25.バレンタインデー
意外にも、学年末試験には手応えを感じていた。文系科目を中心に、それなりにすらすらと問題を解ける。カリカリと、シャープペンシルの音が教室中に響く。五分ほど余裕をもって解答を終えたわたしは、最初から見直しをしつつ、バレンタインのことを考えていた。
バレンタインデーは土曜日で、学校は休みだ。今日は木曜日。なら、今日家に帰って明日篠原に渡すほうがいい、と考える。明日も試験だ。でも、この調子なら大丈夫だと思うし、何よりわたしは篠原にチョコレートを渡したかった。
喜んでくれるだろうか。見たことのない表情を浮かべてくれるだろうか。それはきっとわたしの宝物の一つになるだろう。言葉も、一生忘れないだろう。
笑みを浮かべていると、チャイムが鳴った。中村先生が「後ろから集めて」と言う。一番後ろのわたしは素早く答案用紙を集めて先生に渡す。
「そんなに自信があるの? にこにこして」
先生の挑むような顔にどきりとしながら愛想笑いを浮かべる。この試験は現代文のもので、中村先生はわたしたちにとっては古典の先生だが、国語科の教師としてわたしの表情は見過ごせなかったのだろう。どうか点数がいいものでありますように、と願った。
篠原は今回もほぼ満点なんだろうな、と思う。ちらりと篠原の席に視線を送る。試験のときだけは出席番号順に座らなければならないので、わたしたちは離れている。試験が終わったので話しかけようと思ったが、彼の周りには他のクラスの秀才たちが集まってきていた。頭がいいと大変だな、と思う。話しかけるチャンスを逃し、わたしはもやもやしていた。今日作るチョコレートで、全て発散してしまおう。そう思った。
*
チョコレートの本は、去年の使い回しではつまらないからお小遣いで新しく買ってきた。去年のものは作者名が特に載っていない安い本だったが、今回は違う。テレビに出てくる有名なお菓子研究家のレシピ本だ。どこが違うのかと言うと、チョコレートにチリペッパーを入れたりと、一味違う作り方なのだ。篠原は甘いものが得意ではない気がして、それなら少し違うものを作ればいいと考えたのだった。
チョコレートを刻み、無塩バターを混ぜ、湯煎で溶かす。手には英語の単語帳を持っていて、一応勉強していた。けれど母が心配そうに訊く。
「試験は大丈夫なの? こんなときにチョコレートを作ったりして……」
「大丈夫だよ、勉強してるし」
わたしは笑みを浮かべる。母はそれでも不安げだ。台所を行ったり来たりする。
今日作っているのはトリュフだ。できあがったチョコレートの塊に、ココアパウダーをまぶす。父の分と母の分、お世話になった人たちの分、それから拓人の分、最後に篠原の分。できあがったものを箱に収め、にっこり笑う。きっと篠原はわたしのチョコレートに喜んでくれるはずだ。
一応、チョコレートができたあとは必死に勉強した。成績が下がってしまっては、来年以降のチョコレート作りに影響を受けかねない。わたしは来年以降も篠原にチョコレートをあげたかったし、それだけは何としても避けたかった。
*
多分、チョコレートに気持ちを割きすぎてしまっていた。家庭科と保健体育の試験は意外にも手強く、これは平均レベルにも届かないな、という気になった。ちょっとがっかりしたが、わたしにはチョコレートがある。皆にチョコレートを渡して、篠原に渡して……と考えているだけで試験のことは忘れられる。
教室の前の廊下を歩く中村先生を見つけ、慌てて追いかける。先生を呼び止めると、彼女は驚いたようにわたしを見た。
「先生にバレンタインチョコレートです!」
「あら、ありがとう」
先生はにっこり笑った。先生のことは好きだ。わたしのことを気にかけてくれたこともありがたいし、先生の存在はわたしにこうなりたいという希望を与えてくれる。わたしもこういう強くて芯の通った人になりたいのだ。
「ねえ、町田さん。あなたまさか、昨日これを作ったの? 試験勉強は……」
「じゃ、他にも配らなきゃいけないので!」
先生の疑問を吹っ切るように、慌ててその場を去った。先生は腕を組んで「全くもう」という顔をしている。
教室に入り、拓人を呼ぶ。教室内でチョコレートを渡すわけにはいかない。女子たちが恐ろしい目つきでわたしを見るのはこの十数年でよくわかっている。階段の下に呼び出し、掃除用具入れの隣でひそひそと話しかける。
「これ、約束の」
チョコレートの箱を渡すと、拓人はいつも通りの声で「ありがとう!」と言った。慌てるわたしをよそに、彼は階段の段に腰かけ、ラッピングをほどき始めた。
