屋に? そもそも、この辺りにお好み焼き屋はない。あるとしたら、もっと街のほうか、全く違う場所だ。

 篠原は珍しくうろたえ、うなずかないわたしを困ったように見た。ここは学校にある購買部の横の、広いテラスだ。雲のない青い空が眼前に広がり、風が肌を撫で、制服のスカートを揺らす。

「嫌、かな」

「ううん。お好み焼き屋って、あったかなーと思ってね」

 彼はほっとしたように、それでもまだわたしの態度に油断はできないとばかりに用心深く、こう続けた。

「おれが住むところに、あるんだ」

「えっ」

 テラスの手すりから体を起こす。篠原を見ると、恥ずかしそうに顔を掻いている。

「お好み焼き屋があって、おいしくて、好きなんだ。町田にも食べさせたいって思って」

 きゅんときた。自分が好きなものを、分けたいと思ってくれているのだ。嬉しい。それに、何だか篠原のことがかわいく思えてくる。

「いいよ。行こう。篠原の家にも行くんでしょ? それも楽しみだなあ」

 わくわくして、拳をぎゅっと作って篠原に向き直る。篠原は、戸惑っていた。いやあ、と言い、何だか言いにくそうだ。

「どうしたの?」

「家には、呼べない」

「どうして?」

「家族がいるから」

 家族なんて、どこの家にもいるものだ。そんなに当たり前のものをわたしに見せたくないなんて、どれだけ信用されていないのだろう。

「篠原の家族、見てみたいけど」

「……弟なら、いいよ」

「弟がいるの?」

 そんなに大事な情報を、わたしはどうして知らされていなかったのだろう。篠原は、のろのろと、口が重くなったみたいに続ける。

「お好み焼き屋に呼んだら、いいのかな。近所だから来られるとは思うけど。あ、でも、弟は家で食べると思うから、……まあ、考えとく」

 篠原の煮え切らない態度に、わたしはじりじりとしながら色々考えていたけれど、結局はいつもと同じ結論に達した。それは、篠原が明かしたくない情報を無理矢理引き出してはいけない、ということ。これを破ると、関係に傷が入る気がして仕方がないのだ。

「楽しみにしてるね。わたし、篠原の住むところに行くの、初めてだからすごくわくわくしてる」

 わたしが笑って言うと、篠原はほっとしたように笑みを浮かべた。これでいい。ゆっくりと、彼の秘密のページをめくっていけばいいのだ。


     *


 水色の自転車に乗り、すいすいと街を進んでいく。服装は、初めてのちゃんとしたデートなのだからスカートにしようかと思ったけれど、長いスカートはペダルをこぎにくそうだし、短いスカートは問題外なのでショートパンツにした。帽子は白いキャップだ。もっとかわいい格好がよかったかな、と後悔しながら進む街は、ごみごみとして人だらけだ。土曜日のアーケード街の周りはいつもこんなものだ。それに、アーケード街は待ち合わせ場所でしかない。わたしは滑るように進み続ける自転車を、地面に足を下ろして止めた。人の会話がざわざわと聞こえる。自転車を押し、進んでいく。ファッションビルや食べ物屋が入った雑居ビルが立ち並ぶ中、人々がさざめくように話し、流れるように歩くのを避けながら、わたしは篠原を見つけた。こちらと同じポーズで、篠原は立っていた。自転車は黒いマウンテンバイクだ。全然違うのに、何だか鏡写しの像を見ているようだった。

 篠原は手を上げて笑った。わたしも笑って走り寄る。自転車が、小さく連続したチェーンの音を立てる。

 篠原は色褪せたジーンズがとても似合っていた。足が長くて、素敵だな、と思った。

「行こうか」

 篠原がそう言うので、わたしはうなずいて自転車を引いてついて行く。アーケードの外に着き、二人とも自転車にまたがってペダルをこぐと、視界は滑るように流れ出した。

 建物の高さが低くなり、街を出るころには道はカーブした一本道になった。わたしたちは川沿いを走った。遠くに街があり、左手に大きな川が見えるだけの景色が続く。風がわたしの髪を浮かせ、なびかせる。前を走る自転車には篠原が乗っている。大きな背中がわたしを導く。何だか、夢の中のようだ。あまりにも理想的で。このシーンは、儚いような気さえする。

