4.空気が変わっていく

 ヒデ君に電話をかける。しばらくコール音が鳴って、もう諦めようかと思ったころに出てくれた。「もしもし」という声に安堵して、わたしは泣いた。ヒデ君、ヒデ君、と名前を呼び、「どうしたの?」と落ち着いた声で訊かれても、答えられなかった。

「またお母さんに何か言われたんだろ?」

「……うん」

「この間も言っただろ? お母さんは怜佳とは別の人間で、期待しすぎちゃいけないんだよ」

「でも、た、叩くなんて」

「叩かれたんか?」

 ヒデ君の声色が変わった。固く、厳しいものになった。わたしはそれに驚き、同時に嬉しくなった。彼はわたしのために怒ってくれているのだ。

「何で叩かれたんや」

「成績が、悪くて」

「そないなもん、叩く理由にはならん! 怜佳、それはお母さんがおかしい。お母さんにやめてって言えへんの?」

「……そんなことできないよ。ママに逆らうなんて、できない」

「……怜佳。おれんとこ来い」

「でも」

「来るんや。そんな家、おるの辛いやろ。何もずっとうちにいろとは言わん。ただ、今日は出たほうがええ」

 どきどきした。今まで、門限を破ったことすらなかった。ママが夕飯を用意してくれているし、ママはわたしをいつも見ているから、そんなこと、絶対にできなかったのだ。でも、今日は家から出たかった。頼れる人のところに行って、思い切り甘えさせてほしかった。大きめのリュックを取り出して、下着や基礎化粧品をこっそり詰め込んだ。シャンプーはヒデ君に貸してもらおう――。わたしは、ママがいるリビングを避け、真っ暗な廊下をそっと歩き、玄関を出た。マンションの外に面した通路を走り、エレベータで一階に降り、バスに乗った。バスに揺られているとき、一生家に帰らないような気分だった。真っ黒な窓の外を眺めていると、本当にそうなりそうな、奇妙な予感がした。

 ヒデ君のアパートに着くと、彼は玄関の前で待っていてくれた。「ヒデ君」と泣きながら抱きつき、彼は何も言わずにわたしを包み、頭を撫でてくれた。

「大変やったな。さあ、家に入り」

 ドアを開け、中に入れられる。わたしは不吉なもの、悪いもの、怖いものから全力で逃げ切って、それらを締め出して安全地帯にたどり着いたような気分で靴を脱ぎ、後ろでドアが閉まる音を聞いていた。

 ヒデ君の家は、その日からわたしの緊急避難所となった。


     *


「充香ちゃん、そういう話を本人のいないところでするのは駄目だと思うよ」

 しん、と静まり返り、空気が凍った。充香は目を見開き、ひどくショックを受けた顔で歌子を見ていた。充香は歌子に、友達のことを笑いながら、楽しそうに、でも傷ついた様子を見せながら話していた。充香がいつも仲良くしている佳乃が、充香の鞄から勝手に音楽プレイヤーを出して聴いていた。勝手に使うなんてひどいよね。そこで済ませておけば歌子もここまで言わなかったと思う。でも充香は佳乃が汚したイヤフォンについて、あいつ不潔だから汚くなっちゃった、最悪だよね、いっつもふけ酷いしさ、ちょっとは清潔にすべきだよね、と続けてしまった。歌子は途端に眉をひそめ、――多分彼女にとっては優しい口調で――注意したのだ。

「でも、……でも、佳乃が悪いじゃん。人のもの勝手に使ってさ」

「だからって、悪口はよくないよ」

 充香の言葉に、歌子は困ったように返した。まるで自分が困らされているみたいに。充香はますます傷ついた顔をして、「そっか」と笑って立ち上がった。きっと、一人で新鮮な空気を吸って、今の酷い瞬間を忘れに行ったのだろう。

 歌子は悪口が嫌いだ。誰かが誰かを悪く言うと、途端に悲しそうになる。何もそんなに気にしなくていいのに、とわたしは思うが、歌子はどうしても我慢がならないようだった。今の話だって、イヤフォンを他人に使われたら嫌な気分になるのは当然だし、そもそも確かに佳乃は悪いのだ。人のものを勝手に使って。

