5.あの子は退屈

 期末試験を終えて、最悪な気分のまま梅雨が明けた。今回もわたしは最下位に近い成績だろう。でも、ママにどんなに叱られようと、ヒデ君のところに逃げればいい。そう考えているだけで彼に守られている気がした。彼の家に避難する名目で泊まるのは週に一回程度だが、会うのは週に三回ほど。家に帰ることがほとんどだったが、ママがいくらヒステリックに怒っても、平気だった。

「怜佳、帰りにドーナツ屋さん行こうよ」

 歌子がうきうきした様子で誘いに来た。わたしは少し億劫な気分になった。彼女と行動を共にすると、香帆や他の何人かに呆れた顔をされるのだ。

「どうしようかな。ドーナツってカロリー高いからなー」

「ええっ、いいじゃん。怜佳痩せてるし、きれいだよ」

 歌子はにこにこ笑っている。彼女のお世辞一つ交えずに褒めてくれるところは、とても好きだ。気をよくして、「じゃあ行こうか」と笑う。香帆がわざとらしく大きなため息をついた。

 ドーナツショップでチョコレートソースがけのドーナツをかじる。歌子はクリームが挟まった粉砂糖がたっぷりかかったドーナツを食べている。わたしたちはよくこの店に来る。アーケード街の大通りに面した小さなチェーン店。たくさんの高校生。たくさんのカップル。歌子は一口目を飲み込むと、にっこり笑っておいしいね、と言った。

「怜佳が教えてくれたマスカラね、すごくいい。わたし睫毛が濃くなるより長くなるほうが好きだから、気に入っちゃった」

「よかった。わたし頑張って探したんだよ。歌子に訊かれてから」

「えっ。わざわざ調べてくれたの? 嬉しい」

 歌子が上気した顔で笑った。この子は、いつだって本心のままに表情を見せる。そこがいいところで、悪いところでもある。

「本当に怜佳は色々知ってるよね。わたしなんて、人生経験足りないなーと思っちゃう」

「そう? まあ、彼氏がいると色々背伸びしちゃうよね」

「彼氏、かっこいいんだろうね」

 歌子はにこにこ笑う。わたしも気分がよくなって頬が緩む。

「ヒデ君さ、わたしのために鍵くれたの。ほら」

 テディ・ベアの小さなぬいぐるみがついた鍵を、歌子に見せる。わあっ、と歌子は驚いた顔を見せる。

「大学生だもんね。そりゃあ背伸びもしちゃうよね」

「そうだよ。今二年生。かっこいいし、優しいし、本当に好き」

 へえ、と歌子はわたしを見る。あんまり理解できていない顔だ。この子は恋人がいたことがなくて、そういうのに興味もなさそうだ。わたしからしたら、そっちのほうが理解できない。恋人を作ろうと思えば、彼女はすぐにできるだろう。大人しくて幼い子が好きな男子は大抵歌子のことが好きだし、彼女の幼馴染みの拓人は明らかに歌子のことが好きだ。

「歌子は彼氏作らなくていいの?」

 わかっていながら、わざと訊いた。どうしてか、意地悪を言いたい気分になっていた。歌子は戸惑った顔をして、首を振った。

「あんまり、興味ない。恋愛が面白いっていうのがわからない」

「古田とかどう?」

 わたしは香帆が好きなクラスメイトの古田の名前を出した。古田は野球部で背が高く、それなりに容姿は整っているし人気がある。お腹の底でどす黒い感情がぐるぐる回っていた。歌子はどう答えるだろう。わくわくしてもいた。

 歌子は首を振った。

「興味ない」

「あ、そう」

 肩透かしだ。まあ、わかっていたことだけれど。でも、この結果を香帆に告げたら、きっと彼女は悔しがるだろう。自分が熱烈に恋している古田が、歌子にばっさりと切り捨てられるなんてと。