 橋を渡る。縦に吊る構造の、褪せた緑の鉄の橋。車道はあまりにも狭く、自転車が通れそうにないので、わたしたちは歩道で自転車を押して歩いた。篠原が前で、わたしが後ろ。

「弟、何歳?」

「ん、十歳」

「うそ、まだ子供だね」

「おれたちだって子供なんじゃない? 未成年だし、自分だけじゃ暮らせないから」

「あ、そっか」

「弟、楽しみにしてたよ」

「そう?」

「……兄ちゃんの彼女、早く見たいって」

 篠原の顔は見えない。でも、多分照れている。こういうときは、わたしが篠原に好かれていると実感する。わたしはとても好かれている。キスをしようがすまいが、関係なく。

「篠原」

 声をかけた瞬間、篠原は自転車にまたがって走り出した。慌てて追いかける。

 何て言おうとしたんだっけ。多分、恥ずかしいことだ。

 街に入る。住宅地が多いわたしの住む地域とはまた違う、大きなお寺のある街は、何だか違う感じがした。お寺だけではない。小学校、中学校。それらの建物の感じも何だか違う。道は真っ直ぐに続く。両側に商店や家が並び、もっと向こうにはマンションが見える。年賀状を出した篠原の家はマンションだった。あの中に、篠原の家があるのかもしれない。

「この辺」

 篠原が振り向き、大きな声を出した。歩道をずっと進み、黒い壁の店が見えてきた。店の前にはのぼりがあり、そこにはお好み焼きの写真があって、この店が篠原の言う店なのは明らかだった。

 自転車が何台か前に停められていた。わたしたちはそこに自分たちも停め、中に入る。ソースの匂いをぷん、と鼻で感じた。熱気と湯気が顔に押し寄せてくる。いらっしゃいませ、と中年男性の元気な声が響く。篠原はわたしを連れて一番奥の席に向かう。分厚い木のテーブルに使い込まれたプレートが収まっている。そこに向かい合わせに座る。

「すいません、豚玉二人分」

 お冷やを持ってきた店員に、篠原がメニュー表も見ずに注文する。

「豚玉が一番安いけど、一番シンプルでうまいんだ」

 おしぼりで手を拭きながら、篠原は笑った。わたしはうなずき、店内を見渡す。ついたてで区切られた狭い店内は他の客が見えにくい。でも、お好み焼きを焼くときの湯気は見える。

「篠原、ここによく来るんだね」

「うん」

「一人で?」

「まさか。……剣道部の仲間と」

 びっくりした。篠原の口から剣道部時代の話が出るなんて。彼は頬杖をつき、わたしを見ないようにしながら続ける。

「中学のとき、皆でよく来たんだ。岸も一緒だったな。……あのころは、楽しかったな」

「今は、楽しくないの?」

 わたしは上目遣いに訊く。用心が必要だった。彼は明らかにうろたえ、同時に勇気を出してわたしに秘密を打ち明けようとしていた。

「楽しくは、ないな。何か、多分、鬱っぽくなってて」

 彼は顔を手で隠し、わたしから見えなくした。

「……どうして?」

「豚玉二人前、お待たせしましたー!」

 店員の若い男性が満たされたボウルと材料とお玉、小手が載ったお盆を持ってきて、テーブルの隅に置いた。それから素早くボウルの中身をお玉で鉄板に流し、豚肉を載せ、黙ったままのわたしたちを意に介さないような態度で焼いていく。

「ここまでで、いいです。あとは自分たちでやります」

 篠原は店員の手を止め、自分で小手を持った。店員が下がると、篠原は焼けるのを待ちながら再び話し出した。

「中学のころって、無駄な万能感で満ちてて、おれ、勉強できたし、剣道部でも主将だったし、怖いものなんかない、楽しいことしか知らない感じで。女の子とどうこうよりも、男友達とつるむのが楽しかった」

 だから町田が初めての彼女だよ、と篠原は笑った。

「家に帰れば母親がいて、弟がいて、弟はかわいいけど母親が鬱陶しくて。でも、ご飯はいつもちゃんとしたものを作ってくれて、お好み焼きを食べて帰ると母親に『食べてくるなら連絡してよね』とか言われてうるせえって思って」

