26.拓人の策略
「きゃーっ、素敵!」
と雪枝さんは叫んだ。ここはこの間と同じコーヒーショップだ。周りの人たちがパッと振り向き、パッと元に戻る。わたしは大慌てで雪枝さんにジェスチャーを送り、黙らせた。それでも彼女はうきうきと騒ぎたい気持ちを押さえている様子で、わたしは大いに困った。
「で? で? どうなったの? つき合うことになったの?」
「雪枝さん、はしゃぎすぎ……。別に、そういうんじゃないし」
「え、つき合わないの?」
「つき合うとかつき合わないとか、わからないし」
わたしの言葉に、雪枝さんが驚愕していた。何もおかしなことを言っていないつもりだったので、わたしまでびっくりした。
「篠原君は絶対にそういうつもりでいると思うけど」
「そう、かな」
顔が赤くなるのがわかった。篠原のことを考えるだけで、この二日、こうなってしまうのだった。
「ほらー、歌子だってまんざらでもないしさ」
「わたしは……わたしは、よくわからない」
わたしがしょんぼりと目の前のクリームだらけになった桃のジュースを見つめていると、雪枝さんがにかっと笑った。
「大丈夫大丈夫。明らかに歌子は篠原君のこと好きだし」
「ちょっと、雪枝さん。……そうなの?」
雪枝さんは呆れた顔をし、「そうなのじゃないよ」と身を乗り出した。
「いい加減自分の気持ちくらいわかるようになりなさい。篠原君のこと、好きか嫌いか?」
「……好き」
「友達としてかどうか」
「……わからない」
「篠原君に彼女がいたらどうか」
胸がずきっとした。一瞬黙り、
「嫌だ」
と答えた。雪枝さんはどうだと言わんばかりにますます身を乗り出し、「ほら、はっきりしてる」と言った。
「自分の気持ちを分析しなさい。色んな条件で想像して。恋愛感情ほど、わかりやすいものはないよ」
はい、解決、今から映画館でも行こうね、と雪枝さんは笑った。わたしは雪枝さんが導き出した結論に反論をしたかったのだが、どんなに考えても篠原のあのときの表情を思い出してしまい、ぼんやりとあの日に立ち返ってしまい、結論は出ないのだった。
わたしは篠原のことが好きなのかもしれない。でも、だからといってどう動けばいいのだろう。好きだと伝える? そんなこと、恥ずかしくてできない。篠原はこれからどう出てくるのだろう? それも、考えるだけでパニックになるほど嬉しさと怖さが入り混じった気分になる。
明日は月曜。篠原に会える日。胸が騒いで仕方がない。
*
教室に入ると、篠原がいた。当然だ。もうすぐホームルームなのだ。けれど、他にもクラスメイトがいるはずなのに、篠原しか目に入らない。体中が熱くなった。手が汗ばんで仕方がない。どうしてわたしの隣が篠原なのかと、突然田中先生を恨めしく思った。
「おはよう」
篠原が微笑んだ。どきっとし、目を逸らした。小さく「おはよう」と返す。
「チョコレート、全部食った。おいしかったよ」
「それは、よかった」
目を逸らしたまま、答える。篠原の様子はいつも通りで、わたしのほうが明らかに変だった。わたしが篠原の言葉を待ち、篠原がわたしの行動を待っていると、沈黙したまま時間が過ぎてしまった。そのままの状態で田中先生が教室に来てしまい、クラス委員長の篠原は通る声で号令をかける。
もったいなかったな、と後悔した。もっと、色んなことを話せばよかった。チョコレート、頑張って作ったんだよ、とか、篠原が一番いい反応をくれたんだよ、とか。
篠原は、雪枝さんが言ってたみたいにわたしとつき合うつもりでいるのかな。そう訊きたい気もしたが、それはここで言うべき話題ではなかった。
*
廊下を歩いていると、岸君に捕まった。うきうきした顔で、けれど悲しげな表情を作っている。何かおかしなネタを掴んだな、と察して逃げようとしたが、それより前に彼はこう言った。
「おれにもチョコレートくれればよかったのにー」
「岸君、男子にはあげないって言ったでしょ」
わたしが慌て気味に答えると、岸君はますます演技力を発揮して泣き真似を始めた。
