22.わたしを形作るもの
冬の朝がこんなにわくわくするものだとは思いもしなかった。黄色いマフラーの結び目をぎゅっと固めて、黒いローファーをこつこつ鳴らしながら速足で歩く。笑顔を浮かべるのは我慢している。変な人間だと思われるから。目で人の群れの中を探る。わたしと同じような紺色の高校生たちが、大勢歩いている。ひょっこりとそこからはみ出した、短髪の頭が前方に見えた。さすがに始業式は普通の時間に来るらしい。わたしは駆け出した。大声が、喉から溢れた。
「しのはらーっ、おはよう!」
驚いたようにその人は振り向き、わたしの姿を認めると、見たこともないような温かい笑顔を浮かべた。まるでほっとしたかのような、あるべきものを確認したような、そんな顔。わたしが隣に並ぶと、篠原はいつもの微笑みを見せ、先程の表情は何だったのかと思うくらい、普段通りだった。
「おはよう」
いつもの声音の篠原の隣には岸君がいて、わたしが挨拶をする前に「おれには気づかなかっただろ」と唇を尖らせ、笑った。そんなことないよ、とうそぶく。
「年賀状、ありがとう」
篠原はほとんどアルカイックスマイルに近い表情で、わたしを見た。先程の表情をもう一度見たいと思っていたのに、これでは到底再現されそうにない。
「あ、やっぱりあれ町田さんのか。こいつ、にやにやしながら読んでたよー」
岸君が相変わらずの豊かな表情で篠原を指さす。途端に篠原が顔色を変え、こいつ、という表情で岸君に歯を見せる。岸君は飄々と素知らぬ顔で篠原の視線を追って明後日のほうを向く。わたしは篠原の表情をまた新しく見つけて、嬉しくてたまらない。十代らしい怒った顔だって、わたしには大切だ。
それにしても、にやにやしてわたしからの年賀状を読む、篠原の様子を見てみたい。こればかりは岸君が羨ましかった。
世間話をしながら校門を抜け、教室前で岸君と別れ、中に入った。
「おはよ、歌子」
拓人が早速声をかけてくれた。わたしも彼に挨拶を返す。拓人は困った顔で笑いながら、
「小吉だからさー、靴の紐切れちゃった」
と言う。まだ元旦のおみくじを引きずっているのだろうか。わたしは声を上げて笑う。
「わたしは大吉だからいいことばっかりだよ」
「それはよかったねー」
拓人は笑い、ひらひらと手を振りながら自分の席に戻っていく。何だか、以前よりも気楽に話せている気がする。彼がわたしを諦めたからだろうか。そう考えると、自分が少し残酷に思えてくる。
振り向くと篠原がぼんやりとしていて、「先生来るよ」と言うと、いつもの篠原に戻った。
「仲直り、したんだ」
微笑む篠原に、わたしはうなずく。どうして拓人と話さなくなったのか、篠原には話していない。けれど、何となくわかっているだろう。互いに説明するべきことだと思っていないだけで。
「よかったな」
篠原は、自分の席に歩いていった。
わたしもいつもの席に向かった。怜佳は相変わらずそこにいて、頬杖を突いて携帯電話をいじっていた。横を通っても何も言われない。舌打ちすらされない。もう、わたしは彼女にとっての透明な存在になっているようだった。彼女の取り巻きだった人たちも、集まって怜佳をにらんでいたりしない。彼女たちの中に新しい女王が誕生したらしく、今はその子が中心になってグループは動いているようだった。
何はともあれ、篠原と同じクラスにいられるのだ。それがとても嬉しかった。
*
始業式が済み、授業も済み、昼休みになった。チャイムの残響の中、先生が教室から出ていく。
それはそのときに起こった。
怜佳の元取り巻きたちは、教室の後ろにいた。怜佳はわたしの前の席にまだいて、携帯電話をいじっていた。集団の中の一人が、笑いながら怜佳に近寄って何かを投げた。ぺとっと髪の先にくっついたのは噛んだあとのガムで、わたしはぎょっとしてそれを手で取った。
思ったよりもたくさんの髪に張りついていたらしく、髪を引っ張られたことに気づいた前の席の怜佳が、振り向いてわたしをにらんだ。
