6.あの子のことが、大嫌い

「ヒデ君、浮気してないよね」

 情事のあと、わたしはタオルケットにくるまりながら裸のヒデ君に横から抱き着いた。エアコンの温度を一番低く設定しているにもかかわらず、今にも壊れそうなパイプベッドに敷かれた布団はわたしたちの汗で湿っている。ヒデ君は吸い慣れた様子で煙草をふかし、横目でわたしを見て、微笑んだ。色っぽい笑みで、何だかぞくぞくする。

「何? 心配してるの?」

 彼はわたしの頭を自分の胸元に寄せた。ヒデ君の胸は薄い。でも、しっかり男の人という感じで、わたしのとは全然違う。心臓の音は一定だった。ヒデ君は嘘をついていない。あの家庭教師は、嘘をついたか写真を見間違えたのだ。ヒデ君が浮気なんて、するわけない。一日悩んだのが馬鹿馬鹿しかった。

「怜佳を裏切るわけないやんかー。おれを信じて」

 とくん、とくん、とヒデ君の心臓が鳴るのを聴きながら、まどろむ。

「ごめんね。ヒデ君かっこいいからさ、不安になったんだ」

 彼はくすっと笑う。

「かわいいなあ、怜佳は。……もう一回、いい?」

 ヒデ君の言葉に、わたしはにっこりと笑った。タオルケットを開き、落としながら、

「いいよ。しよ」

 と彼のほうへと倒れ込んだ。


     *


 家庭教師はまだ家に来ているようだった。あれ以来、わたしはその時間になると家を出るというのに。

 歌子とコーヒーショップに行ってだべり、香帆たちと海に行って泳ぎ、皆で電車に乗って隣県の複合施設のプールに行ったりした。そうやって時間を潰した。いつの間にかそれが楽しくなっていて、わたしは夢中になった。

 プールでは、香帆たちさえも歌子を邪魔にはしていなかった。わたしも、一時期の歌子への冷めた気分など忘れたように、歌子とくっついてくすくす笑い、まるで親友であるかのように打ち明け話をした。

 ドーナツ型の流れるプールに足を浸け、わたしはヒデ君の手の話をした。ヒデ君は男性にしては骨ばっていない、きれいな手をしている。その手を見ているだけでうっとりする、と歌子に話した。歌子は、へえ、と自分の手を眺めた。指が細くて冷たい、あの手を。

「わたし、男の人の手なんてじっくり見たことないなあ」

 やっぱりこの子とはわかり合えない部分がある、と実感しつつも、いつもと違う場所にいるという感覚は、苛立ちを忘れさせてくれた。歌子はわたしと違う。でも、この子はいい子なのだ、と出会ったころのことを思い出した。

 歌子は淡いブルーのビキニを着ていた。フリルがたくさんあって、かわいかった。ナンパに遭うと、わたしがかばった。歌子が不安そうにしていたから。ナンパする大学生くらいの男たちを追い払うと、歌子はわたしに感謝した。そんな彼女を、愛おしく思いさえした。

 携帯電話が鳴っていた。ママがかけているのだった。わたしは通知を切り、友達の元に走った。楽しかった。もう、このまま何もかも忘れたかった。


     *


 ヒデ君は今日、バイトらしい。わたしはまた家庭教師から逃げるため、色々な友達と連絡を取った。けれど、八月も半ばとなった今、皆何かしら用事があるようだった。歌子も祖父の家に行くと言っていた。仕方がない。誰もいなくても、時間を潰すことはできるだろう、とわたしはヒデ君のアパートに向かった。

 粗末なアパートは、外階段で上がらなければいけない。カン、カン、カン、とミュールサンダルで階段を上がる。パッとしないブルーグレーの鉄のドアの前に立つ。鍵を探して小さなトートバッグの中を探る。手探りでミニチュアサイズのテディ・ベアのぬいぐるみを掴むと、それにくっついてようやく出てきた。テディ・ベアのぬいぐるみはヒデ君がくれたものだ。ふと見つけたカプセルトイを、わたしが好きそうだからとやって出してくれたのだ。ピンク色のテディ・ベアはとてもかわいい。

