あの子はいい子

1.あの子はいい子

 あの子に会ったのは、高校受験の日。わたしが自信満々の秀才で、容姿をいつも褒められて、性格も明るくてつき合いやすいと言われていたころ。受験の日だったからさすがにナイーブになっていたけれど、自信なさげな友達を励ます元気くらいはあった。

 あの子は目立たない子。受験の日はずっと隣で、顔を傾けるたびにおかっぱの黒髪がさらさらと顔に流れた。あ、この子は素質あるじゃんって思った。顔もちゃんと見たら整っているし、見た目に全く構っていないタイプでもなさそうだし、磨けば結構なかわいい子になるという気がした。

 友達はいなさそうだった。試験科目が終わるたびに、わたしたちは廊下に追い出される。わたしは当然友達とわいわい話しながら、お互いの不安を紛らわせていた。他校であっても同じように群れると思う。なのにあの子は一人で予習をしていた。黙々と、表情一つ変えずに。一人ぼっちなんだな、と思った。あの子に友達がいたら、笑った顔を見られるのにな。そんなことを考えて、わたしは何を考えてるんだろう、と自分に呆れた。話したこともない、他校の子。わたしは確かに世話好きだけど、そんな子に構ってあげたりするには、受験の日はシビアな空気が流れていたし、わたしも余裕がなかった。

 少し暑いくらい効いた暖房。張り詰めた空気。休憩室として開放された二階の教室で、わたしはあの子を見ていた。あの子はわたしに気づかなかった。ずっと隅にいて、暗い子なのかな、と思った。なら、つき合いにくいからさっさと気にするのをやめたほうがいいかな、とも。そこに同じ中学と思しき男子がやってきた。とんでもないくらいきれいな顔をした男子で、わたしの友達も息を呑むような顔で彼を見ている。男子は彼女に受験の愚痴を言い、一方的に話しかけた。あの子はにこにこ笑っていた。口元がほころび、口角がきゅっと上がる。目も優しくなる。あ、やっぱりかわいい。そう思った。

「感じわる」

 わたしの友達のサチが言った。どうやらあの子がきれいな男子と話して、そのあとすました顔で予習を始めたのに何か不快感を覚えたらしかった。この子はいつもそうだ。他人に嫉妬してばかり。わたしは合わなかった友達はいても、嫉妬したことなんてなかった。――家庭環境がいい子は、ちょっといいなと思うけれど。わたしの家は裕福だし、両親ともに美形だし、パパは大手企業で部長をやってるし、ママは料理教室をやってて家事も完璧だし、わたしは恵まれているほうだと、思う。

「あの子さあ、何か暗いよね。友達いなさそー」

 サチはなおも続ける。こんな日にまで他人の粗探しなんて、この子はよっぽど満たされていないんだな、と思う。同じ感想を抱いたことなんてすっかり忘れて、わたしは彼女にこう言った。

「かわいい子じゃん。そんなことより集中しないとヤバいよ。がんばろ」

 サチは不満げに言われた通りにした。あの子は、やはり静かに勉強していた。ちょっと、人形みたいだな、と思った。

 次の日も同じ高校の受験だった。あの子はやっぱりわたしの隣。気にしすぎると点数に響く気がして、あまり見たりしなかった。あの子はさらさらの髪越しにしか顔が見えない。近いのに、遠くにいるみたいだった。

 英語科目の試験が始まるときになって、事件は起きた。消しゴムが、見つからなかったのだ。多分、前の数学が終わったときに落としてしまった。背中がさーっと冷たくなった。もう、あと二分くらいしかない。焦ってペンケースを何度も開け閉めした。同じ中学の子を探してきょろきょろした。涙目に、なった。一回も間違わなかったら、消しゴムなんていらない。でも、高得点の問題で解答を間違えたら?

