3.あの子が羨ましい
歌子はとてもいい子だった。人の悪口を言わないし、誰にでも親切だ。あの日わたしに消しゴムをくれたときのように、困っている同級生にシャープペンシルを貸し、時間がなくても困った顔一つせずに話を聞き、つまらない話でもころころと笑ってあげる。彼女はわたしの友達からも好かれるようになった。むしろひっきりなしに彼女に話を聞いてもらおうと集まって来る。
彼女のことを一番気に入っていたのはわたしで、彼女が褒めそやされるのを誇らしい気持ちで聞いていたし、わたしが教えたカラーリップクリームで、放課後の彼女の唇が赤く染まっているのを嬉しがっていた。彼女はわたしのかわいいお気に入り。まだ知り合ってひと月経たないが、親友なのかもしれない、と思う。
放課後は二人で出かけたりもした。ハンバーガーショップで新作メニューを試したり、ドラッグストアで新しい化粧品を探したりした。わたしはヒデ君の周りの大人っぽい女子大生に負けたくなくて、マスカラや口紅を少し試すようになっていた。高校でもばれないようにうっすらとチークをつけ、色の淡いカラーリップクリームを塗るのが最近の習慣だった。歌子もそれに影響を受け、マスカラくらいなら、と塗るようになっていた。二人で歌子の家に行き、ビューラーで睫毛を上げてマスカラを塗って、お互いの顔に化粧品を塗って遊ぶのは楽しかった。
歌子のお母さんは、とても優しかった。いつも微笑んでいて、歌子をちゃんづけで甘ったるく呼び、家にどやどや押し寄せてくるわたしたちクラスメイトにも困った顔をしない。うちだったら、と思うと身がすくむ。ママはわたしの友達が嫌いだった。美しい家を荒らす粗野な動物くらいにしか思っていなかった。
ある日のこと、歌子の家に寄って、一緒に漫画を読んでいたら夜遅くなってしまった。慌てて家に帰ろうとすると、歌子の母は「夕飯、食べていきなさい」と微笑んだ。胸の中が熱いくらい、嬉しかった。歌子も「そうだよ」と笑う。「家に連絡すればいいんじゃない?」と。
ちょうどそこに歌子のお父さんも帰ってきた。玄関を開けた瞬間わたしたちが集まっているのを目にして、初めて会ったお父さんは「おーっと」と大袈裟に驚いたふりをした。歌子の友達か? と訊くのでうなずくと、「仲良くしてやってくれよー」と陽気そうに笑った。
歌子の両親は、わたしの両親のように美形ではなかった。ただ、笑っていて、歌子のことをとても可愛がっていて、なのに歌子は鬱陶しそうに眉をひそめている。羨ましかった。お腹の中で、もやっとした感情が巡っているのを感じた。
この食卓に加わりたい。そう思った。この優しい両親と、親切な歌子と、四人で話をしながらご飯を食べたら、どんなに楽しいだろう。でも、電話をしたらそうはいかなかった。ママの甲高い声が、耳をつんざいた。
「何言ってるの。ご飯、作ってるのよ。わたし一人で食べろっていうの?」
「ごめん、わかった」
「わかった、じゃないわよ。第一あなたはもうすぐ中間試験でしょ。何を遊びまわってるのよ」
「ごめん」
背後に心配そうな歌子の家族の目線を感じて、涙が出そうなくらい情けなかった。
「いい? 十位以内に入れなかったら、あなたはうちの子じゃないからね」
「わかった、わかったから」
最後はわたしの声まで悲鳴になった。電話を切って、しばらく玄関のドアに向かって肩で息をしながら震えていた。歌子の遠慮がちな声が聞こえてきた。
「……どうだった?」
「……駄目だった」
わたしは精一杯の笑顔を浮かべ、一家に振り向いた。困惑しきった歌子と、同情したような歌子の母。歌子の父は、ぱっと笑顔を作って、
「じゃあ、家まで送ってやるよ」
と明るい声を出した。自分で帰れます、と必死で断ったけれど、彼は、いいのいいの、子供は遠慮すんな、と車のキーをどこかに取りに行った。
「お母さん、怒ってた? ごめんね、帰る時間になったら言えばよかったね」
歌子はとても心配そうにわたしに近寄ってきた。ぶんぶんと首を振り、いいんだ、と答える。本当は、家に帰りたくなかったなんてとても言えなかった。
「じゃあ、行こうか」
歌子の父はキーを持ってわたしより先に玄関のドアを開けた。わたしは遠慮がちについて行く。
「じゃあ、また明日」
歌子が言った。
「うん、また明日」
わたしは笑って手を振った。
歌子の父の白い四駆車の助手席に乗って、進む。彼は昔の歌謡曲をカーステレオで流しながら、これ知ってる? と訊く。わかりません、と言うと、「この人は歌子や君くらいの年齢のころに歌手として活動して、二十歳と少しで引退したんだよ」と笑った。薄暗い夜の道でも、彼は明るく陽気に見えた。わたしはパパが好きな音楽を聴かされたことがなかった。というか、パパに構われた記憶自体がなかった。いいな、と思う。歌子は、恵まれているな。
マンションの出入り口に車を停め、彼は「じゃ、気をつけて。歌子をこれからもよろしくな」とにっこり笑ってわたしを送り出した。わたしは笑って手を振り、それからのろのろと建物の中に入った。
「歌子って子の家は、非常識なのね」
ママはわたしが家に着くとすぐにそう言った。
「相手の子の家で食事が用意してあることを、想像できないのかしら」
