強い光がわたしを照らす。

1.友達は、できそうにない

「わたし、これからあまり歌子と会えなくなるかも」

 いつものコーヒーショップ、いつもの相手。雪枝さんはわたしのカップのコーヒーをかき混ぜ、こちらに押しやってから、何気ない調子でそう言った。わたしは呆然として、「何で?」と訊いた。彼女は下を向いてコーヒーをすすってから、

「うーん」

 と考える顔になった。泣きそうになった。とうとうわたしは雪枝さんにも見捨てられるのだ、と思って。雪枝さんはそんなわたしを見てけらけら笑った。わたしに手を伸ばして肩を軽く叩く。

「そんな顔しないで。歌子から離れたいわけじゃないよ。むしろもっとついててあげたいくらいなんだから」

「なら、何で?」

 ふふ、と雪枝さんは笑った。コーヒーを一口飲んで、カップをトレイに置く。

「教師になりたいんだ」

「え?」

「具体的に言うと、高校の国語科の教師になりたい」

「どうして?」

 わたしは呆気に取られ、雪枝さんの顔をただただ凝視した。雪枝さんは照れ笑いを浮かべる。

「理由はまだ秘密だけど、資格は持ってて、大学時代はなるかどうか迷ってたんだよ。最近ちょっときっかけがあって、なりたいってすごく強く思って……。わたしもう三十路だし、善は急げって言うからね、早速勉強を始めたの。結構厄介だから、一年か二年かけて頑張ってみようと思ってるんだ」

 笑顔で話す彼女の周りには、熱意の渦が立ち上っているようだった。本気なのだ、とわかった。

「夢ができたんだ。歌子、応援してくれる?」

 雪枝さんはにこっと笑った。いつもの優しいお姉さんの顔で。わたしは雪枝さんの情熱が伝染したような気分で、

「うん、うん。応援する」

 と笑った。雪枝さんは満足げに微笑む。それから彼女の展望を聞く。会話が発展してドラマの登場人物として出てくる先生の物真似をする雪枝さんにいちいち大笑いしながら、わたしは思う。

 夢か。わたしには縁遠いことだな。

 雪枝さんの周りに渦巻く熱意は、わたしから生まれることはなさそうだった。


     *


 春だ。二年生になって初めての登校は肌寒く、人の群れも全体的に元気がないように見える。それはわたしの気持ちがそう見せているのかもしれないけれど。

「しのはらー、おはよう」

 早速見つけた篠原に、擦り寄る。篠原は嬉しさを火花のように一瞬見せたあと、落ち着いた笑みになった。篠原と会ったのは一週間ぶりだ。アーケード街のハンバーガーショップで話したとき以来。

 わたしたちは細々とつき合いを続けていた。学校があるときは毎日会って、休みのときにたまにファストフードを一緒に食べて、春休みの間は時々チャットアプリで連絡を取っていた。わたしも篠原も本を読むのに忙しく、たまには勉強もしなければならないし、普通のカップルのように頻繁には会ったりしなかった。チャットアプリでは淡々と読んだ本の感想を言い合ったりして、何だかイメージのカップルとは違うなあ、と思っていた。でも、これがわたしたちらしいのかもしれない。

 でも、篠原がわたしのことを今も好きなのか自信がなくなるときがある。こうして篠原を呼ぶと彼は嬉しそうにしてくれて、あ、まだ大丈夫なのだとわかるのだけれど。

 わたしたちはキスをしたことがなかった。想像しただけで恥ずかしいから、考えないようにしていたし気にしないようにしていたけれど、それが両思いの証であるようにフィクションは語るから、何となくわたしたちの関係を疑ってしまうのだった。

「町田、この間言ってた本、読んだ?」

 篠原が笑って訊く。わたしは勢いよく、

「読んだ読んだ!」

 と返す。篠原が最近読んですごかったのだという泉鏡花の戯曲を読んだのだ。現代語ではない言葉で書かれた作品は難しかったけれど、読んでみるとイメージが豊潤で楽しい作品だった。

 学校で学ぶ文学史上の作家はつまらないイメージがあったけれど、篠原のお陰でその豊かさや面白さがわかって、わたしの読む本の世界は以前より広がりを見せていた。篠原はこんなところでも偉大なのだ。