「家でもいいんじゃない?」
「えー、でもおれ今腹減ってるし」
トリュフはいい出来だった。彼は一つだけ手に取り、ぱくりと口に入れる。
「あ、うまーい。え、でも、何これ、スパイスか何か入ってる?」
彼は顔をしかめてわたしを見る。チリペッパーを……と言うと、拓人は、
「おれ、普通の甘いトリュフが好み」
と言い出した。突然自信がなくなってきた。他のトリュフも全て同じ味なのだ。
「そんなこと言わないでよー。レシピ本、結構したし、チリペッパーも遠くの材料屋さんに行って買ったんだから」
「ごめんごめん。おいしいよ。おいしい」
ごまかすような拓人の言葉に、はあっとため息が出る。篠原は、どう反応するのだろう。昨日まで描いていた彼の喜ぶ顔のイメージが、ぼやけていく。
「あ」
拓人が突然声を上げた。わたしが彼の見るほうを見ると、篠原が同じように口を「あ」という形にしていて、わたしが慌てて立ち上がると、篠原はすぐに廊下を行ってしまった。拓人を置いて、大急ぎで追いかける。
彼が誤解したかもしれない。いや、彼がわたしを好きだとは限らないんだし、気にしなくても。それでも今は急いで彼に声をかけなければ。様々な考えが頭を巡る。教室に着いたころには彼は帰ろうとしていて、あ、やっぱり、と思った。わたしはまずい場面を見せてしまったのだ。
「篠原、待って」
教室を出る彼を、追いかける。篠原はぴたりと立ち止まり、こちらを振り向く。
「何で?」
「何でって、あの、チョコレートあげたいから……」
顔がかあっと熱くなる。彼はそれでも冷たい表情でわたしを見ている。
「男子にはあげないんじゃなかったっけ?」
「それは、お父さんと篠原と拓人は特別で」
「いいよ。くれなくても」
体中がさあっと冷たくなった。同時に、頭が煮詰まったように熱く、痛みを感じた。
「何でそんなこと言うの」
泣きそうなわたしに、篠原はたじろぐ。目を逸らし、それでもわたしを突っぱねようとする。
「どうせ」
篠原は口ごもった。
「おれは『いい人』の枠なんだろ?」
わたしは首を振る。そんなんじゃない。
「親切で、優しくしてくれる男子の一人でしかないんだろ?」
違う。
「おれなんて、いてもいなくても……」
「篠原はわたしにとっていてくれなきゃ困る人なの!」
言い終わった瞬間、ここが廊下で、人がそれなりに歩いていて、見られていることに気づいた。顔がまた熱くなる。今度は恥ずかしさで。
篠原が慌ててわたしを昇降口のほうへ連れ出した。靴を一緒に履き、出入り口の向こう側、人気のない木の下に向かって歩く。とても寒い。篠原の肌は寒さで頬が赤くなっているし、白い息が口から溢れている。
「今の、本当?」
わたしはうなずく。篠原の目は、少し潤んでいる。いや、わたしのほうが涙ぐんで視界がきらきら光って見えるのだろう。
「そっか」
「チョコレート、受け取ってくれる?」
わたしが訊くと、篠原は大きくうなずいた。わたしはぱたぱたと走り、教室中の注目を集めながらチョコレートの入った紙袋を持ち、また戻った。篠原はそわそわと待っていた。
「はい」
箱を渡すと、篠原はしげしげとそれを見た。
「何か、重い……」
「篠原のは大きく作るって言ったでしょ。一番大きいんだから」
わたしが拗ねて言うと、篠原はちょっと笑って箱を開け始めた。トリュフの上にかかっているワックスペーパーをどかすと、
「ホントだ」
と笑った。それはテニスボール大のトリュフで、かなりの大きさだった。篠原は箱ごと口に寄せ、それにかぶりついた。驚いて見ていると、彼はにっこり笑って、
「おいしい」
と言ってくれた。
「何かスパイスが入ってるんだな。こっちのほうが好き」
唇が震え、笑ったまま彼の顔をじっくり見ることができなかった。彼は今までで一番まぶしかった。期待していた言葉と笑顔を見せてくれたはずなのに、何だかそれがわたしにはもったいないような気がして、大きすぎる感情に、わたしは身動きを取れずにいた。
「ありがとう」
彼は今まで見てきた中でも一番優しい顔をわたしに向け、手を握った。それらしい理由もなく突然握られた手は汗ばみ、篠原の温かい手の感じが包み込むようで、今までにない恥ずかしさと嬉しさがそこにあった。
わたしは篠原の手を握り返し、彼を見つめた。彼はわたしを見ていた。そして、――顔を真っ赤に染めて、目を逸らしたのだ。
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