「じゃあ、拓人は?」

 わたしの質問に、歌子は痛みに耐えるような表情をした。

「拓人は……悪いけど、つき合うとかそういう対象じゃない」

 悪いけど、か。拓人が歌子のことを好きなのは、周知の事実だ。さすがに歌子自身も理解しているらしい。でも、この子って、何て面白みのない子なんだろう。

 そのあとは、歌子の話を一方的に聞いて、わたしたちの共通の友達のことを話して、何となく白けたムードで帰路に就くことになった。

「じゃあね」

 と彼女はバス停で手を振る。わたしもバスに乗るが、別方向なのだ。

「じゃあね」

 わたしはにっこり笑う。彼女はバスに乗り、窓からまた手を振った。見えなくなってから、――わたしは無表情になった。


     *


 期末試験の結果を見せると、ママは「何よこれ」と言った。

「この間より少ししか上がってないじゃない」

 悲しくなった。わたしにとっては「十位も上がった」なのだが。

 ママはいらいらしながらフローリングの床を歩き回った。手にはわたしの成績表。今回は叩かれずに済んだが、不満そうなのは同じだった。

 十位上がったところで、ママが満足しないのはわかりきっていた。下から数えたほうが早いのは同じだから。でも、期待してしまっていた。期待なんて、すべきじゃなかった。

「家庭教師をつけないとね。困ったことだわ。少しでもましな成績になってもらわないと困るわ」

 ママの体面のために。そう心の中でつけ加えた。

「夏休みから、家庭教師を呼ぶわ」

「やだ」

 ママが苛立つのがわかった。

「あなたにそんなことを言う権利があるの? こんな成績を取って!」

 びくっと体が揺れた。また、叩かれると思った。

「家庭教師を雇うわ。あなた、その日くらいは家に帰ってきなさいよね」

 ママはキッとわたしをにらんだ。わたしは目を伏せ、答えなかった。


     *


 高校で初めての夏休みに入った。何も結果を残せないまま、わたしは自由を得ていた。歌子やその他の友達とは、遠出を含む遊びの約束を取りつけていた。それが楽しみなような、忘れてしまうくらいどうでもいいような、そんな気持ちだった。わたしはヒデ君と会えればそれでよかった。それだけで満足だった。

 家庭教師が来た。眼鏡をかけて、茶髪をお団子にした目がやたらに大きな女で、S大の教育学部生とのことだった。わたしの成績表を見て「うわあ」とつぶやくのが見え、その瞬間に大嫌いになった。

 現代文から見るとのことで、わたしの漢字能力を知りたいと、漢字の小テストをされた。結果は、十点満点中五点。女が半笑いになった。

 わたしはほとんど無言で、家庭教師に教えられるまま問題を解いていく。歌子やヒデ君でもうまく行かなかったように、わたしは厄介な生徒だった。問題が理解できない。答えがわからない。家庭教師はため息をついた。

 不意に、携帯電話が鳴った。画面が光り、友達からのチャットアプリの通知のようだった。怒られると思ってすぐに止めたが、家庭教師は興味津々に携帯電話を見ていた。

「何ですか」

「あのさあ、それ、彼氏?」

 家庭教師は驚いたような顔で言った。ロック画面をヒデ君とのツーショットにしていた。それを見られたようだ。

「そうですけど」

 わたしが答えると、家庭教師は「はあっ?」とまた半笑いになった。何だっていうんだろう。

「やめたほうがいいよ。そいつ手が早くて有名なんだから」

 衝撃を受けた。何も言えず、女の真ん丸な目を見る。

「色んな女の子に手を出しては捨ててる最低なやつだよ。しかも怜佳さん高校生でしょ? まだ十六歳? やめたほうがいいって」

 頭がかあっとなった。肩で息をしているのがわかる。嘘だ、と思いつつもどこか信じていた。ヒデ君が使わないはずのリップクリームが床に転がっていたことがあった。避妊具の箱が増えたり減ったり、不自然だった。何よりヒデ君は、わたしに対してもひどく好色だった。

 黙っているわたしに、家庭教師は気を遣うような顔で、

「忠告したからね。さあ、勉強しようか」

 と問題集のページをめくった。わたしはそれから一言もしゃべらなかった。

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