 二人で内容について話していると、後ろから「お二人さん」という聞き覚えのある声が聞こえてきた。この陽気な声は、岸君だ。

「久しぶり、岸君」

 わたしが言うと、岸君は「やっと会えたね、町田さん」と大袈裟に感動して見せた。

「篠原とはしょっちゅう会ってただろうけど、おれと会うのは久しぶりだね」

「岸君、そんなに会ってないよ、わたしたち」

 わたしが反論すると、岸君は「え、何で?」と訊く。

「何で? つき合ってるのに?」

「いいだろ、別に」

 篠原が不機嫌な顔を見せる。わたしはその顔を記憶のコレクションに入れる。篠原の不機嫌な顔は、貴重だ。

「人それぞれだよ」

「うん」

 篠原の言葉に、わたしはうなずく。でも、と思う。

 わたしたちはいつキスするの? 篠原。

 そう言いそうになって、わたしは口をつぐんだ。


     *


 生徒用の昇降口に人だかりができていた。近寄ってみると皆熱心に壁に貼られた紙を見つめている。どうやらクラス分けの表らしい。岸君は人の塊に入る前に見えたらしく、目の上に手でひさしを作りながら言う。

「えーと、おれと篠原は二組」

 理系クラスは二クラスしかなく、二人は同じクラスになったらしい。

「町田さんは五組だな」

 えーっ、と言うと、二人はきょとんとする。わたしは唇を尖らせ、だって、とつぶやく。

「篠原とも岸君とも別々なのはわかってたけど、そんなに離れてるなんて。寂しいじゃん」

 二人は声を上げて笑った。

「大丈夫だよ。寂しかったら来ればいいし、こっちからも行くし」

 篠原の言葉に、岸君が「そうそう」とうなずく。

「約束だよ」

 と言うと、篠原は微笑み、岸君は了承の印にこぶしを作った。

 階段を上がると篠原たちは右手にある二組に向かい、わたしは左に曲がって五組に向かった。気持ちが沈んでいた。毎年のことだが、友達を作るのが下手なわたしは、いつも諦めている。去年は怜佳が仲間に入れてくれ、友達がたくさんできたと喜んでいたけれど、結局はああいう結果になった。今年もうまく行かない気がする。でも、扉を開けると見覚えのある顔がこちらを見ていた。

「お、歌子」

 嬉しくて顔がほころんだ。拓人はこちらに手招きをしていて、わたしは彼の席がある廊下側の一番前の席に向かった。一緒にいるのが誰なのか気づき、どぎまぎする。

「静香。歌子だよ」

 そこにいた女の子は拓人の恋人の片桐さんで、わたしをちらりと見たあとは目を伏せていた。どうやら好かれてはいないようだった。こういう状況でいつもするように、わたしはそこから離れようとした。

「拓人、同じクラスなんだね。よろしくね」

 自分の席に行こうとすると、拓人が「待って待って」と引き留める。

「そっけないなー。ホームルームまで時間あるから話そうぜ」

「……じゃ、わたし自分のクラスに戻るね」

 片桐さんは、何の感情もない声で開いたままの扉から廊下に出て行った。拓人は片桐さんを呼ぶが、彼女は気づかないふりをして行ってしまった。

「かわいい子だね」

 わたしが言うと、拓人は沈んだ顔で「うん」と答えた。片桐さんは背中までの黒髪がきれいで、目の大きなかわいい子だった。背もわたしより少し低くて、愛らしい印象だ。遠くから見たときは、彼女だって笑っていた。わたしが視界に入ってから、笑みが消えたのだ。

「篠原とはうまく行ってる?」

 拓人がそっと訊く。わたしは大きくうなずく。

「篠原は素敵だよ」

 拓人はにっこり笑った。満足げに。

 怜佳は同じクラスではないようだった。わたしをいじめたメンバーも、少ない。担任は去年と同じ若い男性教師の田中先生だ。何となく、安心できる環境だった。

 ただ、友達はできそうになかった。


     *


「同好会作るんだけど、どう?」

「いやあ、そういうのは無理かな……」

「うそお、そういうの向いてると思うよ。ほら、背が高いし、お顔も麗しいし、活発でそういうの好きそう」

「バレー部の活動で精一杯。ごめんね」

 放課後、篠原と約束をしていたので本を読みながら教室で待っていると、新しいクラスメイトの大谷さんが自分の同好会への勧誘をひっきりなしにしていた。どの人も困ったように、あるいは迷惑そうに断る。大谷さんは明るそうで友達も多いほうみたいだけれど、彼女の人柄がどうであろうと、やり方が少し強引だし、活動内容が引っかかるのか、皆嫌がっていた。