 鍵を挿し、回す。グリッという鍵の回る独特の音が鳴り、わたしはドアを開いた。途端に、中に人がいるのに気づいた。泥棒だ! ととっさに思い、ドアを閉めようとした。でも、何だかおかしかった。ドアをもう一度開け、中に入る。

 ぎ、ぎ、とベッドがきしむ音がずっと聞こえていた。激しく鳴る音は、わたしがいつも聞いているのと同じだった。小さな、くぐもったような甘い声が同じリズムで聞こえた。水回りが揃った玄関の奥の、寝室兼居間に通じるドアをそっと開いた。手が震えていた。心臓が、破裂しそうだ。体中が痛い気がした。

 音は、さっきよりはっきりと聞こえた。ベッドがきしむ音、女の喘ぎ声。AV以外で他人がセックスしているのを見るのは初めてだ。ヒデ君は女を組み敷き、夢中で動いていた。

 声が出なかった。ヒデ君、何してるの? そう訊きたかった。彼女はわたしだよね。何で他の女としてるの? わたしを裏切るわけがない、と言ったのは嘘だったの? ヒデ君、ヒデ君。

 きゃ、という悲鳴が聞こえた。その瞬間、女が体を起こし、ヒデ君がわたしのほうに振り向いた。体を起こし、荒く息をしながらこちらを真顔で見ていた。その目には、ヤバい、とか、まずいことをした、とかいう感情の乱れが全く見えなかった。ただ、驚いていた。どうしてここにわたしがいるのか、いぶかしんでいる目だった。

「え、何? 泉君、どういうこと?」

 女は、多分大学生だ。長い黒髪を垂らし、前髪は切り揃え、顔は幼く、恋愛経験が少なそうな、大人しそうな、それなりに容姿の整った女。おかしなことだが、そのとき突然ヒデ君が以前わたしに見せたDVDを思い出した。経験の少ない童顔の女の子が、たくさんの男たちになぶりものにされる内容だった。

「怜佳」

 ヒデ君が最初に発したのはわたしの名前だった。

「それ、投げるのはやめてえや」

 わたしはヒデ君の小ぶりの六法全書を掴んでいた。それを思い切り、投げた。ヒデ君ではなく、女に当たるように。六法全書は、ヒデ君が女をかばうその足元に、どさりと落ちた。わあっと、泣き声が溢れてきた。わたしは泣き叫びながら、ヒデ君の背の高い本棚から手当たり次第に教科書やファイルやノートや、ブックエンドを投げた。それらがヒデ君と女の上に降り注ぐ。本棚の途中に置いてあった小さな観葉植物を放り投げると、ヒデ君にぶつかって土が女にもかかって嬉しかった。泥だらけの二人は、混乱しながらわたしから身を守っていた。投げるものがなくなり、わたしははあはあと息をした。様々な物に埋もれている二人は、しばらく動かなかった。がさ、と音がして、ノートを大量に落としながらヒデ君が出て来た。その表情は、困ったなあ、という感じで、恋人を失うという危機を覚える人の顔ではなかった。

「怜佳。ちょっと外出とってくれるか」

 何を言っているんだろう。この期に及んで、わたしに頼みごとなんてできると思っているのだろうか。わたしが出たら、女と二人きりになるじゃないか。何をするのか、何を話すのか、について、信用できるわけがないじゃないか。

「出とってや。この人服着るから」

 部屋から押し出された。そのまま外づけの廊下に出る。呼吸が荒れていた。涙が、溢れてきた。すすり泣き、全てを失ったような気分で、わたしは涙を拭かずにそのまま落とし続けていた。

 ドアが開いた。女が、血の気を失った顔で出て来た。服もかわいらしいワンピースで、この女によく似合っていた。ヒデ君が、ごめんな、と言った。女は、顔を歪めて走り去った。カンカンカン、と鉄の外階段が響く。