 篠原はお好み焼きを器用にひっくり返した。わたしの分も、完璧な焼き具合だった。篠原は「岸のほうが上手いんだ。いたら最初の工程もやってもらうくらい」と笑う。

「母親、わりと教育ママで高校は県内トップの高校にしろってうるさくて、どこに行こうが同じだし、トップの高校は遠いし、ってことで今の高校にした。ぎゃんぎゃんうるかったけど、反抗してやった、っていう実感は受験のころにはなくて」

 言いながら、篠原はマヨネーズとソース、鰹節、青のりをお好み焼きにかけた。四角く切り分け、わたしに勧める。一口食べると、甘辛くてふんわりしていた。熱くて口の中で一旦冷やさないと噛めないけれど、味がわかるととてもおいしい。

「おいしい?」

「うん。ありがとう。連れてきてくれてよかった」

「よかった」

 篠原は微笑んだ。わたしは話の続きを待った。篠原が初めてちゃんとしてくれた家族の話。鬱っぽくなったってどういうこと? お母さん、何かあったの? 質問を畳みかけたくて、仕方がない。

「……母親、死んじゃったんだ。癌だって」

 篠原は自分の小皿にお好み焼きを載せ、箸を持ったままそう言った。それから、食べ始めた。わたしは呆然として彼を見ていた。わたしを見ていない。下を見て、顔を見せてはくれない。

「わかったときにはステージⅢで、体調も悪くなってて。治療をしたけどうまく効果が出なくて。段々弱って、最期は病院で。ごめんって言えなくて。反抗期だろうが何だろうが、うるせえって思ってごめん、ありがたみがわからなくてごめん、そういう言葉を何度も頭の中で練習したけど、言えなかった。そのまま。そのまま家に帰らずに、斎場に行って、火葬場に行って、骨になって帰ってきた。もう、後悔の嵐だよな。そこからずっと、落ち込んでるんだ」

 涙が溢れて止まらなかった。篠原が泣いていないのに泣くなんて、いけないと思ったけれど。

「ごめん。食べたあと話すべきだった」

 篠原が後悔した顔でわたしを見た。目に膜がかかっているように見えた。篠原の視界はまだ濁ったままなのだ。

 彼はグレーのハンカチを出し、わたしに渡した。顔を拭くと、今日のために塗ってきたマスカラのかけらがハンカチについた。

「そんな中で、町田は救いだったんだ」

「……どういうこと?」

 わたしは涙声で訊く。

「剣道辞めて、母親の代わりに家族に飯作って、ただ、意味もなく学校に通って。町田の存在は、泥水に蓮の花が咲いたみたいな感動があった」

「何それ。わたし、何にもしてないよ」

 わたしは高校の夏休みまで、篠原と関わっていなかった。なのに、どうしてそう思ったのだろう。

「篠原君、おはよう。そう言った」

 篠原は笑った。

「それだけ。挨拶しただけ。なのに、少しだけ目覚めた気がした。何か、煮詰まった頭に風が吹いたみたいな。だからすごいんだよ、町田は」

 篠原は突然言葉に力を入れ、わたしは笑った。本当にそう思っているようだった。多分、目覚めるべきタイミングでわたしが声をかけただけなのだと思う。それでも、彼はその瞬間が忘れられないのだ。

「よかった、挨拶して」

「本当に。町田はすごいよ」

 篠原は、わたしがいつも篠原に言っていることの返事をするようにそう言った。わたしは体が温かくなり、何となく、誇らしい気分になった。


     *


 お好み焼き屋でしばらく話したあと、わたしたちは河原にいた。コンクリートの段に座り、川をじっと見つめ、黙っている。

 携帯電話のバイブレーションの音がした。わたしのものではない。篠原はポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てた。