「ひどいよ町田さん。おれにはそう言っておいて、篠原にはあげるなんて。差別が過ぎる」
「岸君、怒るよ」
わたしが横目で見ると、岸君は元に戻って笑っていた。
「冗談冗談。篠原、喜んでると思うよ」
「篠原に直接聞いたんじゃないの?」
「いや、家に行ったら篠原の部屋にチョコレートの箱があったから、さては、と思ってさ」
察しがよすぎる。反応に困っていたら、岸君はますます笑いを深めた。
「本命チョコレートだろ?」
どきっとした。今ここで、本命か義理か答えるのは嫌だった。誰も見ていないけれど人がたくさん通っている廊下だし、相手は篠原の親友の岸君だ。頭の中でぐるぐる思考が回る。わたしはとっさにこう言ってしまっていた。
「義理! ……だし」
岸君が驚いた顔をしているので、そこから去ろうとした。でも、振り向くと篠原がいて、わたしは固まった。篠原はいつも通りの顔をしていた。岸君に持っていた教科書を返し、わたしにこう言う。
「町田。もうすぐ授業始まるよ」
篠原は微笑んでいた。頭の中で、篠原に聞かれてしまった、という言葉がゆっくりと落ちていき、底にたどり着いた瞬間、わたしは泣きそうになっていた。
違うんだよ、と言いたかったけれど、言えない。何が違うのかうまく説明できないから。本当は好きだよ、だから本命。そう言えたらどんなに気が楽だろう。でもわたしは頑固で、そういう言葉をどうしても引き出せない。
潤んだ目のまま、篠原の後ろをついて歩いた。
*
試験の結果はまあまあでしかなかった。この間の試験がなかなかだとしたら、だけど。このまま成績が下がっていくのかなあ、と気持ちが陰る。
隣の席の篠原は、大勢の秀才たちに囲まれて、あれが難しかった、あれをどう解いた、などと話しかけられている。それをほとんど無表情でやり過ごしている篠原は、わたしを特別扱いしてくれているんだなあ、と思う。彼らは篠原から笑顔を引き出せない。わたしや彼の本当の友人しか。
篠原に言い訳をしたい。本当はこういうことなんだ、と説明したい。でも、手遅れだ。それも時間を追うごとにますます酷くなっていく気がする。言い訳のチャンスが減っていく。
しょんぼりと机を見つめていると、上から声が降ってきた。
「歌子。何しょげてんの」
拓人がにっこり笑っていた。わたしはまた机を見る。
「しょげてない」
「篠原としゃべりたいの?」
「そういうわけじゃない、けど」
拓人は思案していた。それから唐突にこう言った。
「おれ、彼女できたからさあ」
「えっ」
本当にびっくりした。どうやら本気のようで、からかうときの顔ではなかった。
「歌子に何の未練もないから、歌子には幸せになってほしいわけ」
よくわからない理屈だったけれど、うなずく。
「だからちょっと待ってろよ」
わからないまま、うなずく。
「それで、どんな子なの?」
思わず訊くと、拓人はにこっと笑った。
「サッカー部のマネージャー。さっきチョコレートもらったんだ。バレンタイン前も当日も、勇気が出なくて渡せなかったんだって。いじらしくない?」
わたしはうなずく。拓人に恋人。寂しいが、嬉しい気もする。
「あ、休み時間が終わる。じゃあな」
拓人がするっと机の間を抜けていく。ふと見ると、篠原はわたしを見ていた。目が合ったはずなのに、彼は逸らした。わたしはまた言い訳のチャンスを逃したのだ。
答案用紙が、死のカウントダウンのように規則正しく戻ってくる。昼休みは一応一緒に食べたが、岸君ばかり話している。ああ、やってしまったのだ。そればかりが頭の中を満たしている。
*
放課後、拓人に教室に残るように言われた。何の用事だろう、と思いつつも、自分の席で本を読みつつ待っていた。隣の席には篠原がいて、さっきからずっと気になっている。話しかけることもできない。
一人、二人と、残っていたクラスメイト達が帰っていく。残ったのは、二人だけだ。篠原とわたし。