「怜佳、入り」

「やだ」

 玄関の中から呼ぶ彼に対し、わたしは頑なな声を出した。

「入り。謝りたい」

 振り向くと、いつの間にかヒデ君はわたしの後ろにいて、わたしをぎゅっと抱き締めた。

「ごめんなあ」

「謝って済むと、思うの?」

 声が震える。でも、彼を拒絶していない。

「出来心や。浮気や。許してほしい」

「あの人、誰?」

「近くの大学の女の人」

「あの人、ヒデ君のこと好きなの?」

「どやろな」

「泣いてた」

「そうか」

 ヒデ君はわたしをますます強く抱きしめた。わたしはしゃくりあげて泣いた。そして、振り向いてヒデ君に抱き着いた。

 彼は、こういうことをするのに良心の呵責を感じないのだ。それに気づき、悲しかったのだ。でも、わたしは彼を手放せない。だから、許すしかない。

「ヒデ君、好き」

「おれも」

 ヒデ君の笑顔は、感情のこもらない人形のそれのようだった。


     *


 夏休みも終わりに近づいたある日、わたしはコンビニで歌子に会った。ここはヒデ君のアパートから近く、歌子の家もすぐそこにある。だから当然なのだが、わたしはぎょっとしてしまった。

「あ、怜佳」

 歌子はブルーのTシャツを着て白いフレアスカートを穿き、かわいらしい格好をしていた。にこにこ笑い、嬉しそうにわたしに近づく。

「課題終わった? わたしはあと少し」

「そう」

「どうしてここにいるの?」

 歌子は首を傾げ、さらさらの髪をますますさらさらに見せた。外は陽炎が見えるくらいの猛暑だというのに、この髪には関係がないらしい。

「怜佳、友達?」

 ヒデ君がわたしの後ろからやって来た。わたしは、うなずいた。

「へえ」

 声が何だか変で、わたしは思わず彼を見た。にやにやしていた。わたしは動揺した。歌子のおっとりした様子や幼い声、整った容姿が、ヒデ君にも強い効果を示しているのは明らかだった。

 歌子はおどおどと不安そうにわたしを見て、「彼氏?」と訊く。わたしはうなずく。

「泉英文っていうんだ。よろしく」

 ヒデ君は手を差し出した。必要もないのに。歌子はそっと応えるように手を出す。ヒデ君はそれをぎゅっと握った。歌子はどう見ても嫌がっていた。

「町田、歌子です……」

 手を離すと、歌子は作り笑いを浮かべ、「じゃあ、帰るね」と逃げるようにコンビニを出ていった。ヒデ君を見る。彼は歌子が出ていったコンビニのドアを、じっと見ていた。

「歌子ちゃん、かわいいね」

 ヒデ君はいつもの顔に戻り、わたしに笑いかけた。でも、わたしの中ではどす黒い感情がとぐろを巻き、イライラが抑えられなかった。わたしは、この間の女を思い出していた。あの女も幼い顔で、大人しそうだった。歌子も、黒髪で物静かだ。ヒデ君が見せたDVDを思い出した。あの中で、恋愛経験の少なそうな女が、男たちに襲われていた。ヒデ君は、そういう女が好きなのだ。ようやく気づいた。

 歌子の笑みを思い出した。何だか汚らわしいもののように思えた。あの子のことが、大嫌いだ。誰よりも、嫌い。わたしは自分が憎悪の化け物になるような、おかしな気分だった。

 夜、わたしは香帆に電話をした。しゃくりあげ、涙さえ流しながら、歌子の悪事について嘆いてみせた。

 歌子は、わたしの恋人と浮気したのだ。彼があまりにも格好いいから。恋人は謝ってくれ、戻ってきてくれた。でも、悲しみが癒えない。

 香帆は憤慨した。どこか嬉しそうに。歌子をこらしめる口実ができたのだ。当然だろう。そしてチャットアプリで皆に連絡を取り、全員で歌子をグループから外すことに決めた。アプリのグループからも外し、彼女が連絡を取ろうとしても揃って無視した。

 彼女が悪いのだ。たとえ何もしていなくても。

 わたしは薄暗い自分の部屋のベッドの上で、携帯電話の画面を見つめていた。パッ、と画面から光が消えた。わたしの顔が映っていた。わたしは、にんまりと笑っていた。

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