「消しゴムないの?」

 隣の席から、小学生みたいな幼い声が聞こえてきた。甲高いというよりは細い、繊細な声。あの子だった。あの子は口元に手を当て、ひそひそとわたしに話しかけた。

「落としたみたい……」

 わたしが言うと、彼女はすぐにペンケースから小さな消しゴムを出し、わたしに渡した。

「いいの?」

 わたしが訊くと、あの子はにこっと笑った。その瞬間、準備時間が終わり、試験は始まった。ほっとして、問題に集中できた。そのまま試験終了まで、あの子の存在を意識しながら、問題を解き続けた。

 止め、の声が聞こえ、試験は終わった。これで全ての教科は終わりだ。あとは結果を待つのみ。他の志望校の受験は済み、結果が判明していないもの以外全てが合格だったわたしは、久々に解放された気分になった。

「ありがと」

 終わってすぐにあの子にお礼を言った。あの子はにこっと笑い、

「消しゴム、二個持ってたから。お互い合格できるといいね」

 と、あのかすれた子供の声で言った。わたしも笑った。何か言おうとした瞬間、サチが飛びついてきた。

「もう駄目。わたし落ちると思う」

 などと言いながら、ぐいぐいわたしを受験会場から連れ出す。あの子はぽかんとしていた。わたしはサチをあやしながら、あの子に手を振った。あの子も、あの魅力的な笑顔を浮かべ、手を振り返してくれた。

「何話してんの? あの子何したわけ?」

 サチの言葉に、この子は独占欲も強いんだっけ、と思う。

「ううん。でもあの子はいい子だと思うよ」

 そう答えると、サチは疑わしそうに、あの子を見た。あの子は昨日の男子と一緒に帰ろうとしていた。サチの不機嫌は、増した。


     *


 高校は全て合格した。パパとママはお祝いに腕時計を買ってくれた。これから時間を気にすることが増えるだろうからと。高校では腕時計をつけるのは普通のことで、何だか大人になったみたいで嬉しかった。

 腕時計はシルバーのスクエア型で、ネイビーの革のバンドで腕に巻きつける大人っぽいデザインだ。それをかざしていると、ママはにっこり艶やかに微笑みながら、こう言った。

「高校では必ず十位以内に入るのよ」

 心臓がぎゅっと締めつけられる気がした。それでも、従順にうなずく。

「雨宮さんに負けちゃあ駄目よ。あなたは中学じゃいつもトップクラスだったし、巻き返せないことはないわ」

 また、うなずく。

「雨宮さんは、天才だ何だって言われるけど、得意なのは理系科目だけでしょ? あなたはオールラウンダーだし、着実に一位にもなれると思うの」

 どきっとする。一位? まだ受かったばかりなのに、気が早すぎる。県内の女子が入れる高校でもトップの高校に受かって、そんなことはまだまだゆっくりと考えたいのに。

「頑張りなさいね」

 ママはわたしに手を伸ばした。びくっと体が跳ねる。でも、ママはわたしの肩に手を載せただけだった。

 居間のソファーはグレーでふかふかの豪華なもので、わたしは真ん中に、パパは一人掛けのお揃いのものに、ママはわたしの隣に座っていた。パパは、いつだって微笑んでいる。わたしに関心がなさそうに、にこにこ。

 忙しいのはわかっている。パパは部長だ。部下の面倒も見なければならないし、いつも遅くまで仕事をしているから疲れているのだ。けれど、少し虚しい。

「あなた。明日この子の合格祝いをしようと思ってるの。夕食の後。いい?」

 ママがパパに訊く。パパは困ったように笑い、こう答えた。

「明日の夜は部下に話を聞いてほしいと言われててな、飲みに行くんだ。ごめんな」

 パパはママを見て言った。わたしのほうを見ずに。ママは不満げにまた訊く。

「明後日は?」

「明後日から、短期の出張なんだ。悪い」

「聞いてないわよ」

 ママの声が甲高くなった。わたしはびくっと体を揺らす。パパはにこにこ笑いながら、――いや、へらへらと言うべきなのか――忙しいんだ、本当に、と言った。

 ママはふっと糸の切れた操り人形のように、魂の抜けた顔をした。

「……わかったわ。仕方ないわね」

 そう言って、立ち上がった。パパはその途端、無関心な顔になった。その変化の瞬間を、わたしはじっと見ていた。パパはそんなわたしを見て、視線を振り切るように目を閉じた。

 翌日、ママと二人でケーキを食べた。嬉しい声を上げ、子供のころ好きだったチョコレートケーキを頬張る。今はチーズケーキのほうが好きなのにな、と思いながら。

 ママは虚ろに笑っていた。そうだろうな、と思う。

 パパには女がいるのだ。その女との生活のほうが大事なのだ。わかりきっていることだけれど、……わたしの存在って何だろうな、と思う。

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