「ごめん、忘れてた」

 篠原が笑いながら言うと、甲高い声の電話の相手は大きな声で抗議する。内容は聞こえない。

「河原にいるから来れば?」

 相手は納得した様子で静かになった。それから別れの言葉を交わし、篠原は電話を切った。

「弟が来る」

「本当?」

 嬉しくてわくわくする。篠原の家族に会えるなんて、初めてのことだからだ。

 しばらく待って、話し込んでいるうちに力強い声が後ろで聞こえた。

「おーい、兄ちゃん!」

 振り向くと、篠原の弟にしては年齢に比べて小柄な少年がすごい勢いで階段を下りてくるところだった。

「転ぶなよ!」

 篠原が慌てて叫ぶ。少年はそれを無視してこちらに駆け寄ってくる。段を上がり、篠原の前に立つ。

「忘れるなんてひどいよ、兄ちゃん」

「ごめんごめん」

「え、彼女ってこの人?」

 少年はわたしを指さす。わたしはどぎまぎしている。

「うん」

「へえ。何歳?」

 少年は突然わたしに年齢を訊いた。わたしは笑いながら、十六歳だよ、と答える。

「まじで? 兄ちゃんと同い年じゃん! クラス同じなの?」

「違うけど、去年は一緒だったよ」

「へえー」

 少年はわたしをまじまじと見た。

「かわいいね!」

「ありがとう」

 これくらい小さい子に言われると、むしろ嬉しさが勝つ。わたしはにっこり笑ってそう答えた。篠原が少年に自己紹介を促した。そういえば、互いの名前を知らない。

「優二です!」

「町田歌子です。よろしくね」

 わたしはにこにこ笑う。優二君はわたしと篠原の間に座って足をぱたぱたさせていた。まだ五年生になったばかりらしい優二君は、子供らしさに溢れていた。

「兄ちゃんさ、兄ちゃんさ、かっこいいよね」

 優二君は前のめりにわたしに訊く。わたしはうなずく。

「かっこいいよね」

 篠原は照れ笑いを隠すように唇を噛んだ。

「剣道やってるときが一番かっこいいんだぜー。あっという間に相手を倒しちゃうんだから」

 わたしは篠原をちらりと見る。篠原は平気そうだ。さっきわたしに話したからだろう。

「いつか兄ちゃんがまた剣道始めたら、見てよね」

「やらないよ」

 篠原が静かに、わたしたちを見ずに言った。わたしはどきりとし、優二君は憤然となってつっかかる。

「何で? やればいいじゃん。兄ちゃん強いし、剣道好きだろ?」

「もう、好きじゃない」

 篠原は目を閉じたまま顔を空に向け、そう言った。優二君は勢いよく立ち上がった。

「嘘つけ! 知ってるんだからな!」

 それから、段を下りていく。

「兄ちゃんが家事しなくてもおれやるし、父さんだって……」

「優二、ここにいたのか」

 別の声がして、隣の篠原が固まった気がした。見上げると土手の上に背の高い中年の男性が立っていて、その人は眼鏡をかけたすらっとした人で、篠原に似ていた。静かな低い声で、その人は優二君に言う。

「声ですぐわかる。ご飯途中だろ。戻りなさい」

「わかった」

 優二君はあっさりと言う通りにした。段を最後まで下り、階段に向かって駆け上がる。

「総一郎も、早めに帰れよ」

「……わかってる」

 篠原は、かすれたような声で答えた。男性は、わたしに微笑んで軽く頭を下げると、優二君を連れて歩き出し、見えなくなった。

 篠原は大きなため息をつき、背中を丸くした。

「今の、父親」

「え」

「見ての通り、理解不能な人」

「そんなことないよ」

 わたしは篠原の父親の微笑みに、篠原を見いだしたのだ。理解不能な人には、見えなかった。

「うまく行かないんだ。全部」

 篠原はぼやいた。

「あのころ好きだったものが、好きなのかどうかわからないんだ。家も、母親が回してたから父親とはほとんど話したことなくて」

「これから、よくなっていくんじゃない?」

 わたしはそっと篠原に言った。

「ちょっとずつ、よくなるんだよ。何が、どういうふうにかはわからないけど」

「そう、かな」

「篠原は、かっこいいし、素敵だし、わたしを助けてくれた。そう願いたくもなるよ」

 篠原はわたしをじっと見つめていた。目はうるんでいるように、見えた。手がこちらに伸びた。いつの間にか手はわたしの後ろに伸びて、体が引き寄せられ――。

 わたしは篠原にキスされていた。柔らかく湿った唇が、わたしの唇を塞いでいる。それから彼はわたしの肩に顔を埋めるように、全身で抱きしめる。

「好きだ。……好きだ、好きだ、好きだ」

「篠原、痛い、かも」

 どきどきしながらも、きしむほどに抱きしめられた体が悲鳴を上げる。篠原は手の力を緩めた。

「おれなんかが、町田のことを好きでいていいのかな」

 彼の言葉は、自分に向けられていた。

「いいよ」

 それにわたしが答える。彼は、一層わたしを強く抱き締める。

 わたしは、この思いに応えられる人間でありたいと、思う。

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