「何だよ」
「え、ええと、ガム、が」
怜佳の長い栗色の髪はよく手入れされていて、内巻きに巻いてあってとてもきれいだった。その先にあるガムは完全な異物で、怜佳の目がそこに留まると、わたしをじっと見つめてきた。
「手、離して」
わたしは言われた通り、そうした。手は自分以外の人の唾液でぬるついていて、気持ち悪い。怜佳は、髪を握ってガムごとぶつっとちぎった。それから、教室の隅で笑っていた彼女の元取り巻きたちに、思い切り投げた。
きゃあ、と叫んだ彼女たちは、逃げ惑って大騒ぎをしている。怜佳はそれを見て不機嫌そうに鼻を鳴らすと、立ち上がって教室から出ていった。
教室を見渡すと、篠原と拓人がそれぞれの席からこちらを見つめていた。拓人は明らかに呆れていた。篠原も困ったようにわたしを見ている。
*
「……人がよすぎると思う」
篠原がパンをかじりながら言う。話を聞いた岸君もうなずく。
「散々自分をいじめてきた相手に、それはないよ」
「そう、かなあ」
わたしは相変わらずのカラフルなお弁当をつつく。今日は寒いからとスープジャーまでついていて、中には味噌汁が入っていた。それをごくりと一口飲むと、わたしの喉からはため息が溢れてきた。
「あそこで無視するのも何だかなあ、と思ってさ」
むしろ無視したらそれはそれで辛い気がする。相手が怜佳であっても。
「町田さん、いつか全財産を他人に寄付して一文無しになりそう」
「岸」
岸君の発言に篠原が怒りを向ける。しかし岸君は止めない
「いやいや、町田さんはいちいち儚いんだよ。人がよすぎるし自分の欲が少ない。だからつけ込まれるんだと思うよ。いじめたがる輩に。もっと確固とした自分の欲望を持って突き進むべきだと思うなあ。おれは」
「やめろよ」
篠原がはっきりと怒った声を出した。けれど、わたしは岸君の言葉がある程度真実だという気がして、自分を形作っているものについて考えざるを得なかった。
わたしを作っているのは、わたしではない。わたしの周りの人たちだ。単純に周りの形に押しつぶされたわたしという形があるだけなのだ。わたし自身は空気人形のようなもので、中は空っぽ。岸君が「儚い」と表現したのはわかる。わたしの存在自体が儚いのだ。
「でもね、わたしは怜佳に親切にしたかったんだ」
険悪な雰囲気だった篠原と岸君がわたしを見た。
「人に親切にしたいっていうのを、一番の自分の気持ちとして持ってちゃ駄目なのかなあ」
それがわたし自身を作るための材料になることは、ありうるだろうか。
「それもいいと思うよ」
篠原はうなずいた。岸君は、少しだけ不満そうだった。
*
担任の田中先生は学期ごとに席替えをさせる人だ。今日も帰りのホームルームで席替えが始まった。
がたごとと机を動かし、ぶつかって謝ったり文句を言ったりしながら移動する。机や椅子が引きずられる音がして、耳障りだ。やっと目的の位置についてほっとしていると、篠原が避けようとしている女子に謝りながら近づいてくるところだった。彼はぴたりとわたしの隣に机を置いた。それから目が合う。
「篠原、ここ?」
「うん」
篠原が笑った。わたしは湧き上がる喜びで飛び上がりそうになっていた。懸命にそれを押さえて、にっこり笑う。
「よろしくね」
「うん」
篠原も嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
わたしは廊下側の真ん中辺りに席があり、篠原はその隣だった。拓人は真ん中の列の最前列、怜佳も最前列で、窓際だ。もう怜佳からいじめられることはなさそうだが、離れられたことに何だかほっとした。嫌な記憶は頭の奥のほうにこびりつくようにして残っているらしい。
篠原の気配を隣に感じ、気持ちが新しくなっていくのを感じていた。何かが起こる気がする。それもいいことが。わたしはすがすがしい気分だった。
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