 自分たちの境目を、わたしたちは時々見誤る。他人が踏み込んではいけないところに、踏み込んでしまう。でも、未熟なわたしたちはそれを許して、他人に踏み込まれても「次からはもうしないでね」と言うしかない。踏み込んだほうも、「そうするよ」と答えて守る努力をするしかない。でも、それすらできないこともある。充香は歌子に愚痴って佳乃への不満を散らそうとしていただけなのだ。本気で佳乃が嫌いだったわけではない。むしろ佳乃とうまくやっていきたいから、不満を言っただけなのだ。本人に言えばいいのに、と思うこともあるけれど、わたしたちは、こうすることが一番平和になると思ってしまうのだ。――歌子は、潔癖だ。時々、そう思う。

「今のなかったよね」

 こっそり隣の子にささやいているのは、香帆だ。香帆は最近歌子の行動をいちいちこそこそとつつく。きっと彼女が好きな男子が歌子のことをかわいいと言ったからだ。歌子はかわいい。ある程度整った甘い顔立ちも、おっとりしているところも、声が幼いところも、男子には強烈なよさを感じさせる。歌子は男子とはあまり仲良くしようとしなかった。男子が苦手なのかもしれない。それでも、男子に好かれる歌子はその男子を好きな女子にとっては敵になりえた。

 わたしがいるグループは大所帯だった。弁当の時間はクラスの中心に机を寄せてわいわい話しながらご飯を食べたし、歌子が色々と話しかけられるのもこの時間だった。聞き上手の歌子は、好かれていた。でも、段々と空気が変わってきていた。


     *


「どういうことなの? あなた、不良にでもなったの?」

 家にいないことが増えたわたしに怒ったママが、ヒステリックに叫んだ。わたしは以前よりは冷静にその様子を見ることができた。ママは、老け込んでいた。今まできれいで完璧な母親だと思っていたけれど、よく考えたら精神的に不安定な強迫観念尽くしの女でしかない。ママはパパに捨てられているようなものだった。その鬱憤をわたしにぶつけているだけで、わたしが完璧な娘であることで心を慰めようとしているだけだった。

「違うよ。家にいたくないだけ」

「何言ってるのよ。その化粧は? 髪まで染めて、何考えてるの?」

 わたしは髪をこげ茶色に染めていた。ヒデ君の周りの大学生は皆染めているのだ。こんなもの、当然だ。

「不良じゃないよ。縮毛矯正で傷んで色が落ちちゃっただけ」

 この言い訳は、学校でも使っていた。先生たちは信じてはいないようだが、比較的自由な校風の高校だからか、深く追及されはしなかった。

「嘘ばっかり。何なの? わたしばっかり、何でこんなことが起こるの?」

 今度は自己憐憫か。勝手にやっていてほしい。早くヒデ君の家に行きたい。一応、勉強は教えてもらって、次はママを見返してやろうと思っている。でも、セックスしていることのほうが多いかもしれない。ヒデ君はわたしにしょっちゅう触るし、それがセックスに結びついてしまう。これでは、多分期末試験も駄目だな、と思うけれど、どこかどうでもよかった。

「わたしにばっかり構ってないで、自分のこと考えて」

 わたしはやんわりとママに伝えた。ほっといて、とは言えなかった。

「わたしはあなたのことばっかり考えてるのよ。それをやめろっていうの?」

 通じなかったみたいだ。わたしはこっそりため息をつく。

「行ってくる」

「どこによ!」

「友達の家」

「こんな夜に高校生を呼びつける友達なんて、ろくな友達じゃないわね!」

 ママの捨て台詞を、わたしは平気な顔で受け止め、歩き出した。玄関を開けると、そこは夜だ。澄んだ空気の中、道路を車が行く音が静かに響く。

 ヒデ君は、世界で一番素晴らしい恋人だ。

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