2.彼は優しい

 ヒデ君は、合格祝いにわたしを食事に誘ってくれた。大学生くらいの人たちが賑やかに昼食を取るお洒落な店内。漆喰の壁と、こげ茶色のカウンターとテーブルが印象的だ。ヒデ君はわたしがあげたフェルトのハットを被り、にこにこ、笑みを浮かべていた。

「合格したのはヒデ君のお陰だよ。だって勉強教えてくれたのはヒデ君だもんね」

「怜佳は元々勉強できただろ。実力実力」

 ヒデ君はハンサムだ。色白で、大人びた目をしていて、口元はいつも薄く口紅を塗ったように赤い。わたしはこの人が大好きだった。友達の紹介で知り合った彼は、女の子の扱いがスマートで、わたしに優しかった。あっという間に、多分ものの五分くらいで恋に落ちてしまった。押して押して押しまくって、わたしは彼を手に入れた。十二月につき合い始めて、今は交際三ヶ月くらいになる。ヒデ君は素敵だ。わたしの全てを赦してくれる。

「ヒデ君のほうが頭いいでしょ。S大の法学部って、今度入る高校でも上位にいないと入れないよ」

 ヒデ君は自慢をするでもなく微笑む。市内にあるS大学は、地元ではトップクラスの偏差値で有名だ。でも、ヒデ君は関西からこちらに来ていた。関西出身なら関西か関東の大学に入りそうなのに、少し不思議だ。一度そのことを訊いたらヒデ君は黙ってしまったので、訊くことはもうしないと決めている。嫌われたら、嫌だから。それにわたしはヒデ君の関西訛りが好きで、イントネーションが変わっているのが、何だか心地いいのだ。

「お母さんは、褒めてくれた?」

 ヒデ君が訊く。わたしはどきっとしながらも、うなずいた。

「もちろん。ママが一番期待してたことだもんね」

「嬉しかった?」

「うん」

「お父さんは?」

「……うん」

「ごめん、訊かなくていいことだったね」

 ヒデ君はわたしの手に大きな手を重ねた。ヒデ君はうちのことをよく知っている。わたしが話したから。その上で、わたしを大切にしてくれる。

 料理が運ばれてきた。ミートソーススパゲティーとマルゲリータ。わたしはミートソーススパゲティーを食べ、ヒデ君はシンプルなマルゲリータを口に運ぶ。スパゲティーは皿に対して量が少なかったので、わたしでも全部食べ切れそうだった。ヒデ君はこってりしたものが苦手で、色んなものが載ったピザには興味がなかったようだ。おいしい、と笑うと、ヒデ君はにこっと笑った。

「あとでうちにおいで」

 どきっとした。

「渡したいものがあるんだ」

 わたしはゆっくりうなずいて、赤面した。


     *


 ヒデ君の手がわたしの太ももを掴み、大きく割り開く。わたしは羞恥で顔を隠し、彼の顔を見られないでいる。彼の体はやせっぽちだ。みすぼらしいとまではいかないが、骨ばっている。彼はその体をわたしの体に擦りつけ、違う質感の体の存在をわたしに知らしめる。

 彼とのセックスはいつも恥ずかしい。好きだという気持ち、嬉しいという気持ちはいつも行為のあとのまどろみのときに訪れる。わたしの初めての相手が彼だということ、彼がわたしの感じるところをすぐに見つけてしまうこと、そのたびにわたしが自分の知らない自分を発見してしまうこと、がその理由であるようだった。彼はセックスが上手かった。わたしの前に、どれだけたくさんの人とつき合ったの? そんな質問も思い浮かぶが、訊いたことはなかった。傷つくのはわたしだけだという気がした。わたしが彼の前につき合った、手を繋ぐまでだった恋人、キスまでだった恋人の話をしたとして、彼はわたしほど嫉妬してくれないような気がした。

 彼の簡単なベッドの上で、息をつく。彼は一旦そこから離れてガラスのコップを二人分持ってきた。ミネラルウォーターだった。一口、二口飲み、ありがと、と言う。シャワーを浴びようと、立ち上がる。彼はわたしの手首を掴んで引き留めた。

「渡したいもの、いらんの?」

 不意に方言が出た。わたしは微笑んだ。彼の気持ちがころんとまろび出るとき、方言が出るのだった。彼はわたしの手に、何か固い、冷たいものを握らせた。そっと見てみると、それは鍵だった。

「合い鍵。これ使って、いつでもおいで」

 涙が溢れてきた。本当の彼女になれた気がした。わたしはヒデ君に抱き着き、首にしがみついた。

 この人が好きだ。心からそう思った。


     *


 高校の入学式で、わたしはあの子と同じクラスになったと知った。声をかけようかと思ったけれど、それどころではなく、わたしはクラスの委員のメンバー紹介を見ていた。図書委員、風紀委員、クラス委員など、面倒な仕事が約束された役割なのはわかっていたが、この高校では入学時に担任が成績順に委員を決めるようだった。クラス委員長は入学式で答辞を読んでいた背の高い篠原という男子。他の委員も見たことのない人たち。――わたしは、選ばれていなかった。委員は十人近くいた。クラスで十位以内に入っていないということは、わたしは入試で平凡な成績しか取れなかったということだ。愕然とした。

 わいわいと、同じ中学の子たちと話す。わたしは高校でも友達がたくさんできそうだった。もう他校の活発な子がわたしの周りに集まっている。あの子は、一人本を読んでいた。まるで友達を作ることを諦めているようだった。

「ねえ、何読んでるの?」

 わたしは人の群れから抜け出し、あの子のところに行った。あの子はわたしをじっと見て、あ、と微笑んだ。

「受験のとき、隣だったよね」

「そうそう。ね、本好きなんだ。何読んでるの?」

 彼女は聞いたことのない女性作家らしい名前を挙げた。わたしはうなずく。わたしは小説なんて課題図書以外は一冊も読んだことがなかった。全然、わからなかった。

「ね、あなた何て名前?」

 わたしはいつものように気軽に名前を訊いた。あの子は嬉しそうに笑った。名前を訊かれるなんて、すごいことじゃないのに。

「町田歌子っていうんだよ。ちょっと野暮ったいよね」

 確かに、歌子という名前は古風だ。でも。

「かわいい名前だね。お父さんとお母さんがかわいいかわいいって思ってるのが伝わる」

 歌子は、目を丸くした。

「何でわかるの?」

 少し、胸がざわめいた。

「うちの親、過保護なんだよね。嫌になる」

「へえ。やっぱりそうなんだ」

「あなたの名前は?」

 歌子はにこにこ笑いながらわたしに訊いた。

「原怜佳。怜佳って呼んで。わたしも歌子って呼びたい」

 歌子はにこにこ笑った。

「いいよ、怜佳。よろしくね」

 わたしと彼女は軽く握手をした。彼女の手は、ひどく冷たかった。

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