ちらりと篠原を見る。相変わらず、彼はきらきら輝いて見えた。わたしは彼を素敵だと思っている。それは認めよう。だけど、どうしてもそこから踏み込んだ結論が出ない。
「町田」
篠原が前を向いたままわたしに声をかけた。どきっとして、おかしな声が出る。篠原はわたしのほうを向いて、こう訊く。
「誰か待ってるの?」
「うん」
「おれも」
それからまた前を向く。今、チャンスだった、とわたしは思った。話すチャンスだった。色々なことを伝えるチャンスだった。
チャンスが終わってしまうのは、自分で諦めているから。それだけだ。
突然そう思い、わたしは自分でもびっくりするほど体が勝手に動き出したのに気づいた。わたしは、立ち上がっていた。篠原はそれを驚いたように見上げている。
「篠原! あ、あのさあ」
「何?」
篠原はいつもの微笑みを浮かべずに、訊く。体温がおかしい。上がったり、下がったり、忙しいのだ。
「チョコレート、義理じゃないよ」
「え」
「本命、だよ……」
顔がかあっと熱くなった。彼の顔を見ているのか見ていないのかよくわからない。彼と思しき方向を見ている。焦点があったときには、彼の真剣な顔がわたしのほうを向いていて、唇が「本当?」と動いていた。
「本当! 本当だし、岸君にああ言っちゃったのは、恥ずかしかったから、だし」
がたん、と音がして、篠原が立ち上がっていた。背の高い彼。彼は期待に満ちた目でわたしを見ている。
「篠原、一つお願いがあって」
「何?」
「篠原の目、ちゃんと見てみたいなって」
今このときの彼を、よく見ておきたかった。今見ているこの表情も、わたしにとっては宝物で、愛おしいものだ。いつまでも覚えていられるように、しっかりと目に留めたかった。
彼は少し顔を傾けて、わたしが見やすいように見下ろす格好になった。わたしはそっと手を伸ばし、彼の顔を触った。てのひらで挟むようにし、じっと見る。彼の白目は、青みを帯びていてとてもきれいだ。瞳も、少し色が薄くて宝石のよう。目の形は、こんなときでも目尻が上がっている。
と、彼の瞳が揺らいだ。あ、と思っていると、わたしの体はいつの間にか彼に抱きすくめられていた。
彼の体は温かい、と思った。制服越しの体は、硬くて柔らかくて、生きている人間だ、という妙な感動を覚えた。幸せな気持ちでいっぱいだった。彼に包まれていることがこんなにもわたしを幸福にするなんて。
彼の呼吸音が頭上で聞こえる。震えるような声で、彼は言った。
「好きだ」
心臓が破裂する、と思った。わたしの息も上がり、いつの間にか泣いていた。嬉しくて。何だ、通じ合うってこういうことなんだ、と思う。好きだと思った人がわたしのことを好きだと思ってくれる。何てすごいことなんだろう。
わたしはもぞもぞと動き、彼の体に手を回した。
「わたしも、好き」
彼はぎゅっとわたしを抱きしめた。
*
拓人の策略は大したものだった。彼はわたしと篠原を同時に呼び出し、そのまま自分は来なかったのだ。わたしと篠原はそれをいかにもひどいやり口のように言い合い、笑う。
彼の気持ちを聞いた。彼はずっとわたしのことが好きだったのだと言って、わたしを驚かせた。四月からそうだったらしい。わたしは照れながら聞いた。
わたしの話をした。わたしが生きてきた十六年について。そこに彼がほとんどいなかったことに驚いていると、彼は嬉しそうに笑った。
手を繋いで帰った。今、彼の輝きは十倍にも百倍にも膨れ上がっている。
世界中が輝いて見える。全てが、愛おしい。木々も、空も、鳥も、校庭のクラスメイトたちも、きらきらとまぶしい。
彼がそうさせていると思うと、彼の偉大さに気づかずにはいられなかった。
彼はすごい人。彼はわたしの世界を変えた。美しく、変えた。横顔を見て笑う。振り向いた彼の微笑みを見て、また笑う。
「篠原がいて本当によかった」
わたしが言うと、篠原はまぶしそうに、笑みを作った。
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