わたしは弱々しく目を逸らした。今日もママの料理は完璧だ。味つけと盛りつけが素晴らしいタンドリーチキン、サラダ、スープ、ぴかぴかのご飯。今日もパパの席には料理が置かれていない。素晴らしいはずの味など全くわからないまま、食事をする。
上目遣いに、ママを見る。ママは厳しい顔をし、時折まぶたが痙攣する。彼女はわたしの視線に気づいた。「どうしたの? 早く食べなさい」ときつい声を出した。
食べられなかった歌子の夕食が恋しかった。あの三人に囲まれて、楽しく会話しながら、平凡なご飯を口に運ぶのは、きっと温かいひと時だっただろう。
でも、わたしはママと二人で、無言で食事をするしかないのだった。それが、わたしの当たり前だった。
*
中間試験が終わった。それからわたしは体調を崩して学校を一日休んだ。ママはぶつぶつ言いながらわたしに作り置きのご飯を作ると、仕事に行き、いなくなった。一人きりの部屋で、わたしはただ静かに涙を流していた。
中間試験は、全くうまく行っていなかった。半分近く、適当に回答した。そもそも、わたしは高校の勉強内容をほとんどわかっていなかった。――ママの望む結果は、とてもじゃないけれど得られそうにない。
「どうしたの? お腹壊した?」
歌子からメッセージが届いた。何でもないよ、ただの食あたりだよ、と答える。でも、多分ストレスで胃を痛めていた。朝から吐き気が止まらなかったのだ。わたしは答案用紙が返ってくるのが怖く、どうしても見たくなかった。いっそママに知られる前に学校を辞めたいくらいだった。
翌日、勇気を振り絞って学校に行った。答案用紙は放課後まとめて戻ってきた。赤点は免れていた。ただ、上位なんて絶対に見込めない点数で、わたしはぎゅっと唇を噛んだ。
「試験、どうだった?」
家で、ママは上機嫌に訊く。わたしは笑って答えない。
「よかった? 五位くらいにはなるといいわねえ」
わたしは、ただ笑った。
一週間ほど経ち、わたしは試験結果を受け取った。手が震えた。一位はうちのクラスの委員長の篠原だった。彼はいつも何を考えているのかわからない無表情で、こんなやつが一位だなんて、と憎らしくなって、それが本当の憎しみのように思えて自分で恐ろしくなった。
渚は何位だろう? 一瞬考えて首を振る。知らないほうがいい。知ったところで、わたしよりずっと上に決まってる。
「雨宮渚、数学と化学満点だって」
サチがわたしの机に腕を載せて寄りかかり、いらいらした顔で言った。そうだ、この子は渚のことが特に嫌いだった。わたしと渚が仲良くしていたから。隣のクラスになったサチは、時折わたしのクラスに来て近況報告をしていた。
「いいよねー。天才様は。わたしたちにはわかんないことがわかってさ」
聞きたくなかった。けれどわたしは曖昧に笑った。
歌子が拓人と話していた。高校受験のときのあの美しい歌子の友達は拓人という名前で、わたしもそれなりに親しくしていた。二人は初めての試験の結果を報告し合っていた。何でもない顔で、こう言い合った。
「歌子、どうだった?」
「別に、普通。拓人は?」
「普通。ていうか真ん中より少し上って感じ」
「わたしも。あーあ、お父さんたちにどやされるよ」
胸の奥がどす黒く染まった。心の奥で、針が生え、伸びていき、わたしの心臓を突き刺すイメージが生まれた。痛い、と思った。痛い。痛い。誰か、助けて。
*
パン、と乾いた音がして、気づけばグレーのふわふわの絨毯の上でうずくまっていた。顔が痛い。左頬を、叩かれていたのだ。
「信じられない」
ママはわたしを叩いた手をもう片方で握って震えていた。完璧に整えられたショートカットヘアの茶髪はこんなときでも乱れなくママの美しい顔を彩っていた。
「後ろから数えたほうがずっと早いじゃないの。どういうことなの?」
わたしは答えられなかった。ママの右手を握る手の指にわたしの試験結果が挟まれている。
「十位以内どころじゃないじゃないの。あなたが遊んでいるからよ。もっと真面目にやりなさい」
勉強は、したはずだった。わからないなりに時間をかけてやって、ヒデ君や歌子や他の友達に質問して、どうにかやってきたのだ。ヒデ君はさじを投げ、親切な歌子は理解できないわたしに難しい説明を畳みかけたので、辛くなって断った。その結果がこれだ。わたしには、難しい勉強は向いていないとしか言えなかった。
「あなたは中学では十位以内だったでしょ?」
中学は今みたいに成績上位者だけ集めてあったわけではないから、と説明しても、ママはわからないだろう。ママもパパも学生時代から成績がよく、苦労なんてせずに一流大学を卒業したらしいから。
「信じられないわ」
ママは肩で息をした。わたしは茫然と絨毯を眺めた。合格祝いのあの日のことが、思い出された。嬉しそうなママ。ちゃんと帰ってきてくれたパパ。
電話がかかってきた。ママは携帯電話に手を伸ばし、震える声で「はい」と言った。しばらく沈黙し、次の瞬間、「わかったわよ。勝手にすれば?」とヒステリックな声を上げた。どうやらパパは今日も帰らないらしい。
「家庭教師をつけないとね」
ママはいらいらしながら言った。
「本当に信じられないわ」
またそうつぶやいて、ママはリビングから出ていった。
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