 焦げ茶色の大きなセルフレームの眼鏡をかけた大谷さんは、見た感じは地味だけれど気力に満ちあふれている人のようだった。ああいう子とは、あんまり縁がないな、と思う。元気な文化系、みたいな子。

「ごめーん。わたしそういうの興味ない」

「うそー。いいじゃん入るだけでもさあ」

「諦めてよー」

 とうとう皆いなくなってしまった。部活の時間が始まるのもあるが、大谷さんに捕まってしまうからだろう。残ったのはわたしだけだ。

「あーあ」

 大谷さんはため息をつき、わたしをちらりと見る。わたしにも声をかけてくる、と覚悟した。けれど彼女はそのまますたすたと歩き出し、教室を出てしまった。どうやらわたしには興味がないらしい。

 少し寂しい気分になったけれど、演劇同好会なんて、どう考えてもわたしには向いていないので忘れることにした。大きな声を出したり、演技をしたり。そんな自分は想像できない。


     *


「篠原。ちょっといいか」

 篠原と一緒に昇降口にいると、先生が篠原を呼んで連れて行ってしまった。そのままぼんやりとガラス戸の近くで待っていた。

「あれ」

 低い声が聞こえた。振り向いて、驚いた。背の高い、女の子。まるで男の子みたいな。ショートカットヘアの髪は無造作で、色素が薄い。茶色の髪と、透明に見える瞳、白い肌。うっとりするくらい美しいその子は、わたしを見て笑っていた。

「町田歌子さんだ」

「え」

「名前知ってるよ」

「何で?」

 女の子は微笑んだ。彫刻みたいな笑み。

「何でか知ってる」

「話せない理由があるの?」

「まあ、話さないほうがいいかも」

 わたしはもやもやした気分になる。何となく、わたしの中で引っかかりのある子だ。

「あたしは町田さんにすごく興味あるんだ」

「わたしに?」

 心底不思議に思って、わたしは首を傾げた。女の子は笑ったままうなずく。

「一人で本を読んでるところをよく見る。孤独なんでしょ」

 わたしはむっとする。女の子は笑みを深める。

「馬鹿にしてるわけじゃないよ。あたしも孤独なの」

 孤独なの、という言葉がひどく重く響いた。こんなに美しい子が孤独を感じるようなことがあるのだろうか。それはわたしが感じているのと同質の孤独だろうか。

「友達いない、親とも疎遠、――っていうのは大した事実じゃなくて。他人とはわかり合えないもの、という事実に早い時点で気づいちゃって。で、あたしはきっと町田さんとは絶対に本当の意味ではわかり合えなくて。……でも話しかけたくなったの。それがまた孤独を生むの。わかるかな」

「わかんない」

 心の底から思ったので、正直に答えた。女の子はにっこり笑った。

「いいんだ。それでも、あたしは町田さんと友達になりたい。――友達になろうよ」

 風変わりな子だ。友達になろうと思ってなれるものではないと、今までの経験でよくわかっていたし、この子がそれをわかっていないようには思えなかった。それに、彼女が言う「友達になろうよ」は、笑っているのに切実な響きを帯びていた。きっと彼女はわたし以上にその困難さを知っているだろうと思った。わたしは自分でも驚くほど、ためらった。

「まあ、いきなり怪しいと思うよね。あたし雨宮渚。いい名前でしょ」

 わたしは笑った。自分の名前をいきなり褒める人なんて、初めて見た。

「あたしは変人で、つき合いづらいらしいよ。でもそういう人間だって他人を求めるの。町田さんはあたしに求められてる。さあ、どうする?」

 彼女はにんまり笑った。わたしは、うなずいた。

「とりあえず、明日話してみようよ。お弁当仲間から、始めてみよう」

 彼女の表情はぱっと輝いた。

「そう。じゃあ弁当作らなきゃね。三村さんに作ってもらおう」

「三村さん?」

「お手伝いさん。じゃあね。彼氏来たよ」

 振り向くと確かに篠原が立っていて、不思議そうにわたしを見ていた。

「誰かと話してた?」

「うん」

 そう答えてまた振り向くと、彼女は消えていた。ガラス戸の向こうを見ると、大股で歩いていくところだった。

「明日、お弁当を食べる人ができたよ」

 わたしが言うと、篠原は微笑んだ。

「よかった。心配してたんだよ」

「不思議な人だった」

「へえ」

「でも、興味がある」

 わたしは微笑んで、彼女の言葉を思い返していた。彼女の言葉はわからなかった。――でも、ぎりぎりまでわかる努力をしてみるのもいいじゃないか。

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